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安本美典著「最新邪馬台国への道」より
Rev.2 2024.8.6
第一章 第二章 第三章
魏志倭人伝



「魏志倭人伝」の原文は、句読点もなく、章や節などもわけられていない。
つぎにかかげる現代語訳では、全体の構文をつかみやすくするため、三章五十節にわけ、見だしもつけた。

このように章や節にわけてみると「魏志倭人伝」はつぎの三つの章にわけられるような、かなり整然とした構成をしていることがわかる。

第一章 倭の国々
第二章 倭の風俗
第三章 政治と外交

「三国志」の編集の陳寿は、諸種の資料を、そのまま書きうつしたのではなく、一度整理したうえで記したしたとみられる。
 



第一章 倭の国々



1.倭人について戻る
倭人は、(朝鮮の)帯方(郡)(魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近)の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑(国や村)をなしている。もとは百余国であった。漢のとき(中国に)朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通うところは、三十か国である。
2.狗邪韓国戻る
(帯方)郡から倭にいたるには、海岸にしたがって水行し、韓国(南鮮の三韓)をへて、あるときは南(行)し、あるときは東(行)し、倭からみて北岸の狗邪韓国(弁韓・辰韓など十二か国の一つで、加羅すなわち金海付近)にいたる。
3.対馬国戻る
(帯方郡から)七千余里にして、はじめて一海をわたり、千余里で対馬国にいたる。その大官を卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。いるところは絶島(離れ鳥)で、方(域)は、四百余里ばかりである。土地は、山けわしく、深林多く、道路は、禽と鹿のこみちのようである。千余戸がある。良田がない。海(産)物をたべて自活している。船にのり、南北に(出て)市糴(米をかうこと)をしている。
4.一支国戻る
また南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(大海、対馬海峡)という。一大国(一支国の誤り。壱岐国)にいたる。官(吏)をまた卑狗(彦)といい、副(官)を卑奴母離(夷守)という。方(域)は、三百里ばかりである。竹木の叢林が多い。三千(戸)ばかりの家があ る。やや田地がある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)又南北に(出て)市糴している。
5.末盧国戻る
また、一海をわたる。千余里で、末盧国(肥前の国、松浦郷)にいたる。四千余戸がある。山が海にせまり、沿岸にそって居(住)している。草木が茂りさかえ、行くに前の人をみない(前の人がみえないほどである)。(住民は)よく魚や鰒(あわび)を捕える。水の深浅をとわず、みな沈没してこれをとる。
6.伊都国戻る
東南に陸行すること五百里で、伊都国(筑前の国怡土郡)にいたる。 官を爾支(にき)といい、副(官)を泄謨觚(しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸がある。 世々王がある。みな女王国に属している。(そこは帯方)郡使が往来す るときつねにとどまるところである。
7.奴国戻る
東南(行)して、奴国(筑前の国、那の津、博多付近)にいたる。 百里である。官を兇馬觚(しまこ)という。副(官)を卑奴母離(夷守)という。 二万余戸がある。
8.不弥国戻る
東行して不弥国(筑前の国、糟屋郡の宇瀰、いまの宇美町付近) にいたる。百里である。官を多模(玉または魂)といい、副官を卑奴母離(夷守)という。千余戸がある。
9.投馬国戻る
南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。官を弥弥(耳)という。副(官)を弥弥那利(耳成・耳垂か)という。五万余戸ばかりである。
10.邪馬台国戻る
南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。官に伊支馬(いきま)がある。次(官)を弥馬升(みまと)という。(その)つぎを弥馬獲支(みまわき)といい、(その)つぎを奴佳鞮(なかて)という。七万戸ばかりである。
11.女王国より以北戻る
女三(王の誤り)国より以北は、その戸数・道里は略載するを得べきも、その余の旁(わきの国々)は、遠絶していて、つまびらかにしようとしてもできないことである。
12.女王国の境界戻る
つぎに斯馬国(しまこく)がある。
つぎに已百支国(いわきこく)がある。
つぎに伊邪国(いやこく)がある。
つぎに都支国(ときこく)がある。
つぎに弥奴国(みなこく)がある。
つぎに好古都国(をかだこく)がある。
つぎに不呼国(ふここく)がある。
つぎに姐奴国(さなこく)がある。
つぎに対蘇国(とすこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。
つぎに呼邑国(おぎこく)がある。
つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。
つぎに鬼国(きこく)がある。
つぎに為吾国(いごこく)がある。
つぎに鬼奴国(きなこく)がある。
つぎに邪馬国(やまこく)がある。
つぎに躬臣国(くじこく)がある。
つぎに巴利国(はりこく)がある。
つぎに支惟国(きくこく)がある。
つぎに烏奴国(あなこく)がある。
つぎに奴国(なこく)がある。
これは、女王の境界のつきるところである。
(国名の読みの根拠につい ては、安本美典著『卑弥呼は日本語を話したか』[PHP研究所刊]参照)
13.狗奴国戻る
その南に狗奴国(くなこく)がある。男子を王としている。 その官に狗古智卑狗(菊池彦か)がある。女王に属していない。
14.一万二干余里の道程戻る
(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。
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第二章 倭の風俗


