TOP>活動記録>講演会>第211回 一覧 次回 前回 戻る  


第211回 
神代三稜の謎その1
瓊瓊杵(ニニギ)の命の稜の伝承地


 古代史探究・7つの流派           

日本古代史についての諸説を、7つの流派として整理して紹介する。 今回は前回につづく四つの説明。
  1. 卑弥呼は大和朝廷と無関係の九州の女酋あるいは政治権力者である。 (本居宣長の流れ)
    本居宣長 江戸時代中期の国学者、本居宣長は、著書『馭戎概言(ぎょじゅうがいげん)』で、『古事記』『日本書紀』などの古典の記述をほぼそのまま信じる立場から、「魏に使いを出したのは、筑紫の南の方で勢力をもつ、熊襲などの類が、女王(神宮皇后)の名前が諸外国にまでなりひびいているので、その使いであると偽って、勝手に使ったものだ」と解釈した。

    歴史地理学者の吉田東吾はその著『日韓古史断』で「卑弥呼=南九州(熊襲)の女酋」説をとなえて、卑弥呼の時代を開花天皇、祟神天皇のころから150年ばかりのあいだとしている。

  2. 卑弥呼は九州の女王である。 (鶴峰戌申・近藤芳樹の流れ)
    卑弥呼=九州の女酋説を発展させ、九州に一つの国家あるいは王朝が存在し、卑弥呼はその女王とする説である。
    本居宣長の学説を受け継いだ、江戸後期の鶴峰戊申(つるみねしげのぶ)は、著書『襲国偽僭考』の中で、卑弥呼は九州の「襲の国」という国家の女王であるとした。近藤芳樹更に、「倭の五王」も「襲」の国の王であったとしている。

    やはり、江戸後期の近藤芳樹は『征韓起源』を著し、このなかで、「大和朝廷とは別の、熊襲の勢力が九州にあり、筑紫を領して倭王を名乗っていた。」と述べる。

    この説は、その後、古田武彦氏によって受け継がれている。

  3. 存して、論ぜずして可なり。 (山片蟠桃の流れ)
    江戸後期の大阪の町人学者の山片蟠桃は主著の『夢の代(しろ)』で、商人的実証主義の立場から、「日本の神代のことはそこに存在しているままにして、議論しないのが良い」とした。 山片蟠桃

    「不合理な記述をふくむものは、歴史を構成する資料として、認めるべきではない。」とする山片蟠桃の考えかたをうけついだのが津田左右吉である。
    津田は、『古事記』『日本書紀』は第29代の欽明天皇の時代に皇室が日本を統治するのを正当化するためにつくりあげられたものであり、神話は事実を記したものではないとした。

    戦後の井上光貞、家永三郎、藤間生大、水野祐、直木孝次郎、門脇禎次などの諸氏の研究はこの考え方の流れに立っている。

  4. 事物・言語みな韓俗なり。  (藤原貞幹の流れ)
    江戸の考証学者の藤原貞幹は『衝口発(しょうこうはつ)』で、神代の年数は信ずべきでないこと、『日本書紀』の神武天皇元年は600年繰り下げれば、朝鮮・中国の史書と年代があうこと、日本語の多くは朝鮮語、中国語にもとづくこと、古代の日本文化は朝鮮・中国からきたことなどを述べる。

    彼の考証は雑駁であるが、その着眼点はきわめ斬新であり、文化人類学、年代論、日本語の比較言語学的研究の先駆をなすものである。

    この考え方は金沢庄三郎の「日韓同祖論」、江上波夫の「騎馬民族征服説」、小説家の坂口安吾の天皇の出自は朝鮮説、北朝鮮の歴史家の金錫亮の奴国、邪馬台国の朝鮮移住民説につながる。


 邇邇芸の命(日本書紀では瓊瓊杵の尊)の稜の伝承地             

■ 文献上の神代三山稜の所在地
古事記記載の名『古事記』『日本書紀』 『延喜式』
邇邇芸の命記載なし筑紫の日向の可愛(埃)之山陵在日向国無陵戸
穂穂手見の命高千穂の山の西日向の高屋山上陵在日向国無陵戸
鵜葺草葺不合の命記載なし日向の吾平山上陵在日向国無陵戸

■ 邇邇芸の命(ににぎのみこと)の可愛の山稜(えのみささぎ)
神代の系図と山稜
可愛の山稜の伝承地は8箇所もあるが、1番の有力候補である川内市の可愛の山稜について解説。
可愛の山稜の伝承地
川内市の可愛の山稜の地域の中にも、瓊瓊杵の尊の陵の伝承をもつ場所が複数ある。
  1. 新田八幡宮
    新田八幡宮の正殿の前と後に陵墓がある。
    正殿の前の陵が、宮内庁の認めるオフィシャルな可愛の山稜である。当時の学者の意見をもとに、明治天皇が裁可した。

  2. 中の陵
    新田神社から北西約300mのところにあり、山上に小社(中陵神社)がある。
    このなかに神鏡を一面おさめているが、年代が古く破損しているので、全体がはっきりわからない。
    陵のいただきには石のかこみなどはなく、粗末な感じである。また瓊瓊杵の尊の陵であるとする伝承のほかに、瓊瓊杵の尊の長子、天の火照の命の陵であるとする言い伝えもある。

  3. 端の陵 墳丘は小丘を利用している。現在、丘上に小社をたて、神鏡一面を安置し、石の柵をめぐらしてある。
    石の柵の東北の隅に、ひとつの石棺の蓋だけがあらわれており、その蓋が、何枚かの扁平な石を中央が高くなるように、甲のように積み上げられている。川内市の可愛の山稜
   ■ 地下式板石積石室か?

端の陵の石棺の蓋の形状は、川内川流域に数多くみられる特殊な墓「地下式板石積石室墓」とそっくりである。
「地下式板石積石室墓」は、川内川流域、不知火海沿岸、人吉盆地、五島列島をふくむ西九州沿岸に広く分布している。

この墓の構造は石室の内部は空洞ではなく、土がぎっしり詰まっている。 つまり土葬して、その周囲を板石で囲んでおり、地上に特別な埋葬施設(めじるし)がない。これらすべての面で、畿内型の古墳とは明らかに異なっている。

石室の形式には方形と円形との二通りあり、方形石室は海岸地帯に、円形石室は内陸部に分布している。このうち、方形石室のほうが源流である。

■ 端の陵は前方後円墳か?

1987年に、川内市歴史資料館と鹿児島市の黎明館が実施した地形調査の図面のデータによると、端の陵は、前方部の端先がバチ状に開いた前方後円墳の形になっている。

地下式板石積石室墓の分布 地下式板石積石室 奈良県には、石をたくさん使っている古い古墳がある。板石をふんだんに使っている端の陵は、奈良地方の竪穴式石室の原型である可能性もある。

つまり、端の陵は、地下式板石積石室墓でありながら、前方後円墳でもある、と言うことが可能なのかもしれない。

端の陵の被葬者については、ニニギノミコトの妃、アタツヒメ(コノハナサクヤヒメ)の墓と言われているが、文献によっては、被葬者が異なっている。


  TOP>活動記録>講演会>第211回 一覧 上へ 次回 前回 戻る