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第226回 
神武天皇陵の謎(その2)、 神武東征の理由

 

 1.政治的な側面からみた神武天皇陵決定のプロセス

神武天皇陵について、江戸時代の学者の間では「丸山説」がかなり有力であった。幕末の修陵の際の 宇都宮藩の顧問団のなかでも、北浦定政や津久井清彰などが相当な根拠を示して丸山説を主張していた。

顧問団の筆頭であった谷森善臣の意見によって、最終的に神武天皇陵が現在のミサンザイの地に決まったのだが、谷森善臣は有力であった丸山説の根拠も十分に知っていたと思われる。この問題以外については穏当な判断をしていると評される谷森善臣が、なぜ神武天皇陵の問題についてこのような強引とも思える判断をしたのか。

学問的正否を超えたところで判断が行われた可能性がある。そのあたりを探ってみる。

■神武天皇陵=丸山説をとなえた人々
  • 蒲生君平

    著書『山陵志』で、神武天皇陵を畝傍山の東北のすみの「御陵山」にあてている。「御陵山」という地名は『山陵志』以前に成立していた並河永(なみかわひさし)の『大和志』にも見える。「御陵山」は、丸山をさしている可能性が大きい。

    また、蒲生君平は、現在の神武天皇陵の場所を主張する松下見林や並河永の説を、『古事記』の「畝傍山の北方の白檮(かし)尾の上」という記事にあわないとして批判した。

  • 本居宣長

    『玉勝間』で、畝傍山の北の方に、鼠の尾のようにつきでたところを、御霊山という、そこが神武天皇陵であろうといっている。これは蒲生君平の『山陵志』の御陵山と同じと思われる。
    また、『菅笠日記』で「御陵のある里は、特別に、民のわずらいが多くて、見返り はなにもないので、どこでも(調査を)とてもつらいことにして、たしかに陵があって も、わざとかくして『この里には、まったくそのようなことはありません。』などのよ うに言うたぐいもあるようである。」といっており御陵の調査の大変さを述べている。

  • 津久井清影(宇都宮藩顧問団)

    『聖蹟図志』のなかで次のように述べる。
    畝傍山の東北のふもとの洞村に、生玉神社がある。洞のほとりに丸山がある。この丘が神武天皇の東北陵であろう。神武田の古塚(現在の神武天皇陵)、また、四条の東塚(現在の綏靖天皇陵)は、ともに真陵ではない。

  • 北浦定政(宇都宮藩顧問団)

    『山陵精考』のなかで次のように述べる。
    いま洞村では御陵山の地名を知っている人はいない。ただ、洞村のの上に、字丸山という古墳がある。この丸山をむかし、御陵山といったのであろうか。

    そのかたわらに、神功皇后(または太玉の命、または生玉の命ともいわれる)をまつる小社がある。 これは、神武天皇をまつる社を、後世、神功皇后をまつる社と伝え誤ったのであろうか。この社の祭礼は、9月12日におこなわれる。この日は『日本書紀』に、神武天皇を畝傍山の東北陵に葬ったと記している日にあたる。

    上古の陵制にかない、『日本書紀』に畝傍山の東北とあるのにあい、『古事記』に白檮の尾上とあるのにもよくあっている。すなわち、これが神武天皇陵であることは明らかである。

  • 竹口英斎

    丸山を神武天皇陵とした根拠は下記のとおり。

    1. その地に段を築いた岡がある
    2. 畝傍山の北の尾の崎(さき)にある
    3. その字(あざ)を「カシフ」という。『古事記』にいう「白檮尾(かしを)」の転じ  たものである
    4. 傍らの小祠を「天王」という。「天王」は、「天皇」である
    5. 小祠を「ゴレウ」ともいう。「御陵」のことであろう
    6. 丸山の東の山を、磐根山というのは、「イワレ山」の転化と考えられる

