■ 文献上の神代三山稜の所在地
古事記記載の名 | 『古事記』 | 『日本書紀』 |
『延喜式』 |
邇邇芸の命 | 記載なし | 筑紫の日向の可愛(埃)之山陵 | 在日向国無陵戸 |
穂穂手見の命 | 高千穂の山の西 | 日向の高屋山上陵 | 在日向国無陵戸 |
鵜葺草葺不合の命 | 記載なし | 日向の吾平山上陵 | 在日向国無陵戸 |
■ 邇邇芸の命(ににぎのみこと)の可愛の山稜(えのみささぎ)
可愛の山稜の伝承地は8箇所もあるが、1番の有力候補である川内市の可愛の山稜について解説。
川内市の可愛の山稜の地域の中にも、瓊瓊杵の尊の陵の伝承をもつ場所が複数ある。
- 新田八幡宮
新田八幡宮の正殿の前と後に陵墓がある。
正殿の前の陵が、宮内庁の認めるオフィシャルな可愛の山稜である。当時の学者の意見をもとに、明治天皇が裁可した。
- 中の陵
新田神社から北西約300mのところにあり、山上に小社(中陵神社)がある。
このなかに神鏡を一面おさめているが、年代が古く破損しているので、全体がはっきりわからない。
陵のいただきには石のかこみなどはなく、粗末な感じである。また瓊瓊杵の尊の陵であるとする伝承のほかに、瓊瓊杵の尊の長子、天の火照の命の陵であるとする言い伝えもある。
- 端の陵
墳丘は小丘を利用している。現在、丘上に小社をたて、神鏡一面を安置し、石の柵をめぐらしてある。
石の柵の東北の隅に、ひとつの石棺の蓋だけがあらわれており、その蓋が、何枚かの扁平な石を中央が高くなるように、甲のように積み上げられている。
■ 地下式板石積石室か?
端の陵の石棺の蓋の形状は、川内川流域に数多くみられる特殊な墓「地下式板石積石室墓」とそっくりである。
「地下式板石積石室墓」は、川内川流域、不知火海沿岸、人吉盆地、五島列島をふくむ西九州沿岸に広く分布している。
この墓の構造は石室の内部は空洞ではなく、土がぎっしり詰まっている。
つまり土葬して、その周囲を板石で囲んでおり、地上に特別な埋葬施設(めじるし)がない。これらすべての面で、畿内型の古墳とは明らかに異なっている。
石室の形式には方形と円形との二通りあり、方形石室は海岸地帯に、円形石室は内陸部に分布している。このうち、方形石室のほうが源流である。
■ 端の陵は前方後円墳か?
1987年に、川内市歴史資料館と鹿児島市の黎明館が実施した地形調査の図面のデータによると、端の陵は、前方部の端先がバチ状に開いた前方後円墳の形になっている。
奈良県には、石をたくさん使っている古い古墳がある。板石をふんだんに使っている端の陵は、奈良地方の竪穴式石室の原型である可能性もある。
つまり、端の陵は、地下式板石積石室墓でありながら、前方後円墳でもある、と言うことが可能なのかもしれない。
端の陵の被葬者については、ニニギノミコトの妃、アタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)の墓と言われているが、文献によっては、被葬者が異なっている。