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第224回 
三角縁神獣鏡神獣鏡に関する最近の報道について

 

 1.報道の内容

2004年5月15日の夕刊各紙に、次のような見出しで三角縁神獣鏡が中国製であるかのような記事が一斉に掲載された。 この記事は、京都市の泉屋博古館(せんおくはくこかん:樋口隆康館長)所蔵の三角縁神獣鏡を含む各種の鏡の微量成分を世界最大級の放射光分析施設(SPring8)で分析した結果に基づく。

■ SPring8による泉屋博古館所有の鏡の分析結果(発表資料による)

鏡の材料に含まれる微量の銀とアンチモンの割合を分析した結果、調査対象とした泉屋博古館収蔵の青銅鏡95面は下記の4グループに分けられたという。
  1. 戦国時代〜秦時代グループ(中国:紀元前3世紀)
  2. 前漢前期グループ(中国:紀元前2世紀)
  3. 前漢後期〜三国西晋時代グループ(中国:紀元前1世紀〜紀元3世紀)
  4. 古墳時代グループ(日本:紀元3世紀〜5世紀)
3のグループの三国西晋時代の神獣鏡は、同時期の他の鏡に比べ数値が集中しているが、三角縁神獣鏡については、舶載(中国製)と考えられる6面はすべて中国の三国西晋時代神獣鏡の狭い分布範囲に入り、日本製と考えられる2面はいずれも古墳時代の日本製鏡の分布範囲に入った。

この結果に関する泉屋博古館のコメントが、朝日新聞に次のように掲載されている。

断定するには鏡をもっと多数分析する必要があるが、材質からは三角縁神獣鏡の一部が中国製である可能性が高まったのではないか。

   (財)泉屋博古館、(財)高輝度光科学研究センターの発表資料より 泉屋博古館所蔵の鏡の分析結果

なお、この図の三角縁神獣鏡のように分布データが狭い範囲に集まる現象を、安本先生は、ブレンド収縮による現象と考えている。


 2.泉屋博古館の発表と新聞報道へのコメント

安本先生は、泉屋博古館の発表内容には多くの問題がある、また、これを報道した新聞各紙の姿勢にも問題があると述べる。

■泉屋博古館の発表についての問題点
  • 問題点1

    鏡の材料の成分から産地を判断する考え方には問題がある。
    1. 原材料が中国産でること
    2. 製品が中国産であること
    この二つはまったく別のことである。
    にもかかわらず、朝日新聞は、原材料が中国製の鏡と同じであることを理由にして、三角縁神獣鏡を中国製だと思わせるようなコメントを載せている。

    銅鐸には、材料の銅に含まれる鉛同位体の分析によって中国の原材料が使用されたと考えられている。しかし、日本でしか出土しない銅鐸を中国製という人はいない。三角縁神獣鏡に中国の原料が使われていても、それだけで三角縁神獣鏡を中国製と判断するのはおかしな話である。

  • 問題点2

    調査対象となった中国製の鏡は、本当に中国で作られた鏡なのか?
    • 中国製の同時代の青銅器と比較したと言いながら、確実に中国で出土したという根拠をも つ鏡を、一面として比較のために用いていないようである。この点について安本先生は泉屋博古館の広川守氏に直接電話で確認された。

    • 泉屋博古館所蔵の鏡はほとんどが出土地不明であり、考古学的な資料価値は低いものである。ふつうの人は「中国製」と書かれれば中国産と信じてしまうが、これらの鏡は模様などから館長の樋口隆康氏が中国製と判断しているだけで、中国で作られたものかどうか疑わしい。

    • 調査対象になった三国西晋時代の神獣鏡というのが、画文帯神獣鏡だとすると、画文帯神獣鏡は日本での出土数の方が中国からの出土数の倍近くあり、その一部は日本で作られた可能性がある。
      (日本から150面程度、中国から80面程度出土している。)

  • 問題点3

    日本製の鏡に日本産の銅が使われているのか?
    • 泉屋博古館の発表では、「日本製の鏡」「日本製の(鏡)のまとまりに入った。」などとのべるが、 「日本製」とされるものの原材料に、ほんとうに「日本産の銅」が用いられているという確実な証明は、なにも行われていない。
      (「日本産の銅」とされているものも、中国原産の銅である可能性が残されている。中国には、銅鉱山はいろいろあるのであるから、産地により、いろいろな測定結果がでる可能性がある。)
三角縁神獣鏡の材料の銅が中国産であることは、既に、鏡に含まれる鉛の同位体の分析で20年ぐらい前からわかっていることである。この意味では泉屋博古館の発表は、なんら新しいものではない。

