TOP> メッセージ > 一覧 次項 前項 戻る  


 

マスコミの邪馬台国報道を批判する

(季刊邪馬台国117号 巻頭言)                      安本美典



季刊邪馬台国116号
 
●めだつ基本的、肝心な点での誤り●
 一般の関心が大きいためであろうか。マスコミで邪馬台国問題が、とりあげられることが多い。
 しかし、そこでは、基礎的、基本的で、重要かつ、肝心な点での誤りが、あまりにもめだつ。
  そのような誤りを、まとめて、特集なり、連載なりをしてみたいと思うが、ここでは、比較的最近の記事から、本誌のこの号の特集のテーマである纒向遺跡に関係したものを、『朝日新聞』の記事と、『読売新聞』の記事から、一例ずつとりあげる。

■『朝日新聞』の記事
 『朝日新聞』の夕刊は、今年の2月のはじめまでにかけて、10回にわたり、「邪馬台国を求めて」という連載記事をのせている。
 九州説、畿内説などにバランスをとった連載であるが、その8回目の2月4日(月)の夕刊の記事に、つぎのような文がある。
 「3世紀ごろに大小様々な前方後円墳が築かれ、最大級の箸墓(はしはか)古墳(全長280メートル)は卑弥呼の墓との伝承もある。」
  この短い文のなかに、二つの問題点がある。
 まず第一は、箸墓古墳には、「卑弥呼の墓との伝承」などは、まったく存在しないことである。誤りである。
 これに関連するものとしては、つぎの二つがある。
(1)『日本書紀』の記事。
(2)大正時代からの昭和のはじめごろに活躍した考古学者、笠井新也のとなえた「卑弥呼の墓=箸墓古墳」とする学説(笠井新也「卑弥呼の冢墓と箸墓」[『考古学雑誌』第32巻、第7号、1942年〈昭和17〉7月]参照)。
 これは、「学説」であって、「伝承」ではない。
 (1)の『日本書紀』の記事をとりあげる。
 『日本書紀』の用いている年代では、卑弥呼の時代は、神功皇后の時代となる。
 じじつ、『日本書紀』の「神功皇后紀」の39年の条には、「倭の女王」が魏の都(洛陽)に使をつかわしたという『魏志倭人伝』の文章が引用されている。
 この、「神功皇后紀」の39年は、西暦に換算すれば、239年となる。これは、卑弥呼が魏に使をつかわしたと『魏志倭人伝』に記されている年である。(なお、12世紀以後の『魏志倭人伝』の刊本に記されている景初2年[238]遣使の記事は、誤り。書写の年代が9世紀を下らない『翰苑』引用の『魏志』などは、遣使の年を、景初3年「239」と記す。『日本書紀』の「神功皇后紀」の年紀は、『翰苑』などの年紀と一致する。)
  『日本書紀』の編者は、『魏志倭人伝』を読んだうえで、卑弥呼に神功皇后をあてているのである。
 したがって、『日本書紀』によって、卑弥呼の墓を求めるならば、神功皇后の墓をあてなければならない。
 しかるに、『日本書紀』によれば、神功皇后の墓は、「狭城盾列(さきのたたなみ)の陵(みささぎ)」(『陵墓要覧』に、「奈良市山陵町(みささぎちょう)」とする)である。これは、奈良県桜井市にある箸墓古墳とは、場所がまったく異なる。
 「卑弥呼の墓=神功皇后の墓という伝承がある」、というのならば、『日本書紀』の記述にもとづくものとして、まだ根拠のないことではない。
 しかし、箸墓古墳は、神功皇后の墓ではない。
 また、『日本書紀』の「崇神天皇紀」には倭迹迹日百襲姫を箸墓にほうむったという記事がみえる。
 しかし、つぎのような問題がある。
(1)崇神天皇の時代は、卑弥呼の時代ではない。
(2)『日本書紀』では、倭迹迹日百襲姫が、卑弥呼であるとはされていない。