    更にその著『陵墓誌』(1794年頃刊)では
    「 山城、大和、河内などで、帝皇の陵は『ミサザキ』、『ゴレウ』、『ミサンザイ』とい う。御廟・御墓は『ゴヘイ』、『ミベウ』、『ミハカ』、『オハカ』、『オツカ』とい う。親王、皇子、諸王の墓は『王の家』『大墓』などという。丸山に『御陵山』の名が あるから神武天皇陵である。『古事記』とあっている。」
    と述べる。
■直木孝次郎氏の丸山説批判

直木孝次郎氏は丸山説を批判してつぎのように述べる。

この丸山説については、幕末の学者谷森善臣が実地踏査しても御陵に該当する塚はなく、東北隅に白土鼻と呼ぶところがあるが「そは此山の山骨にて、白色なる大巌石の突起したる山の端にて、御陵なるべき地にあらず」と述べている。

筆者(直木氏)も畝傍山の東北斜面を歩いて、丸山らしいものを見出したが、せいぜい1メートルぐらいの隆起にすぎず、古墳の可能性は少ないと思われた。私がこれを丸山と判定した理由の一つは『宮』と刻した花崗岩制の角柱数基が、その隆起をかこんで建てられていたことによる。『宮』はもちろん宮内省の宮である。

丸山は畝傍山の東北部中腹にある。私(直木氏)も行って探してみたが、ほんのわずかな土の出っぱりといってよいものである。1メートルあるかなしの土の高くなったところで、さしわたしは5〜6メートルぐらい、円墳というより、土の高まりと考えた方がよいような所である。いま行ってみると、宮内省の『宮』の字を刻んだ石の角柱数基がとりかこんでいるので、これがあの丸山かとわかるが、とうてい古墳とは思われない。

これに対して安本先生はつぎのような情報から、直木氏は違うところを見ているかのではないかと反論している。
  • 直木氏の批判ははじめから、神武天皇は存在するはずはなく、従ってその陵も存在するはずがない、もし、後世の人が陵をあてはめるとすれば、それは、かならず、立派な「古墳」である。という前提のもとにのべられている見解のように見える。

  • 江戸時代に、津久井清影の描いた図でも明らかなように丸山じたいは1メートル程度の隆起ではない。人家の数倍、数十倍はあるかなりな程度の山である。同じく山川正宣の図でも、丸山は人家よりもかなり大きく描かれているは、

    直木孝次郎氏や谷森善臣は実地踏査したとしているが、津久井清影の『聖蹟図志』、北浦定政の『山陵精考』、山川正宣の『山陵考略』なども実地踏査をして記録されたものである。

  • 国立歴史民族博物館の春成秀爾氏は「『神武陵』はいつつくられたか」のなかで次のように述べる。

    『丸山は橿原市畝傍町洞にあり、旧洞村の背後にあたる畝傍山のまさに東北の尾根の上に立地し、立地からの比高はおよそ20mを測る」


■政治と学問のあいだ

谷森善臣は、同じ宇都宮藩顧問団の津久井清影、北浦定政の丸山説を知っていたであろう。また、谷森善臣は神武天皇陵の問題以外は穏当な判断をしている。にもかかわらず神武天皇陵についてはそうとう強引な判断をしたように見える。なぜだろう。

このころの事情について、国立歴史民族博物館の春成秀爾氏は次のように述べる。

1863年(文久3年)2月に神武陵に決定されたのは、むしろ本命とみられていた丸山ではなく、ミサンザイであった。

その理由こそ時の政治情勢下における洞村との関係にほかならなかった。洞村は1854年当時、120戸からなる被差別部落であった。もともと『神武陵』復興の動き自体尊皇攘夷運動の激化する過程で大きくなって行ったもので、文久の修築にかかる頃は、皇女和宮の降嫁に象徴されるように公武合体論が盛んな時であって幕府は朝廷との友好関係を強化することに自らの延命策を見出し、天皇陵の指定と修復の事業を本気で考慮していたのであった。

幕府は、孝明天皇が大和に行幸する計画を知るや、天皇陵の決定・修復事業を実施する決意を固め、戸田越前守から出された建白書をうけいれ、行幸に先立って山陵奉行を急遽設置し、宇都宮藩家老戸田忠至を任命し、谷森善臣をその相談役にしたのであった。ところが、そのわずか1ヶ月のちに、攘夷断行の報告のために孝明天皇の『神武陵』参拝が決定されたために、幕府はいっそう追いつめられることになったのである。

