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第212回 
端の陵古墳と竪穴式前方後円墳の起源


 鏡について           

■ 鏡の種類
弥生時代末から古墳時代にかけて出土する鏡について、大きく分類すると下記のようになる。

形式原産国時期主な出土地域
長宣子孫銘内行花文鏡魏 (北の王朝)200年〜250年北九州
位至三公(いしさんこう)鏡晋・西晋(北の王朝)260年〜300年北九州
画文帯(がもんたい)神獣鏡東晋(南の王朝)300年〜350年畿内
三角縁神獣鏡倭国 350年〜400年畿内

■ 鏡の材料

材料に含まれる鉛の同位体分析により、長宣子孫銘内行花文鏡は、中国の北の地域の銅が用いられており、 位至三公鏡、画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡は、中国の南の銅が使用されている。

位至三公鏡は、中国北部の王朝の鏡なのに、南の銅が使われたのは、次のような事情による。

魏の終りから晋にかけて、中国北部の銅が採れなくなった。
このため、魏では鉄の鏡が作られるようになり、また、魏と交流していた日本でも、中国から銅が入手できないので、それまでの銅を鋳つぶして、小型製鏡、広型銅矛、近畿式銅鐸、三遠式銅鐸など日本固有の銅器を国産するようになった。

280年に呉が滅亡したため、呉の地域の銅が晋に入るようになり、位至三公鏡が晋の洛陽の鏡であるにもかかわらず、南方の銅材料で作られるようになった。
 
■ ブレンド収縮  (新しいキーワード)

鉛の同位体成分にばらつきのある銅材料を、まとめて溶かし、ブレンドしてしまうと、成分が平均化される。ブレンドしたことにより、ばらつきの範囲は小さな区域に収縮してしまう。このような現象を、安本先生はブレンド収縮と呼ぶ。

小型製鏡U型の鏡や、三角縁神獣鏡などに、このような、ブレンド収縮の現象を見いだすことができ、中国渡来の製品と、日本国産の製品を区分けする有力な手がかりになる。

たとえば、甕棺から出土する銅鏡と、小型製鏡U型について、鉛の同位体分布を調べると、同じ領域で分布しているのだが、小型製鏡U型のほうが、ばらつきが少なく、コンパクトにまとまった分布を示す。

甕棺から出土する銅鏡は中国からもたらされた鏡であり、これをまとめて溶かし、小型製鏡U型など国産銅製品の材料として使ったことによる現象と考えられる。

広型銅矛、近畿式銅鐸、三遠式銅鐸なども、小型製鏡U型と同じ狭い範囲の分布を示すので、中国北方の銅をブレンドして得た銅材料を使用した、同時期の国産の銅器であるといえる。

また、三角縁神獣鏡と、位至三公鏡や画文帯神獣鏡の関係についても、ブレンド収縮の現象がみられる。
位至三公鏡や画文帯神獣鏡は中国南方の銅を使っており、これらの鏡の鉛同位体の分布と、三角縁神獣鏡の鉛同位体分布を比べると、分布の領域は重なってるが、三角縁神獣鏡は、分布領域内の小さな区域に集中しており、三角縁神獣鏡が、中国南方の銅をブレンドして材料としたことがわかる。
中国で鏡をつくるなら、中国産の銅材料が利用できるので、ブレンドする必要はないはず。従って、三角縁神獣鏡は、中国南方伝来の銅器をまとめて溶かし、日本国内で制作した鏡である可能性が高い。

 竪穴式石室の起源           

前方後円墳などに竪穴式石室をもうける墳墓の形式は、四世紀に盛行する。この形式は、南九州系の地下式板石積石室と、北九州系の高塚古墳等で木棺や石棺を直葬する形式の墓とが融合して生じたものではないか。その可能性をさぐる。

■ 墓制の分類
弥生時代末から古墳時代までの墓制を分類すると下記のようになる。

形式時期地域
甕棺紀元前 〜180年九州
箱式石棺180年〜300年九州
竪穴式石室300年〜400年畿内(前方後円墳)
横穴式石室400年〜600年畿内(前方後円墳)


