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第236回 魏志倭人伝を読む
卑弥呼のもらった鏡

 

1.『大和朝廷の起源』についての立花隆氏の書評

立花隆氏 ノンフィクション作家の立花隆氏は、週刊文春8月25日版の、文春図書館「私の読書日記」のなかで、安本先生の最近の著書『大和朝廷の起源』をとりあげ、高く評価した。

この書評は、安本先生の基本的な立場を簡潔にまとめてあるので、この書評に沿って安本先生の考え方の概要を解説。
( 内容については、著書と書評の紹介を参照 >> 

■ 書評についての補足説明
  • 日本書紀に記述される年代は、古い方へ引き延ばされているので、これを適切に修正すれば、つぎのようなことを統一的に説明できる可能性がある。

    • 『古事記』『日本書紀』の記述
    • 『魏志倭人伝』をはじめとする中国文献の記述
    • 考古学的な諸事実

  • 統一的な説明(統一理論)の必要性

    特定の部分だけに基づいた説明では、結果的に全体を誤る危険性が高い。

    たとえば、部屋の中を観測して床がたいらだからといって、「地球はどこまで行っても平面である」と言えば誤りである。部分的真実であっても、全体をうまく説明できなければ誤りである。

    多くの考古学者が「邪馬台国は畿内なり」という議論をしているが、そのほとんどが、『古事記』『日本書紀』の内容をいっさい無視して、考古学の世界の中だけで議論をして結論を出している。

    考古学の中の部分的真実だけでは、歴史の全体を誤ってとらえる危険性が高い。内外の古文献などとも整合を取る必要がある。

2.卑弥呼のもらった鏡について

■ 「位至三公鏡(いしさんこうきょう)」

魏から禅譲をうけて成立した晋(西晋)は、魏と同様に洛陽を都とした。西晋時代の洛陽の墓(洛陽晋墓)から出土する代表的な鏡が、「位至三公鏡」である。

中国の社会科学院考古研究所の所長であった考古学者・徐苹芳氏は、「位至三公鏡」について、つぎのようにのべる。

「位至三公鏡は、魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265〜316)に大層流行しましたが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。

日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸出できなかったものと考えられます。」


「魏の時代にはいわゆる「位至三公鏡」が新たに出現しております。これは後漢の双頭竜鳳文鏡から変化してできたもので、西晋時代になって特に流行しました。

ちなみに、洛陽の西晋時代の墓から出土した沢山の銅鏡のうち、三分の一がこの位至三公鏡でして、数量ではベストワンです。

西晋の墓からは、そのほか様々な銅鏡が出土していますが、例えば内行花文鏡・変形獣首鏡・鳳鏡・方格規矩鏡・盤竜鏡などは、魏の時代の銅鏡と何ら違いはありません。

また洛陽を中心としてその周辺の地点、例えば河南省の陜(せん)県・鄭州市・安陽市・焦作市、また陳西省の西安などで行なわれた調査発掘の成果によりますと、後漢の末期から魏晋時代にかけての墓から出土します銅鏡は、洛陽出土のものと何ら変わるところがありません。」

(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊)

「位至三公鏡」は、邪馬台国の時代(魏および晋の時代)に中国北部の魏、晋の地域でもっとも主流となった鏡であった。

日本で出土した「位至三公鏡」
番号出土県名遺跡名遺跡所在地面径(cm)
福岡県岩屋遺跡北九州市若松区大字有毛、岩屋9.9
福岡県鋤崎古墳福岡市西区今宿青木字鋤崎11.8
福岡県正恵古墳群前原市大字井原9.8
福岡県鷺田山遺跡筑紫野市武藏 
福岡県犀川町山鹿2号石棺墓京都郡犀川町山鹿字石ヶ坪茶園 
福岡県 粕屋郡粕屋町酒殿 
福岡県 (伝)福岡市8.3
佐賀県志波屋六本松古墳群包含層神崎郡神崎町大字志波屋字六本松復元9.6
佐賀県志波屋六本松古墳群包含層神崎郡神崎町大字志波屋字六本松復元9.2
10佐賀県町南遺跡SB103竪穴住居跡三養基郡中原町大字原古河字町南、三本松復元8.2
11佐賀県男女神社西南佐賀郡大和町久留間横馬場 
12佐賀県谷口古墳東松浦郡浜玉町大字谷口字立中8768.1(8.2)
13大分県臼塚古墳臼杵市大字稲田字林、西平9.5
14香川県是行谷古墳群(土窯古墳)大川郡長尾町大字東字是行谷約10
15山口県赤妻古墳(丸山古墳)山口市下宇野令赤妻(山口市赤妻町)8.8
16島根県玉造築山古墳八束郡玉湯町玉造8(8.3)
17岡山県随庵古墳総社市西阿曽9.8
18大阪府カトンボ山古墳堺市百舌鳥塚赤畑町58.1
19大阪府塔塚古墳(堺塔塚古墳)堺市浜寺本町 
20大阪府高月古墳(堺高月2号墳)堺市浜寺船尾町8.4
21大阪府大鳳群伝出土堺市(旧大鳳郡) 
22大阪府大鳥塚古墳藤井寺市古室2丁目8.2 
23大阪府 旧大阪(摂津・河内・和泉国)不明
24三重県筒野1号墳一志郡嬉野町大字一志字筒野13.6
25神奈川県 神奈川県内(東京国立博物館蔵)9.3
26  九州大学玉泉館蔵鏡10
27  京都大学文学部蔵鏡4207 
28  (伝)奈良県山辺郡都祁村出土鏡 
29  小倉文化財団蔵鏡(「君宜」「高官」銘) 