「『神武陵』はいつつくられたか」(『考古学研究』84、1975年)

つまり、本命と見られていた丸山説を採らずに、ミサンザイに決定した裏には次のような事情があったのである。
  1. 丸山が「神武天皇陵」に決定したならば、洞村の人たちは、立ちのきを命ぜられることが必至であると予想された。洞村の人たちにとっては、死活問題であった。
  2. 幕府がわは、時間にさしせまっており、洞村の人たちを、強制移転させる時間的余裕がなかった。
端的に言えば、谷森善臣は、天皇の行幸を前にしてトラブルが起きるのを避けるため、洞村の意向をくみ、幕府がわの事情をくんで、学問的判断を曲げて政治的判断を行ったのではないか。

 2.神武天皇はなぜ「東征」したのか

神武天皇東征伝承に、史実の核があるとすれば、なぜ、東征したのか?

■畿内は、南九州に比べれば、生産力のある土地

東京大学の日本史家であった井上光貞の『日本の歴史T神話から歴史へ』(中央公論) のなかで次のように指摘する。

出雲の国譲りの物語の一つの問題点は、天照大御神が天忍穂耳命を下界に下そうとした時、下界は非常にさわがしい状態であったと述べておきながら、将軍たちの平定は下界一般ではなく出雲国という特定の地方であったことである。

このことは、国譲りの後にくる『天孫降臨』の物語で、いよいよ天忍穂耳命の子を地上に降ろすとき、その地点が出雲でなくて日向であったとされることとあいまって、神代史の構想それ自身として、大きな矛盾をおかしているといえる。

井上光貞氏の指摘は、次のように考えれば、特別に「矛盾」というほどではない。
  1. 大国主の神の勢力は畿内大和の地を含めそうとう広大な地域であり、国譲りの談判は出雲で行われたが、国譲りの対象には畿内も含まれていたとみられる。
  2. 出雲には天の忍穂耳の命の弟の天の菩比の命が下っている。
  3. 出雲の国譲りの後、神武東征の前に、畿内には天孫系の邇芸速日の命が天下った。
つまり、大国主命の勢力の主要な根拠地とみられる出雲と大和には、天照大御神の子孫二人が天下りしている。

天の忍穂耳の命と邇芸速日の命とは、血統からいって「世が世であれば」、天皇家の祖 先になってもおかしくない存在であり、南九州へ「天孫降臨」した勢力の子孫が、たま たま現在の天皇家につながったため、そちらがクローズアップされ、出雲の国譲り物語 とのつながりが悪いようにみえるだけである。

『日本書紀』によれば、 「東に、美い地(よいくに)がある。そこに都をつくろう。」と神武天皇は述べたという。
南九州へ天下った邇邇芸命の子孫が神武天皇であった。南九州は火山灰・軽石など堆積 した白砂層の地で、生産力の豊かな地とは言えない。

のちの畿内にも、関東にも北九州に十分匹敵する程度の生産力をもつ地があった。つまり、神武天皇が東に向かった理由の一つとして、「東に、南九州よりも、生産力の豊かな地があった。」といえるのではないか。

■神武天皇の英雄性

歴史は、必然の法則によって展開しているのではない。時代が人をつくり、人が時代を つくるのである。たとえば、モンゴル帝国を築いたジンギスカンなどのように、卓越した英雄や天才は、時代の流れを大きく変える。歴史の探究において「英雄性」も無視できない。

戦後、マルクス主義などの影響か、歴史の必然的展開 が強調され、たとえば、英雄的人物が歴史において果たす役割を過少評価しているきらいがある。

ジンギスカンや秦の始皇帝などのように、新しい権力者は、しばしば生産力の低いところからおきて、肥沃、温暖な地を支配するにいたっている。工夫しなければならないことが多く上昇への願望が熾烈なためであろう。

