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データサイエンスが解く邪馬台国 |
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本書「はじめに」より |
最近、奈良県を中心とする近畿で、長年考古学研究にたずさわって来た方々により、邪馬台国は九州にあったとする見解が、相次いで発表されている。 2020年の2月に、奈良県立橿原(かしはら)考古学研究所の企画学芸部長の坂靖(ばんやすし)氏著の『ヤマト王権の古代学』(新泉社)が刊行された。 坂靖氏は、「邪馬台国大和説」と「邪馬台国北部九州説」との要点を紹介したのち、次のように述べる(引用文にも読みやすいように適宜振り仮名を付した)。 「私は、後者の邪馬台国北部九州説にたつ。 これまで述べてきたとおり、弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料はほとんど知られていない。楽浪(らくろう)系土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。」 「邪馬台国の時代、すなわち庄内(しょうない)式期においても、魏(ぎ)と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。邪馬台国の所在地の第一候補とされる纒向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。」 「さらには、女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纒向遺跡にそのような場所を認めることはできない。」 坂靖氏と同じく、奈良県立橿原考古学研究所の所員であった関川尚功(せきがわひさよし)氏は、纒向遺跡についての、大部の報告書『纒向』(橿原考古学研究所編)をまとめられたお一人である。報告書『纒向』は、2冊で800ページをこえ、2冊の厚さは計9センチをこえる。 関川尚功氏は、2020年の9月に、「考古学から見た邪馬台国大和説〜畿内ではありえぬ邪馬台国〜』(梓書院)という本を出しておられる。この中で、くわしく根拠をあげ、以下のように述べる。 「これまで、邪馬台国に関わると思われるいくつかの考古資料からみた近畿大和の状況をほかの地域と間接的ではあるが比較を行ってきた。ここで感じられることは、一言でいえば、弥生時代から庄内期に至るまでの北部九州地域の圧倒的ともいうべき卓越した内容である。」 「このような実態をみれば、3世紀頃の奈良盆地において、北部九州の諸国を統属し、魏王朝と頻繁な交流を行ったという邪馬台国の存在を想定することはできない。大和地域の遺跡や墳墓、そして各種の遺物にみる考古学的事実の示すところは、明確に邪馬台国の大和における存在を否定している、と言わざるを得ないのである。」 「これまでの邪馬台国大和説というものは、実際の大和の遺跡や古墳が示す実態とはかなり離れたところで論議が行われているような印象を受ける。」 「大和説自体が、大和の実情を検討した結果とは、とても思えないのである。」 「最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。」 「西日本各地域の有力な弥生墳墓の在り方をみると、やはり北部九州で最も早く出現し、また銅鏡などの中国製品を持つ副葬品内容も突出して多い。これに次ぐものとして、瀬戸内地方や山陰・北陸など日本海沿岸地方にみられる大型の墳丘墓がある。これらの地域でも『王』と思われる有力首長の存在が、墳墓により確認されている。このような弥生墳墓による大和と北部九州・西日本地域との比較をみると、その差は歴然としていることが分かる。」 「大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。そこに邪馬台国の卑弥呼が得た『銅鏡百枚』の影は、とうていうかがうことはできないのである。大和では弥生時代の銅鐸と、古墳に副葬される銅鏡との間には、大きな断絶がある。」 「邪馬台国大和説の前提条件である、弥生時代の近畿において中国王朝より得た多数の銅鏡が古墳時代まで保有され、古墳に副葬されるという「鏡の伝世」については、とても理解されるものではないであろう。」 関川氏の議論は、実情に即したもので、着実な論考といえるものである。思いこみにもとづいて導入された無理な仮説や、推論の飛躍がない。 すでにいまから16年前の05年に、前・奈良県桜井市教委文化財課長(当時)の清水眞一氏は、次のように述べている。 「 大和には”巨大ムラ”がない 私は二十年間、大和の中央部・桜井市で、『邪馬台国は何処』とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような『ムラ』や『墓』が見られないことに気付いた。 代表的なムラである唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡も、畿内の同時期の池上曽根遺跡や田能(たの)遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。 であれば、その次の古墳時代に入って、纒向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと考えざるを得ない状況であるとみた。 では、誰が何処からきたのか? 考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。」(「佐賀新聞」2005年9月26日付) 同じ紙面で関西外国語大学教授の考古学者、佐古和枝(さこかずえ)氏も、次のように述べる。 「『魏志』倭人伝では、倭人の武器に矛(ほこ)や鉄鏃(てつぞく)が挙げられている。この時期、畿内には矛に相当する武器はないし、畿内の鉄器の出土総数は、北部九州や山陰の一遺跡の出土数にも及ばないほど貧弱である。 さらに、諸国を監察する『大率(だいそつ)』が伊都(いと)国に常駐すること、女王国の東に海を渡ると倭種の国があることなどをみれば、『魏志』倭人伝にいう『倭人』や『倭国』、『女王国』は北部九州社会のことと考えるのが妥当であろう。東の海の向こうにいる倭種の話ではないから(『倭人伝』)。そう考えれば、「倭国乱」も『邪馬台国』も、北部九州での事柄だということになる。 邪馬台国の所在地は、考古学的な事実関係と『魏志』倭人伝との整合性のなかで考えるべきである。」 このように、いまから16年前と現在とで、基本的な状況は、とくに、変わっていない。この間に、奈良県から、邪馬台国など倭(わ)と倭人(わじん)について記した古代中国の史書『三国志』の中の『魏志倭人伝』の記述と結びつく特別の遺物・遺構が、新たに出土したという事実はない。 以上に紹介した方々のほか、三重大学の教授で、以前は、奈良国立文化財研究所の主任研究官であった考古学者、小澤毅(おざわつよし)氏や、奈良県立橿原考古学研究所の企画部長であった考古学者、入倉徳裕(いりくらのりひろ)氏なども、邪馬台国九州説の立場をとっておられる。 このようにみてくると、奈良県などで、実際に発掘にあたった考古学者で、「邪馬台国九州説」の立場をとっておられる方々は、けっしてすくなくない。 (続く) |
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