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第225回 
神武天皇陵の謎

 

 1.現在の神武天皇陵

■ 神武天皇陵の位置

現在、神武天皇陵は橿原市大久保町字ミサンザイに治定されている。
 
現在の神武天皇陵の位置は、幕末に宇都宮藩が中心となって行った「文久の修陵(1863)」の際に、宇都宮藩の顧問団の検討により決定されたという。

神武天皇陵が現在の地に定められる前には、陵墓の候補地は六つあり、そのうち、特に次の三つが有力であった。
  1. 畝傍山の丸山 
    (大和の国高市郡洞村の近く)

  2. 大和の国高市郡白橿村山本のミサンザイ
    (神武田。現在の神武天皇陵の場所。橿原市大久保町字ミサンザイ)

  3. 四条村の福塚
    (塚山ともいう。現在、綏靖天皇陵とされている。大和の国高市郡四条村。現在の橿原市四条町)
江戸時代でもっとも有力であったのは1の丸山説であり、蒲生君平や本居宣長などがこの説を支持した。

宇都宮藩顧問団の中でも、北浦定政は丸山説を主張し、谷森善臣はミサンザイを推すなど意見が分かれたが、最終的には顧問団の筆頭であるの谷森善臣の主張で現在の位置に決まった。

安本先生 ■ 大きさと墳形

『延喜式』には、東一町(訳100m)南北二町(約200m)とされている。

1940年の皇紀2600年にあたる年には、陵墓は大拡張され、大きさは東西約500メートル、南北約400メートルの広大なものとなり、延喜式記載の約十倍の面積を占めることになった。
またこの年、神武天皇をまつる橿原神宮も大規模につくりなおされた。

現在の神武天皇陵の墳形は、八角墳ともされるが、1915年印刷の『陵墓要覧』(宮内省諸陵寮発行)や小林行雄『歴代天皇陵一覧』では「円墳」としている。

■ 場所が違う!

以上のように場所の比定が行われ、拡張整備されてきた神武天皇陵であるが、 安本先生は、「現在の神武天皇陵は場所を誤っている。真の神武天皇陵は畝傍山の一部の丸山である。」と述べる。以下に少し詳しく解説する。



 2.丸山説

■ 記紀の記述
  • 『古事記』の記述
    「御陵(みはか)は畝傍山の北の方の白檮の尾の上(かしのおのえ)にあり。」

  • 『日本書紀』の記述
    「畝傍山の東北の陵に葬りまつる。」
■ 本居宣長vs谷森善臣

本居宣長は『古事記』の記述の「尾の上」から、神武天皇陵は「尾根」の上にあるとした。丸山は「尾根」の上にある。他の候補は尾根の上にない」と主張。宇都宮藩の北浦定政も同意見。

いっぽう、谷森善臣は次のように主張した。『古事記』の原文は「畝傍山之北方白檮尾上」と記されている。古点のままに読めば「白檮尾上」は「白檮尾(かしお)」という地名であり、その「白檮尾」に陵があったのである。

竹口英斎の『陵墓史』(1794)などの古文献によれば、丸山の地には古くから「加志(かし)」「カシフ」「カシハ」など、「白檮」と結びつく地名があった。これに対し、谷森善臣はミサンザイの地に「橿檮尾」という地名があったという具体的根拠を提示していない。谷森善臣の読み方は少々強引のようだ。

記紀の記述と地名との関係からは、丸山説のほうが有利である。

■神武天皇陵の守戸(または陵戸)

丸山のすぐそばに洞村(ほらむら)と呼ばれる部落がある。この村は神武天皇陵の守戸または陵戸だったという伝えがあった。丸山の近くに洞村があったことは、江戸時代の津久井清彰の図(下図)にも描かれている。

律令時代、天皇陵には「陵戸」や「守戸」が置かれた。
「陵戸」は、律令制における賎民のひとつで、治部省の諸陵戸(諸陵寮)に隷属し、課役の代わりに山陵の警備に従ったもの。 また「守戸」は、古代、天皇陵の番人。陵戸が不足した時に良民から指定された。