神武天皇が東に向かった理由の一つとして、このような「神武天皇の英雄性」も考えなければならない。

■邪馬台国が勢力を伸ばす理由があった。

北九州にあった邪馬台国が各地に勢力を進出させていった理由を次のように考える。
  1. 邪馬台国は正義であった。

    現代では、
    • 理性や道義に従うことを正義と考える。
    • あるいは「最大多数の最大幸福」を目指すことを正義と考える。
    • 社会の成員の法的な、さらには 実質的な平等を目指すことが正義である。
    とする考えが根底にある。

    しかし古代では現在と違い、伝統のある家系のものが上に立つのが正しく、人々は、その家系の人に従うのが正義であるとする考えがあった。

    邪馬台国は中国の王朝によって権威づけられていた。その王家の血をひくことは、古代においてはもっとも権威のあるものであった。つまり、邪馬台国の王統に従うことが正義であったと考えられていたのではないか。

  2. 「血統」が国家行政の原理

    現代はエラサを決める序列には経験と能力にもとづいてエラサを決める「年功序列」、 人気といった人格的要素と能力で決める「選挙」などがあり、一般には能力、経験、学 歴などでエラサの順を決める傾向がかなり強くなっている。

    しかし、かってはどこの国でもエラサを決めるのに「出自」が大きくものをいった。 江戸時代の「士・農・工・商」は「出自」によってエラサを決めたものであり、インド のカースト制度もそうである。徳川将軍は将軍家に生まれたが故に大きな権力の座に着いた。

    古代においては天皇家は他の豪族と同じ程度の権力しか持っていなかったとする見解があるが、次のようなことから、「血統」の原理に基づく天皇家の権威は大和朝廷成立の当初から、他の氏族に比べ、卓越していたとみられる。

    • 『古事記』『日本書紀』によれば天皇の「妻(みめ)」などでも、天皇家の血の濃い女性は「出自」がよいとみなされて「皇后」になりやすく、天皇家から血のはなれた女性は「身分が卑しい」とみなされる傾向があった。これは、天皇家に血筋が近いものに権威があり、「血統」が国家行政の原理であった ことを示す。

    • 『古事記』の序文において、天武天皇が、「帝紀(皇統譜のような記録)や本辞(神 話・伝説)」を「邦家の経緯(国家行政の根本組織)・王化の鴻基(天皇徳化の基本) 」と述べている。

      天皇を頂点とするヒエラルキーによって、エラサの順を決め、社会の秩序を保っているわけであるから、その「帝記や本辞」が「正実に違い、多くの虚偽を加ふ」ようになってしまっては、社会の秩序が保てず、国家行政の根本組織がおかしくなってしまうのである。

      「血統」の原理が理解できないと、なぜ、「帝記」が国家行政の根本組織や原理になるのか、わからなくなってしまう。


  3. 租税制度による国家権力の拡大再生産システム

    大和朝廷の強大な政治的権力の、もう一つの源泉は、その政治システムとしての「租税制度」である。『魏志倭人伝』に、倭人は「租賦を収む」と記されている。「租税をとる」というアイデアは、中国からきたものと考えられるが、これによって、戦争に専念できる軍隊を養い、支配地域を拡大し、新たな領地から税を徴収するという国家権力の拡大再生産を可能にする。

    アイヌは最後まで組織的な徴税制度を持たず、部族国家の域を脱しなかった。このような部族国家では鮭が川に登ってくれば、戦争を中断して魚を捕らなければならない。兵士は日頃は生産に従事していて戦争のプロではない。

    徴税システムを持つ国家と、部族国家が戦った場合、長い目で見ると部族国家に勝ち目はない。 大和朝廷は徴税を行うという新機軸の国家システムで比較的短期間に日本列島を席巻していったと見られる。
■結論

以上をまとめると、神武天皇が東に向かった主な理由として下記の三つを上げることが できる。
  1. 東に南九州よりも生産力の豊かな地があったこと
  2. 神武天皇に英雄性があったこと
  3. 天皇家を貴種と定め、貴種による支配を正義とし、租税制度を普及させ、その税収により軍隊や役人を養い、政治を組織化する構造を持って東へ進出したこと。これに敵対勢力は対抗できなかった。


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