景行天皇が、九州を巡幸した話や、熊襲を征討した話は、『日本書紀』にみえるが、『古事記』には記されていない。
『古事記』では、倭建の命の熊曽抹殺の記事が中心となっている。
『古事記』と『日本書紀』との、このような記事内容の違いは、なぜ生じたのか。
これは、『古事記』『日本書紀』の成立事情が関係しているようにみえる。
『古事記』は、その序文にのべられているように、「帝紀(主として天皇家系譜)」をまとめ、「旧辞(伝承)」を調べととのえることを目的としていた。
それは、朝廷内部における家柄による序列(尊卑)をはっきりさせて、秩序の基本としようとするものであった。
それは、また、天武天皇が構想した大規模な国家的修史事業の一環をなすものであったとみられる。
その修史事業は、720年の『日本書紀』の成立によって、一応の完結をみる。
『日本書紀』の天武天皇十年(681年)3月17日条に、「帝紀および上古の諸事を記し定めさせた」の記事がみえる。
『古事記』は、天皇一家の記録を中心とする「家記(家の記録)」「家伝」的で、国内むけの色彩をもつ。それは、おもに、天皇家がわの記憶である。
これに対し、『日本書紀』は、対外関係も意識した史書的な色彩がより強い。
『日本書紀』の編纂にあたっては、外国の文献(たとえば、『三国志』や百済の史書など)も、朝廷内の氏族の資料(たとえば、「持続天皇紀」にみえる18氏の墓記[先祖の事蹟とみられる】など)も、地方資料(たとえば、元明天皇の和銅六年(713)5月の、いわゆる風土記撰進の勅命など)も、集めた。
『日本書紀』の編纂にあたっては、資料を博捜した。
その結果、氏族誌、地方誌などから、景行天皇の地方巡幸の伝承の存在が浮かびあがってきた。
例をあげる。
景行天皇が、上総の国などの東国を巡幸した話は、『日本書紀』の53年の条にみえる。
この巡幸については、のちの時代の資料であるが、『高橋氏文』に、さらにくわしい記述がみえる。
また、『古事記』は、第15代応神天皇は、375年になくなったとされる百済の照古王(近肖古里)と交渉をもったとする記事をのせる。いっぽう『日本書紀』は、応神天皇が、近肖古王から五代あとで、420年になくなったとされる直支王(勝支王)と交渉をもったとする。
これは、百済の直支王と交渉があったとする国内国外伝承を無視できなかったためとみられる。
天皇一代在位平均10年説の立場では、『日本書紀』の記述のほうが妥当である。
『古事記』が古く成立したから、記事内容が、より信頼できるとはかぎらない。『日本書紀』は、多数の人が協力して、資料を博捜している面があるのである。
資料博捜の結果えられた新しい情報を、『日本書紀』は、書き加えた。それが、景行天皇についての『古事記』と『日本書紀』との記述の違いを生みだしたのであろう。
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