発掘したその遺物・遺跡からは、とてもそのような結論は、みちびきだせないはず。そのデータからでは、とても、そのような発表はできないはず。それでも新開発表などをする。
考古学の分野では、このようなことが、あまりにもしばしばくりかえされてきた。
一定の自説、あるいは、仮説をもつた考古学者たちが、その自説、あるいは仮説に都合のよいように、遺物・遺跡あるいはデータを解釈して、新聞などのマスコミに流す。
新聞などにとりあげられれば、それで、自説は、「証明」されたことになる、と思いこむ。多数意見の形成こそが、すなわち「証明」であると思いこむ。多数意見の形成が、「真実」に転化しうると考える。
かくて、「考古学」という学問の「真実」は、「宣伝」によって保証されると思いこんだ人たちは、ますますそのやり方に熱心になる。旧石器捉造事件などは、この方法の極端な例である。
50万年前、70万年前の旧石器などというバブルがはじけ、空中楼閣、夢物語であることが判明した。教科書にのるほどの多数意見の形成も「証明」にはならない。「宣伝」は、「真実」に転化しえないことが示された。それでもそこから、反省すべきもの、くみとるべきものをくみとらずに、似たような方法をくりかえす。
新開発表などの「宣伝」に重きをおく結果、「検証」や「論理」などが、ますます粗雑に、およそいいかげんになっていく。
やがて、それは、心ある多くの人たちの目にも、あきらかに見えるようになって行く。
旧石器埋造事件のさい、国家予算の配分に力をもちうる立場にいた考古学者で、文化庁主任文化財調査官の岡村道雄氏は、自説を、サポートしてくれるような結果を、捏造してでも出してくれるような機関や人物などに、巨額の国費をそそぎこんだ。国費・国権の、私的利用である。
そして、捏造発覚後は、こんどは、どれが捏造遺跡であるかを検証するための「調査指導機関」にまたまた岡村道雄氏などが名を連ねた。そして、その種の検証のために、またまた億単位の租税が、投入されることになったりする。
国家財政窮迫のおり、国費の切りつめが、強く求められているおり、国民は、いつまでも、このような考古学のお遊びにつきあっていることはできない。
一部の考古学のリーダーあるいはリーダー機関の行動は、しだいに、日本考古学の信用そのもの、あるいは、考古学という学問そのものの存在基盤を掘り崩し、みずからの首を、みずから絞めあげて行くものとなりつつある。
すでに、考古学者の森浩一氏は、「魂を失う考古学」(『魂の考古学』五月書房刊)などで、考古学のあり方に警鐘を鳴らしておられる。
このような警鐘に、耳をふさいでいては、いけない。
責任重大な岡村道雄氏などが、いまだに自粛もせず、活動しているのは、信じられない情景である。本誌では、次号101号において、国立歴史民俗博物館が進めている炭素14年代測定についての検討大特集を組む予定である。
また、新聞人などにも、あまりに不勉強というか、非論理的というか、当然見えるべきものが見えない人たちがいる。そのような人が、『朝日新聞』などの大新聞にもいることにあきれる。
出来ごとが多く、100号にふさわしい文章にならず残念である。
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