(3)『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだのち、「更(あらた)めて男王を立てた」とある。『後漢書』に、「年を歴(へ)るも主なし。一女子あり。名を卑弥呼という。ともに立てて王となす。」とある。『魏志倭人伝』にも、「もと、また男子をもって王となす。倭国乱れて、あい攻伐すること年を歴(へ)たり。すなわち、ともに一女子をたてて王となす。名づけて卑弥呼という。」
 これらの記事によれば、卑弥呼の時代には、男王はいなかったことになる。
 倭迹迹日百襲姫の時代は、れっきとした天皇、崇神天皇の時代である。男王がいたことになる。
 『日本書紀』は、記事内容も、倭迹迹日百襲姫が、卑弥呼であるようには、描いていない。
(4)さらに『魏志倭人伝』は、卑弥呼には「夫婿なし」と記している。夫が、いなかったというのである。
 しかるに、『日本書紀』の記す倭迹迹日百襲姫には、夫がいた。『日本書紀』には、「(倭迹迹日百襲姫命が、)妻(みめ)となる。」「夫(せな)に語りて日わく『君、つねに昼は見えたまはねば(おいでにならないので、)」などの文がある。
 倭迹迹日百襲姫の時代には、崇神天皇という君主がいたばかりではなく、倭迹迹日百襲姫には「君」と呼ぶべき夫がいたのである。卑弥呼の姿には、ふさわしくない。
 本誌『季刊邪馬台国』は、このような基礎的なことがらを、何度くりかえして書かなければならないのか。
 大新聞が、邪馬台国についての記事を書くのなら、もっときちんとしらべて書いていただきたい。
 新聞の記事の影響は、大きいのであるから。
 あるいは、つぎのような意見があるかもしれない。
 「学説」も、「伝承」も、大差ないではないか、と。
 しかし、「伝承」と記せば、なにか、その土地に、昔からの言いつたえがあったようにうけとれる。
 学問でも、科学でも、あるいは、法律でも、きちんとした推論を行なう必要のある分野では、語の用いかたの厳密なるを要す。
  右も、前も、後も、左も、いっしょにするような議論では、邪馬台国を求めても、けっして正しい場所にたどりつくことはできない。
 いま一つの問題点は、さきの『朝日新聞』の記事では、「3世紀ごろに大小様々な前方後円墳が築かれ、最大級の箸墓古墳は・・・・」と、あたかも、箸墓古墳の築造年代が、3世紀ごろにほぼきまっているような書きかたになつていることである。
 しかし、箸墓古墳の築造年代については、4世紀の中ごろとする奈良県立橿原考古学研究所の所員であった考古学者、関川尚功(せきかわひさよし)氏などの、有力な見解がある。  せめて、「3〜4世紀ごろに大小様々な前方後円墳が築かれ、・・・・」としなければ、公平な記事とはいいがたい。
 古墳時代は、おもに、4世紀で、「3世紀ごろに大小様々な前方後円墳が築かれ、・・・・」というのは、ある特定の学説にもとづくもので、かなりな問題がある。

■『読売新聞』の記事
 『読売新聞』の、2012年6月10日(日)に、「邪馬台国に科学の目」という記事がのっている。
 そこにつぎのような文章がある。
 「『炭素14』で測定
 畿内説を支持する『物証』のひとつが、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡にある全長280メートルの箸墓古墳だ。最古の巨大前方後円墳で、卑弥呼の墓ではないかと注目を集めている。
 この古墳ができた年代に科学の光をあてたのが、国立歴史民俗博物館のグループだ。炭素14を使った年代測定で、築造は240〜260年と推定された。卑弥呼が没したとされる247年ごろに一致する。」
 本誌を継続してお読みいただいている方々は、ほとんど、ばかばかしい記事であると思うであろう。