15.黥(いれずみ)戻る
男子は、大(人も、身分の高い人も、またはおとなも)小(人も、身分の低い人も、またはこどもも)なく、みな面に黥をし、身に文をして(からだの表面に絵もようを描いて)いる。
古よりこのかた、その使は中国にいたると、みな大夫(一般に大臣)と自称している。
夏(中国古代の王朝)の后(王)少康(夏六代の王)の子は、会稽(いまの浙江省から江蘇省にかけて会稽郡があった)(の地)に封ぜられたとき、(人々は)髪をきり身に文をし、もって蚊竜の害を避けた。
いま、倭の水人(海人)は、沈没をよくして魚や蛤をとらえ、身に文をして、また大魚・水禽をふせぐまじないにしている。のちには、(いれずみを)やや飾りとしている。
諸国の(者の)身を文にする(仕方)は、あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大きく、あるいは小さく、尊卑(の階級によって)差がある。
16.会稽東冶の東戻る
その(倭国との)道里を計(ってみ)ると、まさに会稽(郡)の東冶(県、福建省福州付近)の東にあたる。
17.風俗・髪形・衣服戻る
その風俗は、淫(みだら)でない。
男子は、みなみずら(の髪)を(冠もなく)露(出)している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。
婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。
作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭を つらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)。
18.栽培植物と繊維戻る
禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から 繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸 をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。
19.存在しない動物戻る
その地には、牛、馬、虎、豹、羊、鵲(かささぎ)が(すま)ない。
20.兵器戻る
兵(器)には、矛・楯・木弓をもちいる。木弓は下がみじかく、上が長くなっている。竹の箭は、あるいは、鉄の鏃、あるいは骨の鏃(のもの)である。
21.儋耳・朱崖との類似 戻る
(産物や風俗の)有無するところ、(の状況)は、儋耳(たんじ:郡の名。いまの広東省儋県の西北)・朱崖(しゅがい:郡の名。いまの広東省瓊山県の東南。 この二つの郡は、ともにいまの海南島にある)とおなじである。
22.居所・飲食・化粧戻る
倭の地は温暖で、冬も夏も・生(野)菜を食する。みな徒跣(はだし)である。 屋室があり、父母兄弟で、寝所を別にしている。
朱丹(赤い顔料)をその身体にぬることは、(ちょうど)中国(人)が粉(おしろい)を用いるがごとくである。
飲食には、竹や木製のたかつきをもちい、手でたべる。
23.葬儀戻る
その(地の)死(事)には、棺があって槨(そとばこ)がない。土を封(も)って冢(つか)をつくる。死ぬと、まず喪(なきがら)を停めること十余日、(その)当時は、肉をたべない。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく。すでに葬れば、家をあげて(家じゅう)水中にいたり、澡浴(みそぎ)をする。それは(中国における)練沐(ねりぎぬをきての水ごり)のようにする。
24.持衰戻る
渡海して中国にゆききするときには、つねに一人(の人に)は、頭(髪)を梳(くしけず)らず、しらみを(とり)去らず、衣服は垢(あか)によごれ(たままにし)、肉をたべず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。
これを名づけて持衰(衰は、粗末な喪服)としている。 もし旅がうまく行けば、人々は生口(どれい)・財物を与え、もし(途中で)疾病があり、暴害(暴風雨などによる被害)にあえば、すなわち持衰を殺そうとする。その持衰が謹しまなかったからだというのである。
25.鉱産物戻る
(倭国は)真珠・青玉を(産)出する。 その山には、丹(あかつち)がある。
26.植物戻る
その木には、
(おそらくは、たぶのき)
・杼(こなら、または、とち)
・豫樟(くすのき)・楺(ぼけ、あるいは、くさぼけ)
・櫪(くぬぎ)
・投(東洋史学者の那珂通世氏は「投」を「被」の誤りと し、「杉」とする。苅住昇氏は、「かや」とする。あるいは「松」の誤 りか)
・橿(かし。苅住昇氏は、「いちいがし」とする)
・烏号(やまぐわ。苅住昇氏は、「はりぐわ」に近い「かかつがゆ」とする)
・楓香(かえで)
がある。

