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第212回
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鏡について |
竪穴式石室の起源 |
前方後円墳などに竪穴式石室をもうける墳墓の形式は、四世紀に盛行する。この形式は、南九州系の地下式板石積石室と、北九州系の高塚古墳等で木棺や石棺を直葬する形式の墓とが融合して生じたものではないか。その可能性をさぐる。 ■ 墓制の分類 弥生時代末から古墳時代までの墓制を分類すると下記のようになる。
■ 地下式板石積石室 出水郡長島町島町明神下岡遺跡の調査で、地下式板石積石室とみられる遺構のタイプを次のように三つに分類
支石墓は、墓の上に大石を載せた構造の墳墓であり、韓国に起源があるとされる。韓国の支石墓の形式には、北方式と南方式がある。 北方式は二枚の壁石の上に巨大な板石を置くもの。南方式は下記のように三つに分類される。
朝鮮半島の支石墓のもっとも新しいタイプが、地下式板石積石室のもっとも古いタイプと同等であることは、 朝鮮半島の墓制の伝統が、九州の地下式板石積石室に継承され、九州でさらに新しい変化が加わったものと考えられる。 五島列島の松原遺跡2号遺構や浜郷遺跡1号遺構、明神下岡遺跡26号遺構が、地下式板石積石室の祖形とされることから、地下式板石積石室は、朝鮮半島南部の支石墓を淵源とし、北西九州の島嶼部を経て、九州西海岸から内陸へと伝わっていったと考えられる。 ■ 地下式板石積石室の年代 明神下岡遺跡では、弥生中期の一の宮式の甕形土器が見つかっている。また、出水郡高尾野町の堂前遺跡では、出土土器から、弥生時代後期から古墳時代まで数百年続いた遺跡であることがわかった。 つまり、地下式板石積石室は、弥生時代中期から古墳時代に至るまで、九州西部で継続して行われた墳墓の形式である。 ■ 墓制折衷 地下式板石積石室と同じ分布圏に、高塚古墳も分布している。 川内川中流の薩摩郡鶴田町の湯田原古墳では、地下式板石積石室と高塚古墳が融合したようになっている。 内部構造は地下式板石積石室でありながら、石室を地表に築き、その上に盛り土をかぶせ、外見は円墳のようになっている。 まさに、地下式板石積石室と高塚古墳の折衷である。 石室が大きく、鉄剣や鉄鏃などが副葬されていることから、地域の有力者の墳墓と思われる。 さまざまな事情によって、異なる形式の墓制が、折衷、融合される場合があることの例であろう。 ■ 九州南部の三つの墓制圏
端の陵古墳は前回も述べたように、地下式板石積石室を持つように見える。しかしその外形から前方後円墳にも見える。 これについては、学者の間でも見解は定まっていない。 端の陵古墳は、地下式板石積石室と前方後円墳が融合した墳墓ではないか。 端の陵古墳を前方後円墳とみた場合のかたちから、築造年代を推定すると(下図)、もっとも古い古墳に位置づけられる。 端の陵古墳データ 後円部直径 35メートル 前方部末端幅現存10メートル(測定値T) 前方部末端幅推定16メートル(測定値U) ■『古事記』『日本書紀』の記述と考古学 前方後円墳については初期のものが、自然地形をよく利用していることが知られている。 『古事記』『日本書紀』において、天皇の陵墓が、どのような地形の場所に築かれたとされているかを調べてみると、下表のようになる。 第一代神武天皇から、第九代開化天皇までのすべての天皇陵墓は、山や岡や坂などの自然地形の一部を利用して築かれたような記述になっている。 これに対して第十代祟神天皇から、第四十三代元明天皇の天皇陵墓は「菅原の御立野(みたちの)」とか、「毛受(もず)の耳原(みみはら)」とか、平地に築かれている。
また、『日本書紀』では神代の三陵について、やはり、次のように山の自然地形を利用しているように記している。
山上にある端の陵古墳は、地形的な立地条件も、初期の前方後円墳として矛盾はない。 ■ 畿内の古式前方後円墳「中山大塚古墳」と「地下式板石積石室」 「中山大塚古墳」は奈良県天理市にある最古級の前方後円墳である。 大規模な竪穴式石室を持ち、墳丘は分厚い葺き石でおおわれている。 考古学者の森浩一氏は「中山大塚古墳」について次のように述べる。 後円部には、盗掘はうけていたものの、大きな墓壙のなかに、壮大な竪穴式石室があった。内部に刳抜式の
木棺(船形か)が置いてあったと推定されるが、それをおさめた石室は、近畿地方の前期の大型古墳によく見かける
石室とは石室上部の構造が違い、ぼくは『亀甲形魚鱗状天井の竪穴式石室』と名付けた。 南九州の隼人が残した地下式板石積石室を巨大化したのではないか と述べる。■ 瀬戸内の積石塚古墳 瀬戸内海にも転々と地下式板石積石室の仲間の墳墓がある。出土品などから、弥生時代と古墳時代のさかいのころに 築造された墳墓と考えられる。
畿内の前方後円墳の起源は、墳墓の形式などの考古学的な遷移の検証によって、次のようにたどることができる。
少なくとも奈良県の中で、「板石積みの竪穴石室」の源流を求めることは難しいであろう。 |
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