 「歴博研究グループ」の炭素14年代測定法の報告なるものは、日本考古学会協会の会員であれば、だれでもが発表できる15分ほどの発表と、マスコミへの事前リークを行なったものにすぎない。そして、日本考古学協会での発表のさいも紛糾したものである。当時の『毎日新聞』も、「会場からはデータの信頼度に関し、質問が続出した」と報じている2009年6月1日付)。その後、2010年3月27日(土)に、大阪大学で開かれた日本情報考古学会というこの分野の専門の学会での公式のシンポジウムでは、歴博研究グループの発表は、方法も結論も誤りであると、ほとんど全面的に否定されている。また、確実な反証が示されている。このシンポジウムの内容は、日本情報考古学会の機関誌『情報考古学』のVol.16、No.2(2010年刊)以下に、連載で掲載されている。
 日本情報考古学会は、統計学者で同志社大学教授の村上征勝(むらかみまさかつ)氏(もと、文部省統計数理研究所・総合研究大学院大学教授)が会長で、理系の人の発表や、コンピュータによる考古学的データ処理などの発表も多く行なわれている。炭素14年代測定法などの検討には、もっともふさわしい学会といえる。
 「歴博研究グループ」の箸墓古墳についての炭素14年代測定は、おもに、「土器付着炭化物」を、試料として用いている。ここに、大きな問題がある。同じ箸墓古墳出土の試料でも、桃核(桃の種の固い部分)では、80年ていどは、年代が新しくでている。桃核試料を用いれば、箸墓古墳の築造年代の推定値は、おもに4世紀ということになる。
 さきに紹介した大阪大学での、日本情報考古学会のシンポジウムで、名古屋大学年代測定総合研究センターの中村俊夫教授はのべている。
 「炭素14年代を測定する対象によって、信頼度という点においてだいぶ違うことがあります。本日は、かなり土器付着炭化物の年代測定が叩かれておりましたけれど、確かにおっしゃるように年代測定してみると、試料によっては、例えば北海道産の土器付着炭化物試料は確実に実際の年代よりも古くなる傾向にあります。」
 「最適な試料は陸産植物ですね。しかも単年生のもの(ある特定の一年に生じたもの)。」
 「例えば今日、私か十点測って誤差の範囲内で非常によく一致するという話をしましたけれど、あれはオニグルミ(野生のクルミ)です。(中略)ああいった保存の良い試料については心配なく測れる。」
 「それに対して、土器付着炭化物というものは、何を煮炊きして出来たものかよく分かりません。例えば、海産物起源のものですと、海の炭素リザーバーの影響が出てきまして、先ほど言いましたように、古い年代が得られる可能性が非常に高くなる。」
 「試料の処理の仕方ですが、試料の化学洗浄処理をすると、土器付着炭化物が溶けて無くなってしまうので、少しお手柔らかにしようという風に手加減してやると、例えば試料に後から付着混入したものが充分に排除し切れないという問題が起こり得ます。そんな訳で、炭素14年代測定を依頼される方も、あるいは提出された年代を自分の理論に利用される研究者も、年代値を使われる際には、それがどんな試料を基に出た年代値であるのか、それが信頼できるのかどうか、自分の希望したぴったりの年代値が出てきたからといって、それに飛びつくことなく、冷静に判断して頂ければと希望します。」(以上、『情報考古学』Vol.18、No.1・2、2012年刊による。)
 この大阪大学での情報考古学会でのシンポジウムでは、箸墓古墳の出土物の炭素14年代測定値について、重要な指摘が行なわれているとみられるが、マスコミはほとんどとりあげることがない。