その竹には、
・篠(しの。めだけ、ささの類)
・やだけ
・桃支(がずらだけ。苅住昇氏は、「しゅろか」とする)
がある。

・薑(しょうが)
・橘(たちばな。または、こみかん)
・椒(さんしょ う)
・みょうが
があるが、賞味することをしらない。
27.存在する動物戻る
獮猴(おおざる)・黒雉(きじ)がいる。
28.ト占戻る
その(風)俗に、挙事行来(事を行ない、行き来すること、することはなんでもあまさずすべて)云為(ものを言うこと・行うこと)するところがあれば、すなわち骨をやいてトする。そして吉凶をうらなう。まずトうところを告げる。
そのうらないのとき方は(中国の)令亀の法(亀甲に、よいうらないの結果をだすよう命令したうえで行なう亀トの方法)のごとくである。熱のために生ずるさけめをみて(前)兆をうらなうのである。
29.会同・坐起戻る
その会同(集会)・坐起(立ち居ふるまい)には、父子や男女による(区)別がない。
人の性(情)は、酒をたしなむ。(この下に、斐松之の注が記されている。すなわち、「『魏略』にいう。その俗は、正歳四時を知らない。ただ春耕秋収を記して年紀としているだけである。」)
大人の敬をするところ(敬意の表し方)をみると、ただ手をうって(拍手をして)跪拝(ひざまずいて礼拝すること)にあてる。
30.寿命戻る
その(地の)人(たち)は寿考(考は老)で、あるいは百年、あるいは八・九十年ぐらいである。
31.婚姻形態戻る
その(地の)(風)俗、国の大人はみな四・五婦、下戸(庶民)もあるいは二三(人の)婦(をもつの)である。婦人は、淫でない。妬忌(やきもち)もしない。
32.犯罪と法戻る
盗窃(ぬすみ)せず、諍訟(うったえごと)はすくない。その法を犯すや、軽いものはその妻子を没し(て奴碑とし)、重いものはその門戸(家、家柄)を滅ぼし、親族に(まで罪を)およぼす。
33.尊卑の別戻る
尊卑には、おのおの差序(等級)がある。それぞれ上の人に臣服するにたる(臣服するに十分な上下関係の秩序がある)。
34.租税と市戻る
租賦(租税とかみつぎもの)をおさめる。(それらをおさめるための)邸閣(倉庫)がある。国々に市がある(中華書局版『三国志』の句点にしたがえば、「邸閣の国があり、国に市がある」となる)。(たがいの)有無を交易し、大倭(身分の高い倭人)にこれを監(督)させる。
35.一大率戻る
女王国より以北には、とくに一大率(ひとりの身分の高い統率者)をおいて、諸国を検察させている。諸国はこれを畏れ憚っている。
(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。国中において、(その権勢は、中国の)刺史(郡国の政績、状況を報告する官吏。州の長官をさすばあいもある)のごとき(もの)である。
(倭)王の使が京都(魏の都、洛陽)・帯方郡・諸韓国におもむき帰還したとき、(帯方)郡の使が倭国に(いたり)およんだときは、みな津(船つき場)に臨んで 伝送の文書とくだされ物とを照合点検し、女王(のもと)にいたらせるときに、差錯(不足やくいちがい)がないようにする。
36.下戸と大人戻る
下戸が、大人(身分の高い人)と道路にあい逢えば、逡巡(ためら)いながら 草(叢)に入る。
辞をつたえ、ことを説くには、あるいは蹲(うずくま)りあるい は跪(ひざまず)き、両手は地に拠せる(平伏する)。これを(大人に対しての) 恭敬(うやまう態度)となしている。
うけこたえの声には、「噫(おお)」とい う。(それは中国の)然諾(よし。同意、賛成の意)のごときものにく らべられる。
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第三章 政治と外交


