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第225回 |
1.現在の神武天皇陵 |
2.丸山説 |
■ 記紀の記述
本居宣長は『古事記』の記述の「尾の上」から、神武天皇陵は「尾根」の上にあるとした。丸山は「尾根」の上にある。他の候補は尾根の上にない」と主張。宇都宮藩の北浦定政も同意見。 いっぽう、谷森善臣は次のように主張した。『古事記』の原文は「畝傍山之北方白檮尾上」と記されている。古点のままに読めば「白檮尾上」は「白檮尾(かしお)」という地名であり、その「白檮尾」に陵があったのである。 竹口英斎の『陵墓史』(1794)などの古文献によれば、丸山の地には古くから「加志(かし)」「カシフ」「カシハ」など、「白檮」と結びつく地名があった。これに対し、谷森善臣はミサンザイの地に「橿檮尾」という地名があったという具体的根拠を提示していない。谷森善臣の読み方は少々強引のようだ。 記紀の記述と地名との関係からは、丸山説のほうが有利である。 ■神武天皇陵の守戸(または陵戸) 丸山のすぐそばに洞村(ほらむら)と呼ばれる部落がある。この村は神武天皇陵の守戸または陵戸だったという伝えがあった。丸山の近くに洞村があったことは、江戸時代の津久井清彰の図(下図)にも描かれている。 律令時代、天皇陵には「陵戸」や「守戸」が置かれた。 「陵戸」は、律令制における賎民のひとつで、治部省の諸陵戸(諸陵寮)に隷属し、課役の代わりに山陵の警備に従ったもの。 また「守戸」は、古代、天皇陵の番人。陵戸が不足した時に良民から指定された。 蒲生君平は『山陵志』で「洞村のことを相伝うるに、その民はもと神武陵の守戸なり。およそ守陵の戸は、みな賎種。もと罪隷をもって没入したる者は、郷にならばず」といっている。 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)はその著書のなかで、洞村の区長宅で多くの老人たちから聞いた洞村内部の話を次のように伝えている。
■生玉神社 丸山に生玉神社がある。津久井清彰が描いた「畝傍山東北面の図」にも「生玉明神社」として描かれている。この神社は『日本書紀』の文において、壬申の乱のさい「身狭(むさ)の社にいる生霊(いくたま)の神」が、神武天皇陵に馬および種々の兵器を奉れ、と述べたことと関係があるのではないか。 丸山の地が「身狭」の地域に属していたことは、古文献で確認できる。 神社はもと丸山のところにあったが、集落の移転に伴い、大正9年に現在の大久保町3-56番地に移された。 |
3.古文献にみえる神武天皇陵 |
神武天皇陵に関する記述は古文献にたびたび登場する。すなわち、10世紀のはじめごろまでは、神武天皇陵をはじめとする諸天皇陵の所在地は知れていた。しかし、その後、なんらかの事情でその場所が分からなくなってしまったようだ。
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