■ 地下式板石積石室

出水郡長島町島町明神下岡遺跡の調査で、地下式板石積石室とみられる遺構のタイプを次のように三つに分類
  1. 石室を蓋石でおおい、その上を板石で葺き、さらにその上にとう石を置くものである。(右図)
  2. これは、a.のタイプから、とう石を失ったものと考えられ、石室を蓋石でおおい、その上を板石で葺いたものである。
  3. 石室の上を、ただちに板石を用いて屋根状に被覆したもので、地下式板石積石室そのものである。
    一説では、もともとは盛り土があったのが、長年の風雨に洗われたり、農耕地として平らされてしまったなどと、言われるが、いずれにしても、地表面には何も目印が無い。
■ 韓国の支石墓と地下式板石積石室の関係

支石墓は、墓の上に大石を載せた構造の墳墓であり、韓国に起源があるとされる。韓国の支石墓の形式には、北方式と南方式がある。 北方式は二枚の壁石の上に巨大な板石を置くもの。南方式は下記のように三つに分類される。
  1. 第一類は四枚以上の板石で地表下に石室を作るもので、もっとも古い。
  2. 第二類は石積の石室、または組合式石棺が地表の大石と分離して、別に石蓋を持つもので、次に古い。
  3. 第三類は更に、大石と石蓋を持つ石室とのあいだに、数個の支石を持つもので、南北に分布し、最も新しい。
上にのべた明神下岡遺跡の分類の、タイプa.が、朝鮮半島南方式の第三類に相当する。

朝鮮半島の支石墓のもっとも新しいタイプが、地下式板石積石室のもっとも古いタイプと同等であることは、 朝鮮半島の墓制の伝統が、九州の地下式板石積石室に継承され、九州でさらに新しい変化が加わったものと考えられる。

五島列島の松原遺跡2号遺構や浜郷遺跡1号遺構、明神下岡遺跡26号遺構が、地下式板石積石室の祖形とされることから、地下式板石積石室は、朝鮮半島南部の支石墓を淵源とし、北西九州の島嶼部を経て、九州西海岸から内陸へと伝わっていったと考えられる。

■ 地下式板石積石室の年代

明神下岡遺跡では、弥生中期の一の宮式の甕形土器が見つかっている。また、出水郡高尾野町の堂前遺跡では、出土土器から、弥生時代後期から古墳時代まで数百年続いた遺跡であることがわかった。

つまり、地下式板石積石室は、弥生時代中期から古墳時代に至るまで、九州西部で継続して行われた墳墓の形式である。

■ 墓制折衷

地下式板石積石室と同じ分布圏に、高塚古墳も分布している。

川内川中流の薩摩郡鶴田町の湯田原古墳では、地下式板石積石室と高塚古墳が融合したようになっている。

内部構造は地下式板石積石室でありながら、石室を地表に築き、その上に盛り土をかぶせ、外見は円墳のようになっている。 まさに、地下式板石積石室と高塚古墳の折衷である。

石室が大きく、鉄剣や鉄鏃などが副葬されていることから、地域の有力者の墳墓と思われる。

さまざまな事情によって、異なる形式の墓制が、折衷、融合される場合があることの例であろう。

■ 九州南部の三つの墓制圏
  1. 地下式板石積石室墓圏 (九州西岸、川内川流域など)
  2. 古墳・横穴地下式横穴混在圏 (九州東岸、西都原、宮崎、都城など)
  3. 立石土壙墓圏 (薩摩半島)
■端の陵古墳について

端の陵古墳は前回も述べたように、地下式板石積石室を持つように見える。しかしその外形から前方後円墳にも見える。 これについては、学者の間でも見解は定まっていない。

端の陵古墳は、地下式板石積石室と前方後円墳が融合した墳墓ではないか。

端の陵古墳を前方後円墳とみた場合のかたちから、築造年代を推定すると(下図)、もっとも古い古墳に位置づけられる。

端の陵古墳データ
 後円部直径 35メートル
 前方部末端幅現存10メートル(測定値T)
 前方部末端幅推定16メートル(測定値U)