37.女王卑弥呼 倭国大乱戻る
その国は、もとまた男子をもって王としていた。
7~80年まえ倭国は乱れ、あい攻伐して年を歴る。
すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼(女王:ひめみこの音を写したとみられる)という。
鬼道につかえ、よく衆をまどわす。年はすでに長大であるが、夫壻(おっと・むこ)はない。
男弟があって、佐(たす)けて国を治めている。
(卑弥呼が)王となっていらい、見たものはすくない。婢千人をもって、自(身)にはべらしている。ただ男子がひとりあって、(卑弥呼に)飲食を給し、辞をつたえ、居拠に出入りしている。
宮室・楼観(たかどの)、城柵、おごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち、守衛している。
38.女王国東方の国戻る
女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭 種である。
39.侏儒国戻る
また侏儒(こびと)の国が、その南に(存)在する。人の長は三・四 尺。女王(国)を去ること四千余里である。
40.裸国・黒歯国戻る
また、裸国(はだかの人の国)・黒歯国(お歯黒の人の国)があり、 またその東南に在る。船行一年でいたることが可(能)であろう。
41.周旋五干余里戻る
倭の地(理)を参問する(人々に問い合わせてみる)に、海中洲島 のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかりである。
42.景初二(三)年の朝献戻る
景初(魏の明帝の年号)2年(238年であるが、じっさいは景初 3年、239年の誤りとみられる。『日本書紀』が引用している『魏志』 および『梁書』『翰苑』は3年とする)6月、倭の女王は、大夫の 難升米(なしめ)等をつかわした。
(帯方)郡にいたり、(中国の)天子(のとこ ろ)にいたって朝献することをもとめた。太守(ここでは帯方郡の長 官)の劉夏は、役人をつかわし、送って、京都(洛陽)にいたらしめ た。
43.魏の皇帝の詔書戻る
その年の十二月、詔書して、倭の女王に報えていう。 「親魏倭王(しんぎわおう)卑弥呼に制詔(みことのり)する。帯方(郡)の太守劉夏は、使をつかわし、汝の大夫難升米(なしめ)・次使都市牛利(としごり)をおくり、汝が献ずるところ の男生口(どれい)四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉じて到らしめた。

汝の在るところははるかに遠くても、すなわち、使をつかわして貢献した。これは汝の忠孝である。我れははなはだ汝を哀れむ(いつくしむ)。いま、汝を親魏倭王となし、金印紫綬(むらさきのくみひも)を仮(あず)ける。装封して(袋に入れて封印して)帯方太守に付して仮授させる。汝、それ種人(種族の人々)を綏憮(なつけること)し、つとめて(天子に)孝順をなせ。

汝の来使難升米・(都市)牛利は、遠きを渉り、道路(たびじ)に(おいて)勤労(よくつとめること)した。いま、難升米をもって、率善中郎将(宮城護衛の武官の長)となし、牛利を率善校尉(軍事や皇帝の護衛をつかさどる官)となす。銀印青綬(あおいくみひも)を仮け、(魏の天子が)引見し、労賜し(ねんごろにいたわり、記念品をたまわり)、還らせる。