それにもかかわらず泉屋博古館は、SPring8という最先端の設備を持ち出して話題性を持たせながら、三角縁神獣鏡が中国で作られた、いわゆる「卑弥呼の鏡」であることをアピールしようとした。

しかし、上記問題点の各項で指摘されるように、泉屋博古館の発表はまったく説得力を持たない。

■ 新聞報道の姿勢について

泉屋博古館の発表内容には多くの問題があるにもかかわらず、新聞各紙は見出しで「卑弥呼の鏡が中国製」であるように印象づける記事を掲載した。

講演中の安本先生 とくに、朝日新聞は、三角縁神獣鏡については様々な意見があるにもかかわらず、「三角縁神獣鏡の一部が中国産である可能性が高まったのではないか」という泉屋博古館のコメントをのみを紹介する。一般の人は、三角縁神獣鏡が中国で作られたものと思ってしまう。

産経新聞は、異なる立場の学者の意見も紹介し、泉屋博古館の発表を客観的に伝える努力が見える。

新聞報道は、いかに著名な学者の見解であっても、学問的に決着していない見解の一方的な垂れ流し報道を行うべきではない。異なる意見があることを客観的にきちんと伝えるべきである。

また、学者は、この問題について学問的にきちんと議論をするべきである。自らの立場を補強し宣伝するために、不確かな情報をマスコミにどんどん流してしまう手法は、学問とは無縁の世論操作であり、学者の行うべきことではない。

■ 考古学者のコメント

泉屋博古館の発表について、新聞紙上では考古学者のコメントがいくつか紹介されているが、記事のタイトルとは裏腹に、「今回の調査結果によって三角縁神獣鏡が中国鏡である可能性が高まった」ことを肯定する学者はいない。

金関恕・天理大名誉教授

現時点で邪馬台国『畿内説』を示唆したものか、あるいは『九州説』を否定するものなのかは断定できない。
中国から卑弥呼に与えられたものと昔から考えているが、中国から原料を仕入れて日本で作られた可能性もある。
今後、国内のさまざまな神獣鏡について分析し、データを積み重ねれば『畿内説』が実証できるのではないか。 (産経新聞)

川上邦彦・奈良県立橿原考古学研究所附属博物館長

これまでより詳細な分析数値が得られたことは貴重な成果で、鏡の復元などには有効だ。

しかし、鏡の成分から産地を判断する考え方には問題があり、今回の分析が産地の判断の決め手になるとは言えない。 (産経新聞)

  泉屋博古館の発表について、さらに慎重な立場を取る考古学者もいる。たとえば、森浩一氏は安本先生への手紙の中で次のように述べる。

あいかわらずご健筆の様子、頼もしくおもいます。

『季刊邪馬台国』に連載された奥野正男さんの「神々の汚 れた手」も、果たしてどれぐらいの考古学関係者(研究 者と学生を含む)が読んだのか、不安を感じています。

私も『魂の考古学』(五月書房)で、「魂を失う考古学 界」を渾身の力をこめて書きました。さらに『歴史評論』 七月号で、「日本考古学と『捏造』『誇張』」についても語 りました。

要するにいつまでも混迷のつづく学界では前途がみえ ません。そのため研究の基礎資料には、出土地と出土状 況の確実な一等資料を使うこと、それと学界発表のまえ にマスコミを利用して世論操作することを恥とする姿勢 がほしいのです。

出土地不明の銅鏡を分析すること自体時代おくれでし ょう。これでは混迷を助長するだけです。もちろん新し い装置に慣れるためにテストをおこなうのは自由です が、その結果はマスコミに発表するほどのものではない でしょう。

新聞やテレビに事前に配付された「三角縁神獣鏡の原 材料産地を探る」のぺーパーには、「三角縁神獣鏡は紀元 三世紀を中心に製作されたと考えられ、これまで邪馬台国 の女王卑弥呼が中国魏の皇帝から授かった鏡といわれたこ とがある」とマスコミの飛びつきそうな文章があります。

第一、「紀元三世紀を中心に製作された」といえば、二 世紀にも四世紀にもあるように聞こえますが、四世紀に はあっても、二世紀の当該の鏡の存在は聞いたことはあ りません。