■『古事記』『日本書紀』の記述と考古学

前方後円墳については初期のものが、自然地形をよく利用していることが知られている。

『古事記』『日本書紀』において、天皇の陵墓が、どのような地形の場所に築かれたとされているかを調べてみると、下表のようになる。

第一代神武天皇から、第九代開化天皇までのすべての天皇陵墓は、山や岡や坂などの自然地形の一部を利用して築かれたような記述になっている。
これに対して第十代祟神天皇から、第四十三代元明天皇の天皇陵墓は「菅原の御立野(みたちの)」とか、「毛受(もず)の耳原(みみはら)」とか、平地に築かれている。
陵墓の地形1代〜9代10代〜43代
山・山上・丘(岡・崗)・丘上・坂・坂上・嶋上9例14例23例
原・野・その他1818
3241

また、『日本書紀』では神代の三陵について、やはり、次のように山の自然地形を利用しているように記している。
  • 瓊瓊杵(ににぎ)の尊(みこと)----------------筑紫の日向の可愛の山陵
  • 彦火火出見(ひこほほでみ)の尊-------------日向の高屋の山の上の陵
  • 鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)の尊--------日向の吾平の山の上の陵
古い陵墓が丘などの地形を利用したように描く記紀の記述と、初期古墳の考古学的な特徴は、良く合致している。記紀の記述は、古い時代の伝承を語り伝えているとみて良いのではないか。

山上にある端の陵古墳は、地形的な立地条件も、初期の前方後円墳として矛盾はない。

■ 畿内の古式前方後円墳「中山大塚古墳」と「地下式板石積石室」

「中山大塚古墳」は奈良県天理市にある最古級の前方後円墳である。
大規模な竪穴式石室を持ち、墳丘は分厚い葺き石でおおわれている。

考古学者の森浩一氏は「中山大塚古墳」について次のように述べる。

後円部には、盗掘はうけていたものの、大きな墓壙のなかに、壮大な竪穴式石室があった。内部に刳抜式の 木棺(船形か)が置いてあったと推定されるが、それをおさめた石室は、近畿地方の前期の大型古墳によく見かける 石室とは石室上部の構造が違い、ぼくは『亀甲形魚鱗状天井の竪穴式石室』と名付けた。
(『記紀の考古学』朝日新聞社)

また、『アサヒグラフ』の『1993年古代史発掘総まくり』でも、森氏は石室の印象を

南九州の隼人が残した地下式板石積石室を巨大化したのではないか

と述べる。

■ 瀬戸内の積石塚古墳

瀬戸内海にも転々と地下式板石積石室の仲間の墳墓がある。出土品などから、弥生時代と古墳時代のさかいのころに 築造された墳墓と考えられる。
  • 萩原1号墳(徳島県鳴門市) 画文帯神獣鏡を出土
  • 綾歌石塚山2号墳(香川県綾歌町)
  • 鶴尾神社4号墳(香川県高松市) 獣帯方画規矩鏡を出土
  • 西条52号墳(兵庫県加古川市) 内向花文鏡を出土
  • 立坂墳丘墓(総社市)
■結論

畿内の前方後円墳の起源は、墳墓の形式などの考古学的な遷移の検証によって、次のようにたどることができる。
  • まず、朝鮮半島南部の支石墓を起源とし、九州西岸で広く行われた地下式板石積石室と、北九州の高塚古墳に木棺や石棺を直葬する形式が南九州で融合し、端の陵古墳のような板石積石室と前方後円墳がいっしょになったような墳墓の形式が成立した。

  • その後、瀬戸内海地域の各所に積石塚古墳を残しながら畿内に入り、古式の前方後円墳である中山大塚古墳のような「亀甲形魚鱗状天井」の竪穴式石室になった。
このように墳墓の形式が変化を遂げながら伝播する道筋は、まさに、神武天皇が南九州から瀬戸内を通って畿内に進出した、神武東征のルートと重なる。瀬戸内の点々と残る積石塚古墳は、神武天皇の東征に従った軍勢の子孫が、各地に残していった痕跡ではないか。天皇家の墳墓にもその痕跡が残る可能性があるように見える。

少なくとも奈良県の中で、「板石積みの竪穴石室」の源流を求めることは難しいであろう。


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