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対立と融和

(季刊邪馬台国139号 巻頭言)                      編集部



季刊邪馬台国139号
 土器や金属器、墳墓や装飾器などの違いから、古代日本には複数の文化圏があったことが示唆されている。
  「其の南には狗奴国有り。男子を王と為す。其の官には狗古智卑狗有り、女王に属せず」
  「倭の女王と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、素より和せず」
  魏志倭人伝には、女王卑弥呼を頂く邪馬台国連合の存在と、男王卑弥弓呼を頂く狗奴国の存在が語られている。この二国間には、おそらく明確に文化の違いもあったのだろう。しかし、女王国が後の大和政権につながる連合国だったとすれば、そのライバルともいえる狗奴国はどこへ行ってしまったのだろうか。その足跡は、あるいは出土物から考古学的に、あるいは記紀や中国の史書から文献史学的に、あるいは人骨のDNA解析などによって科学的に辿ることができるのかもしれない。狗奴国の足跡を辿ることは、その所在地を比定することで、狗奴国の北にあったとされる邪馬台国の所在地を求めることはもとより、古代における異文化との対立と融和という国家形成へのプロセスを辿ることにもつながるように思える。
  いずれにしても、日本には古代より各地に独自の文化を形成する「兄弟」たちが存在し、飛鳥〜奈良時代にかけてひとつの国家としてまとまりを見せていった。その過程として、武力による制圧もあれば、文化交流・異文化許容による融和、現代的にいえばダイバーシティ、すなわち多様性を認めるというかたちで異文化が融和し、新しい文化文明を築いていくこともあったのかもしれない。
  人はなぜ争うのか。個人間での争いではなく、集団対集団の争いはなぜ起こるのだろうか。利害関係の対立の延長が戦争であるとすれば、その利害関係とはなんであろうか。ただ生きるためだけなら、ここまで人類が争いあうこともなかったのかもしれない。しかし、人類は生存の営みのなかで文化とアイデンティティを育んでいった。文化の剥奪、アイデンティティの喪失は時として死よりも恐ろしいものだったのかもしれない。古代の日本で対立した女王国のライバル、狗奴国の残映を追うことは、亡国への手向けであると同時に、現代の我々にも流れるであろう狗奴国のDNAと想いを継承することとは言えまいか。

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