 数理考古学者の新井宏氏は、「土器付着炭化物」の年代が古くでる理由として、炭化物が、活性炭のような性質をもち、土壌に含まれるフミン酸やフルボ酸などの腐植酸を吸収しやすい傾向をもつことをのべておられる。 そして、新井宏氏は、「(土器付着炭化物は、年代が、) 古く出ているか否か」の問題は卒業して、土器付着炭化物を試料として用いると、「なぜ古くでるのか」の問題に、関心が集中する段階であるという。
 最近の報道のうち、もともとの発信者の一定の意図により、客観的事実が汚染されているものの筆頭が、箸墓古墳の年代についての「歴博研究グループ」による炭素14年代情報である。これは、マスコミ報道が先走りしたもので、関係学界での検討・認知をうけていない。この年代情報は、試料の選択における重要な欠陥をもつ。
 誤りを増幅している記事が多く、公平な視点からの記事がすくない。『週刊文春』の2009年10月22日(木)の『朝日新聞』批判の記事が、わずかに、歴博研究グループの用いた試料のおかしさにふれている。
 発信者も、誤情報を増幅させている記事も、軽蔑すべきである。
 ここで、先に例としてあげた『朝日新聞』の記事も、『読売新聞』の記事も、ともに、箸墓古墳のことをとりあげていることに注目する必要がある。
 つまり、こういうことである。
 ある自説を主張するばあいは、学会で十分な検討をうけるよりも、まず、マスコミに売りこんだほうが、手っとりばやい。それによって、多数意見を形成するのが、反対意見をおさえるのに有利である。
 マスコミで一度とりあげられたならば、それは、マスコミ伝説となってひろがっていく。
 マスコミ人は、過去の情報などを検索するであろうが、それはマスコミで発表されたものの範囲で、情報を検索することになりやすい。
 かつてマスコミ報道をされたものを、無意識のうちにくりかえすことになっていないか。
 むかし、「天動説」と「地動説」とのあいだの論争というのがあった。
 「太陽が地球のまわりをまわっている」と考えるか、「地球が太陽のまわりをまわっている」と考えるかの論争である。
 現在では、「地動説」のほうが正しいと考えられている。 地球のほうが動いていると考えるのである。
 いま、かりに現代人で、「やはり天動説のほうが正しい」と考えた人がいて、つぎのような方法で、「天動説が正しい」ことを「証明」したとする。
 この「証明」の方法は、どこが、誤っているのだろう。
 「天動説を証明する方法 朝、ビデオカメラを東のほうにむける。太陽が、山の端から出てくる状況を一時間にわたって写す。たしかに、太陽は動いている。山の端からしだいにはなれていっている。したがって、『天動説』が正しい。百聞は一見にしかず。」
 これは、「一見」正しいようにみえて、正しくない。 それは、ここで観測された現象は、「地動説」の立場にたっても、説明できてしまうからである。
 つまり、有力な反論、あるいは、反証を検討していない、という点で「科学的」ではない。
  いくら、最新のビデオカメラで、克明に撮影したとしても、その結論は、正しくない。
 それと同じように、国立歴史民俗博物館グループの年代測定論は、有力な反論や反証を検討していない、という点で、「科学的」ではない。「科学の光」をあてたことにもならない。
 『読売新聞』は、大阪大学での情報考古学会のシンポジウムで示されているような、有力な反証、あるいは、反論などを無視したまま記事をまとめている。
 iPS細胞を利用した心筋移植手術が、米国ですでに行なわれ、成功していた・・・という、森口尚史(ひさし)氏の発表を報じた『読売新聞』の大誤報を、ついつい連想しては失礼だろうか。
 構造としては、はなはだよく似ている。
 森口氏は個人だから叩かれ、国立歴史民俗博物館は大きな組織であるから、学会では叩かれても、新聞では叩かれないのか?
