なぜ、墓碑が出土しないのか
4世紀〜7世紀の古代天皇陵のほとんどは、盗掘されているとみられる。
千年以上の歳月のあいだには、戦乱の時代もあった。朝廷の権威かおとろえ、盗掘にあうほうがむしろ自然な状態の時代もあったのである。
盗掘の記録の残っている天皇陵がある。犯人が逮捕され、処刑された記録の残っているものもある。
また、すでに、発掘のみられている天皇陵がある。
天皇陵の発掘は、つぎのような事情などにより行なわれている。
たとえば、第26代継体天皇のばあい、宮内庁認定の天皇陵は、比定を誤っているとみられる。真の継体天皇陵は、別にある。それは、今城塚古墳といわれるものである。
そのため、宮内庁認定の継体天皇陵は発掘できないが、真の継体天皇陵とみられる今城塚古墳のほうは、発掘をみている。
発掘をみた天皇陵には、盗掘のあとが残っている。
発掘のみられた天皇陵も、盗掘の記録の残っている天皇陵も、墓誌の出土したものはない。4世紀〜7世紀の天皇陵からは、文字資料が、まず出土しないのである。
第21代雄略天皇の時代に、日本で生まれたとされる百済の武寧王(在位501〜523)の陵が、韓国の忠清南進で発掘されている。そこからは、豊富な副葬品とともに、武寧王のことを、「寧東大将軍百済斯麻王」などと記した刻字墓誌が出土している。
雄略天皇の時代のものとみられる埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、銘文があった。
当時の日本人は、文字を知っていた。そして、天皇陵古墳の大きさからみても、天皇は大きな権威をもっていた。かつ、天皇は、古墳の高い築造技術に示される文化の中心にいた。それなのに、なぜ、文字資料が出土しないのか。
ひとつの理由は、おそらく、つぎのようなものであろう。
天皇の系譜や、天皇陵の場所については、『古事記』『日本書紀』などに記されている。かつ、天皇陵には、陵戸や守戸をおいたので、墓誌を残さなくても、天皇陵が、だれのものかわからなくなることはない。
当時の人は、そのように、素朴に思いこんでいたのであろう。
天皇の権威や記憶の永続性を、疑っていなかったのであろう。そのため、墓誌を残す必要がないと思っていたのであろう。
しかし、それにしても、全国には、全長80メートル以上の前方後円墳が、約550基ある。
天皇陵以外の前方後円墳などから、墓誌が出土してもよさそうに思える。
これも、各地で、口誦集団の語部の氏が、記憶をになっていたために、墓誌を残さなかったのであろうか。
「船王後墓誌」や「小野毛人墓誌」などの墓誌が出土するのは、7世紀の後半ごろからである。
4世紀〜6世紀ごろ、わが国は、墓誌の文化をもたなかったようにみえる。
|