不正確な情報がマスコミを混乱させ、そのこ とが度重なるにつれて、日本人に曖昧な知識をまきちら してしまうのです。

今回の発表関係者が、もし一連の行為に何らの問題点 も感じていないとすれば、何をかいわんやです。

くり返 しますが、出土地不明の鏡は古美術品ではあっても、第 一等の考古学資料ではありません。

この辺は、考古学に ついての認識の違いといってすませることかどうか、不 安はつのるばかりです。以上が感想です。

   安本美典様                             森浩一


■ 追記

泉屋博古館の発表については、第227回の講演会でも取り上げ、このときに、韓国国立慶尚大学招聘教授の新井宏氏が、金属考古学の専門家の立場から、泉屋博古館の解析方法には重大な誤りがあり三角縁神獣鏡神獣鏡の生産地の議論にはまったく役に立たないとする論文を紹介した。ご参照下さい。    

韓国国立慶尚大学招聘教授の新井宏氏の論文抜粋  >>

 

 3.三角縁神獣鏡について

■ 二つの説

『魏志倭人伝』は、魏の皇帝が、倭の女王卑弥呼に「銅鏡百枚」を与えたことを記し ている。三角縁神獣鏡が卑弥呼に与えられた鏡とする主張について以下の二つの立場から議論が続いている。
  • 国産鏡説:「三角縁神獣鏡は日本国内で作られたもので、卑弥呼が魏からもらったものではない」と主張する説

    考古学者の森浩一氏、宮崎公立大学教授だった奥野正男氏らは
    • 三角縁神獣鏡は中国から出土していないこと、
    • 畿内では4世紀の古墳時代の遺跡からのみ出土し、3世紀の墓からまったく出土しない こと、
    • 鏡の径が22cmと後漢・三国時代の鏡よりはるかに大きいこと
    などの理由から、 日本で作られた鏡であろうと主張している。

    中国の代表的考古学者、王仲殊(おうちゅうしゅ)氏や徐苹芳(じょへいほう)氏らも、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡などの神獣鏡は、卑弥呼が魏からもらった鏡ではないことをくり返し強く述べている。

  • 魏鏡説:「三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡」と主張する説。

    京都大学教授だった考古学者の小林行雄氏、奈良県立橿原考古学研究所だった 樋口隆康氏らは、次のようなことを根拠に、三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏からもらった鏡であると主張する。

    • 三角縁神獣鏡に「銅は徐州に出ず」「師は洛陽に出ず」の銘文を持つものがある。
    • 卑弥呼が魏に使いを送った景初3年の年号が記された三角縁神獣鏡が出土している。
樋口隆康氏の主張には多くの問題があるとして、安本先生は魏鏡説は誤りであると述べる。
以下に樋口隆康氏の論拠と、安本先生などの反論を紹介する。

■ 神獣鏡の分布地域

樋口氏は、橿原考古学研究所編『大和の前期古墳V 黒塚古墳調査概報』のなかで次のように述べる。

三角縁神獣鏡は神獣鏡の一種である。中国で神獣鏡は後漢の後半に盛行し、画像鏡、 環状乳神獣鏡、重列神獣鏡、同向式神獣鏡などの各種があり、その影響を受けて三角縁 神獣鏡が産まれるが、……(後略)

樋口氏は、「後漢の後半に盛行し」などと、無造作に記す。このように記すと、神獣鏡 が、あたかも、中国の全土で行われたかのようにうけとれる。
しかし、王仲殊氏らがのべるように、魏の領域内では、三角縁神獣鏡がもともと全く 存在していなかったばかりか、各種の神獣鏡すらも絶無に近かったのである。

そのような神獣鏡が、なぜ、日本だけから何百面も出土するのか。その理由は、これらのほとんどが日本で造られたとからと考えるべきであろう。

■ 樋口氏が論拠とする富岡謙蔵氏の説

樋口氏は、上記の『大和の前期古墳V 黒塚古墳調査概報』のなかで、さらに次のように述べる

「(黒塚古墳からも出てくる三角縁神獣鏡に記されている銘文には)『同(銅)出徐州、刻鏤成』 『銅出徐州、彫鏤文章』『銅出徐州、師出洛陽、彫文刻鏤』の句が三例もある。(中 略)(この銘文のなかの)洛陽の『洛』は、漢代には『』の字が使われ、『洛』の字は 魏晋以後に用いられたことは、既に富岡謙蔵氏が大正年間に指摘しておられる。