いま、絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物)五匹・絳地の縐粟(すうぞくけい:ちぢみ毛織物)十張・蒨絳(せんこう:あかね色のつむぎ)五十匹・紺青(紺青色の織物)五十匹でもって、汝が献ずるところの貢直(みつぎものの値)に答える。また、とくに汝に紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物)三匹・細班華罽(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物)五張・白絹(もようのない白い絹織物)五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)おのおの五十斤をたまう。みな装封して難升米・牛利に付(託)(ことづけ)してある。

還りいたったならば、録受し(目録にあわせながら受けとり)ことごとく(それを)汝の国中の人にしめし、(わが)国家が、汝をあわれんでいるのを知らせるべきである。 ゆえに、(われは)鄭重に好い物をたまわる(与える)のである。
44.正始元年の郡使来倭戻る
正始(魏の斉王芳の年号)元年(240)、(帯方郡の)太守の弓遵は、建中校尉(武官の名称)の梯儁(ていしゅん)などをつかわし、詔書・印綬を奉じて、倭国にいたらしめた。倭王に拝仮(王に任じ、金印をあずける)し、あわせて詔をもたらして、金・帛(しろぎぬ)・錦・罽(毛織物)・刀・鏡・采物(色どりの美しいもの)をたまわった。倭王は、使によって上表し、詔恩に答え謝した。
45.正始四年の上献戻る
その四年(正始四、243)、倭王は、また使の大夫の伊声耆(いしぎ)・掖邪狗(ややこ)など八人をつかわし、生口・倭錦・絳青縑(こうせいけん:あかとあおのまじった絹織物)・緜衣(綿いれ)・帛布(しろぎぬ)・丹・木(もくふ:ゆづか、弓柄で、弓の中央の手にとるところ)・短弓と矢を上献した。掖邪狗などは、壱く(いっせいに)、率善中郎将の印授を拝した(ちょうだいした)。
46.正始六年難升米に黄憧戻る
その六年(正始六、245)、詔して倭の難升米に黄幢(黄色いはた。 高官の象徴)をたまわり、(帯方)郡に付して(ことづけして)仮授せしめた。
47.卑弥呼と卑弥弓呼との不和戻る
その八年(正始八、247)、(帯方郡の)太守王頎(おうき)が、(魏国の)官 (庁)に到着した(そして、以下のことを報告した)。
倭の女王、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(男王の音を、誤り写したか)とは、まえまえから不和であった。
倭(国)では、載斯(さし)・烏越(あお)などを(帯方)郡にいたり、たがいに攻撃する状(況)を説明した。
(郡は)塞の曹掾史(国境守備の属官)の張政らをつかわした。(以前からのいきさつに)よって、(使者たちは)詔書・黄憧をもたらし、難升米に拝仮し、(また)檄(召集の文書、めしぶみ、転じて諭告する文書、ふれぶみ)をつくって、(攻めあうことのないよう)告諭した。
48.卑弥呼の死戻る
卑弥呼はすでに死んだ。大いに冢つかをつくった。径(さしわたし)は百余歩・徇葬者(じゅんそう)の奴婢は百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。
49.女王、壱(台)与戻る
(倭人たちは)また卑弥呼の宗女(一族の娘、世つぎの娘)の壱与(台与。『梁書』『北史』には、台与[臺與]とある)なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。(張)政らは、檄をもって壱与を告諭した。
50.壱(台)与の朝献戻る
壱与(台与)、倭の大夫の率善中郎将掖邪狗(ややこ)ら二十人をつかわし、(張)政らの(帰)還をおくらせた。(倭の使は)よって(そのついでに)、台(ここでは魏都洛陽の中央官庁)にいたり、男女生口三十人を献上し、白珠五千(枚)、孔青大句(勾)珠(まがたま)二枚、異文雑錦(異国のもようのある錦織)二十匹を(朝)貢した。

原文(紹輿本による)

安本美典著『最新邪馬台国への道』より引用。
但し、漢字フォントの都合で表現の一部を改めた。


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