蒲生君平は『山陵志』で「洞村のことを相伝うるに、その民はもと神武陵の守戸なり。およそ守陵の戸は、みな賎種。もと罪隷をもって没入したる者は、郷にならばず」といっている。

菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。
  1. 洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上であり、『古事記』『日本書紀』は神武天皇陵と伝えているところと一致する。

  2. 神社を生玉(いくたま)神社という。祭神は神武天皇とのことだが確かではない。

  3. この部落は、神武天皇陵の守戸であると伝承している。神武天皇陵は、畝傍山の東北の尾の上の平らなところで、丸山宮址のところとも、生玉神社のところとも伝えられている。

  4. 旧家は、御陵と伝えられているところの下で、『ひぢり垣内(かいと)』ととなえ井上、辻本、楠原、吉岡などが本家。ともに日向からおともしてきた直系の家来で、そのため墓守になったと伝えている。

  5. 丸山宮址と呼んでいるが、宮があったとは聞いていない。径25間の平地で、円形をなし、その中心が、径3間ぐらい、こんもりと高く、昔は松の木が茂っており、その上を通ると音がして、他のところとは変わっていた。

  6. その境内に、7つの白橿(しろかしわ)の大木があった。最後のものは周囲すでに皮ばかりで、そのなかが、6尺からの空洞であった。皮ばかりでも『しめ縄』がかけられていた。

  7. 白橿村というのは、御陵に白檮の大木が7本もあったからで、神代からのものと伝えられていた。

  8. 明治の初年、神武天皇陵認定のときに、この地の人が賤民であったばかりに、神武戸と称する部落の人の作り田を、強制没収でとりあげてしまった。それが、今の御陵となっている地である。神武戸とは、神武天皇陵の戸、入口の意味である。

  9. 今の御陵は真実の御陵でないといったら、全村千人のものが、放りだされて路頭に迷うかもしれないので、頭(かしら)がかたく箝口令をしいていて、絶対に口外しなかった。今の御陵は真実の御陵と方向があべこべである。

洞村の人々が九州から来て、神武天皇の墓守をしたという伝承は、洞村のすぐそばにある丸山が真の神武天皇陵であることを支持しているように見える。

■生玉神社

丸山に生玉神社がある。津久井清彰が描いた「畝傍山東北面の図」にも「生玉明神社」として描かれている。この神社は『日本書紀』の文において、壬申の乱のさい「身狭(むさ)の社にいる生霊(いくたま)の神」が、神武天皇陵に馬および種々の兵器を奉れ、と述べたことと関係があるのではないか。

丸山の地が「身狭」の地域に属していたことは、古文献で確認できる。

神社はもと丸山のところにあったが、集落の移転に伴い、大正9年に現在の大久保町3-56番地に移された。



 3.古文献にみえる神武天皇陵

神武天皇陵に関する記述は古文献にたびたび登場する。すなわち、10世紀のはじめごろまでは、神武天皇陵をはじめとする諸天皇陵の所在地は知れていた。しかし、その後、なんらかの事情でその場所が分からなくなってしまったようだ。
  • 『日本書紀』の天武天皇元年(672)7月の条に次のような記述がある。

    壬申の乱のさい大海の皇子側の将軍の大伴の連吹負が戦に敗け、ちりぢりになった軍兵を集めていた時、高市の県主の許梅(こめ)が神懸りになり、「吾は高市の社にいる事代主の神である。また身狭(むさ)の社にいる生霊の神である」といった。そして、神意をつげて、「神武天皇陵に、馬および種々の兵器をたてまつれ」といった。そこでただちに、許梅をつかわして、御陵をまつり、馬、兵器をたてまつった。

    会場の様子 この記述は、天武元年には神武天皇陵が存在し、その場所も分かっていたことを示している。

  • 『古事記』(712)では「御陵は畝傍山の北の方の白檮の尾の上にあり」と記す。

  • 『日本書紀』(720)では「畝傍山の東北の陵に葬りまつる」と記す。

  • 『延喜式』(927))には「畝傍の山の陵。畝傍の橿原の宮に御宇しし神武天皇。大和の国高市郡にあり。兆域東西一町、南北二町。守戸五烟。」とある。


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