  とにかく、マスコミに売りこみたい人たちがいる。森口氏と同じく、マスコミに売りこんだものが勝ちと考える人たちがいる。
 それに、十分な検討をせず、簡単にのる記者たちがいる。
 学術的、科学的な検討・証明よりもまず、マスコミによる宣伝を優先するマスコミ便乗主義的考古学者たちの体質。
 かくて、学問や科学による検討がなおざりにされ、汚染情報がマスコミの威力で、世にひろがっていく。マスコミが、誤情報や、怪しげな情報の増幅拡大装置となる。 旧石器捏造事件のばあいと、同じ構図である。
 旧石器捏造事件がおきたとき、人類学者で、国立科学博物館人類研究部長(東京大学大学院理学系生物科学専攻教授併任)の馬場悠男(ばばひさお)氏がのべている。
 「経験から見ると、国内外を問わず、何ヵ所もの自然堆積層から、同じ調査隊が、連続して前・中期旧石器を発掘することは、確率的にほとんどあり得ない(何兆分の一か?)ことは常識である。
 だからこそ、私は、東北旧石器文化研究所の発掘に関しては、石器自体に対する疑問や出土状況に対する疑問を別にして、この点だけでも捏造と判断できると確信していたので、以前から、関係者の一部には忠告し、拙著『ホモ・サピエンスはどこから来たか』にも『物証』に重大な疑義があると指摘し、前・中期旧石器発見に関するコメントを求められるたびに、マスコミの多くにもその旨の意見を言ってきた。
 しかし、残念ながら、誰もまともに採り上げようとしなかった。とくに、マスコミ関係者の、商売の邪魔をしてもらっては困るという態度には重大な責任がある。」(以上、『検証・日本の前期旧石器』春成秀爾緇、学生社2001年刊)
 漢来(きた)らば漢の旗をかかげ、胡(こ)来たらば胡の旗をかかげるというような付和雷同体質では困る。大新聞の記者たちが、不勉強なまま、権威をもっていそうなもの、多数意見であるようにみえるものになびく、というのでも大変困る。
 失敗に懲(こ)りない性質、学ばない性質も困る。
 きちんと、みずから事実をたしかめ、考え、有力な反証や反論が出ていないか、よく調査したうえで、報道してほしい。
 そうでなければ、特に、セミプロ級の人たちも多く存在する邪馬台国については、インターネットなども普及してきている時代、新聞はやがて、信用をうしなう。
 学問上、科学上の問題は、無責任に、お祭りさわぎをすれば解決をえられるということには、けっしてならない。祭りさわぎは、問題の解決を阻害する。
 有力な反証も提出されているのであるから、「卑弥呼の墓とする説もある箸墓古墳」というような書きかたも、ご遠慮いただきたい。「説もある」と記したとしても、くりかえされれば「卑弥呼の墓」「箸墓古墳」という条件反射を生じさせることになる。誘導性をもつ。もはや、「箸墓は、卑弥呼の墓という説がある」という情報の強調のしすぎになっている。読者に先入観を与え、学校伝説、都市伝説ならぬマスコミ伝説を生じさせるようになっている。伝説は、問題を粗雑化させるだけである。「説もある」だけなら、北九州の「平原古墳」も、卑弥呼の墓とする説がある。なぜ、そちらは無視できるのか。公平な記事とは、いいがたい。
 黒塚古墳発掘の指導者であった奈良県立橿原考古学研究所の河上邦彦氏は、当時のべている。
 「ここでしっかり書いておいて欲しい。新聞に書かれた各説がウソばっかりだと。」(『東アジアの古代文化』 1998年春・95号)
 「ウソばっかりだ」では、読者に情報を与えるはずの新聞が、かえって、問題の解決を複雑化させていることになる。


 みなさん。この「巻頭言」の文章は、どんどん、インターネットで流して下さって結構です。『季刊邪馬台国』掲載の文章とことわったうえで、自由に転載・引用・ご紹介下さい。
 誤った情報を正すことにご協力下さい。
 ウィルスにはワクチンが必要です。あーあ、「大新聞がウィルスを培養・散布」しては困るな。
 しかし、これは、マスコミの伝えない、インターネット界のニュースになりえます。
 考古学村がカルト化し、マスコミがそれに感染して、宣伝・流行の道具となるという、すこし異様な状態になっています。
 カルトにだまされた人は、はじめは被害者です。しかし、やがて被害者じたいがウィルスとなり、加害者に転化していきます。それで、死刑になった人もいる。要注意。
 ウィルスもカルトも同じ構造です。「失敗の本質」は、第二次世界大戦のときの日本陸軍のばあいも、旧石器捏造事件のばあいも同じです。だまされる人も悪い。責任を生ずる。免疫を身につけましょう。
  TOP> メッセージ > 一覧 上へ 次項 前項 戻る