また、『師』の字は、晋代には開祖の司馬師の諺(いみな)を嫌って、使っていないので、それ以前の文章ということが判る。

従って、この句から三角縁神獣鏡が三国時代、華北で作られたことが明らかで、到底当時の日本で作りうるような文章ではないのである。

「華北で作られたことが明らか」な鏡が、なぜ華北から一面も出土しないのか。樋口氏の 文章には、なんら証明されていないことが、すでに証明ずみのようにとりあつかわれてい ることがはなはだ多い。
樋口氏の上記見解は、戦前に京都大学の講師であった富岡謙蔵の主張を踏襲したものである。 富岡謙蔵は著書『古鏡の研究』(1920年刊)の中で次のようなことを述べた。
  1. 三角縁神獣鏡のなかには、「銅は徐州に出ず」「師は洛陽に出ず」の銘のはいっている ものがある。この銘文は、三角縁神獣鏡を魏鏡(いわゆる「卑弥呼の鏡」)とする証拠に なりうる。
  2. 漢代に用いられていた「陽」という文字が、「洛陽」という文字に変わったのは魏代 にはいってから(220年以降)である。
  3. 「徐州」は南朝の劉宋の永初3年(43年)に「彰城郡」と改められた。
  4. したがって「徐州」「洛陽」が両立する時期は、魏朝以後、晋朝を経て南宋永初三年の 四三年までである。
  5. しかし、魏朝のあとの晋朝(265〜420年)の祖先の諱(いみな)が司馬師である。そのため、 晋朝では「師」の字の使用をさけた(避諱(ひき)=天子の諱の字を使用しないこと)。したがっ て「師は洛陽に出ず」の銘をもつ鏡は、晋朝のものではない。
  6. 以上の理由から、この鏡は魏朝か、あるいは南宋の初めの三年間のいずれかに作られたということになる。しかし、後漢「中平□年(184〜189年)」鏡の銘文に「東王父」 「西王母」の句があり、三角縁神獣鏡にもこの銘文が多いことから、魏代にできたもの と考えられる。
安本先生は富岡謙蔵の説について次のように反論し、富岡説を論拠にした樋口隆康氏の主張が誤りであることを述べる。
  1. 中国の学者の研究では、「魏の時代の「徐州」は魏の領地ではなく呉の領地である。」とされる。銘文に「銅は徐州に出ず」と書かれていても、これは魏鏡の根拠にはならない。

  2. 晋の時代にも「師」の文字は使われていた。例えば、晋代の人である藩安仁(はんあんじん)の賦には、「士師(官名)」「偏師(一部隊)」「師令」「師旅」などが用いられている。
    東晋の詩人・陶淵明の詩にも、「使いを京師に奉じ」「先師遺訓あり」など、「師」を用いている。

  3. 三角縁神獣鏡は、中国で一面も出土しない。魏の領域内では、三角縁神獣鏡だけでなく各種の神獣鏡すらも絶無に近かった。
奥野正男氏も、東晋時代の「大和弩機」の著名な金石文のなかに「師」の文字が使われていることを述べ、富岡氏の主張は考古学的には何の根拠もない空想であると次のように反論する。

多くの学者が無批判に富岡・梅原(末治)説をうけうりしてきたのである。
私がここで示した晋代弩機の銘文は、別に新しく発掘された遺物ではなく、中国考古 学や金石文の専門分野の研究者の立場には、いわば入門書の程度のものに紹介されてお り、別な意味では"常識"に類することである。
ところが三角縁神獣鏡の魏鏡説に関する限り、富岡・梅原説を継承し、戦後も多くの魏 についての論文を書いてきた学者、研究者のほとんどは、晋代も『尚方』の工人を『師』 と言っているという事実を無視し、戦前からの話をくり返している。

奥野氏は、さらに次のように続ける。、

晋代に師の文字が使用されなかった」という富岡氏の旧説は、三角縁神獣鏡を魏の鏡とする根拠の切り札のようなものであるから、これが否定されたことは、三角縁神獣鏡の銘文解釈の重要な論拠が崩れたことである。

このように明確な事実によって否定された学説を、邪馬台国近畿説の多くの学者が最近に至るまで無批判に受け売りしてきている。特に樋口隆康氏はどのような反論があろうとも先輩の学説である富岡氏の学説を持ち出す。樋口隆康氏の頭脳の構造はどうなっているのであろうか。



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