日本で出土する「位至三公鏡」については、次のようなことがいえる。
  • 中国で、魏晋時代に行われた「位至三公鏡」は、わが国では、福岡県・佐賀県を中心とする北九州から出土している。奈良県からは、出土例がない。

  • 「位至三公鏡」よりも、形式的にまえの時代の鏡(その中に魏代の鏡が含まれているとみられる)も、北九州を中心に分布する。

  • これらのことから、魏のあとをうけつぐ西晋の時代まで、鏡の出土分布からみて倭国の中心は北九州にあったとみられる。

  • 「位至三公鏡」よりも、形式的にも、出土状況もあとの時代の「三角縁神獣鏡」などは、畿内、とくに奈良県を中心に分布する。

  • 卑弥呼が使いをだしたころ、じっさいに、魏の洛陽ふきんで行われていた鏡をとりあげず、「三角縁神獣鏡」のように中国からの出土例もなく、また、文様も、中国の南方の呉系の鏡を「卑弥呼の鏡」とするのは、直接的・具体的な事実にもとづいているのではなく、観念的な論理操作にもとづいている。
位至三公鏡 蝙蝠鈕座内行花文鏡

■ 「蝙蝠鈕座内行花文鏡(こうもりちゅうざないこうかもんきょう)」

後漢が滅亡して魏が成立し、官営工房の尚方が再建されると、銅鏡の製作が始まった。この時代に鋳造された鏡は、内行花文鏡・獣首鏡など、すべて後漢以来の旧式鏡であった。

ただ、いくつかの鏡で文様が簡略化され、内行花文鏡では、鈕座(紐を通す穴)の周囲のスペード形の文様が蝙蝠の形になってしまった。これを「蝙蝠鈕座内行花文鏡」とよぶ。

「蝙蝠鈕座内行花文鏡」は魏の時代に出現したことがほぼ確かな鏡といえる。

日本で出土した「蝙蝠鈕座内行花文鏡」
番号出土県名遺跡名遺跡所在地面径(cm)
福岡県老司古墳第3号石室福岡市南区老司57112.8
福岡県野方中原遺跡3号石棺墓福岡市西区中原復元10.6
福岡県前田山遺跡行橋市前田・検地9.85
福岡県三雲寺口遺跡2号石棺墓前原市大字三雲字寺口U−1715.5
福岡県久原遺跡V−4号墳宗像市大字久原ほか12.8
福岡県潜塚古墳大牟田市黄金町1−46914
福岡県御笠地区遺跡筑紫野市大字阿支岐14
福岡県上大隈平塚古墳粕屋郡粕屋町大字大隈復元13.6
福岡県神領2号墳粕屋郡宇美町字西明寺11.6
10福岡県谷頭遺跡嘉穂郡頴田町西佐与12.4
11宮崎県広島古墳群宮崎市広島13.3
12山口県朝田墳墓群3号方形台状墓山口市大字朝田第U地区復元10.2
13島根県岡田山1号墳松江市大草町字岡田884−110.48
14島根県 八束郡大庭村大字有12.88
15広島県石鎚山第2号古墳福山市加茂町上加茂12.8
16愛媛県東(春)宮山古墳川之江市妻鳥町東(春)宮山9.6以上
17香川県猫塚古墳高松市鶴市町御殿3714
18兵庫県白鷺山石棺墓竜野市竜野町日山復元10.2
19兵庫県東求女塚古墳東灘区住吉富町1丁目17.2
20兵庫県東求女塚古墳東灘区住吉富町1丁目16.4
21大阪府加美遺跡大阪市加美東6丁目復元12
22和歌山県円満寺古墳有田市宮原町東17.4
23京都府美納山王塚古墳八幡市美納山11.5
24岐阜県御岳神社古墳可児郡可児町広見 
25静岡県銚子塚10号墳磐田市寺谷12.0
26群馬県軍配山古墳佐波郡玉村町角淵 

「蝙蝠鈕座内行花文鏡」も、「位至三公鏡」とおなじく、福岡県から数多く出土するにもかかわらず、奈良県からは、出土例がない。

■ 十種類の魏晋鏡

卑弥呼が魏からもらった可能性が大きい鏡は、「蝙蝠鈕座内行花文鏡」や「位至三公鏡」をはじめとする当時中国北部で行われていた次の十種類の魏晋鏡である。
    盛況の講演会
  • 蝙蝠鈕座内行花文鏡
  • 位至三公鏡
  • 双頭竜鳳文鏡
  • 方格規矩鳥文鏡
  • 漢鏡6期の方格規矩鏡
  • 鳳鏡(きほうきょう)
  • 獣首鏡
  • 三角縁盤竜鏡を除く盤竜鏡
  • 飛禽鏡
  • 円圏鳥文鏡
三世紀から古墳時代までの遺跡での、これら十種類の魏晋鏡の出土した数を見ると、奈良県からは2面しか出土していないのに、福岡県からは奈良県の20倍に近い37面が出土している。

このように北九州に集中する現象は、魏志倭人伝に記される鉄族、鉄剣、鉄戈、鉄矛などと同じ傾向である。

中国の学者たちが声をそろえて、卑弥呼の鏡はこれら十種類の魏晋鏡だと言っているにもかかわらず、日本の考古学者は、これを一切無視して三角縁神獣鏡こそが卑弥呼の鏡と主張する。

そして、関西の新聞記者が、このような考古学者の発言を、ことあるたびにセンセーショナルに全国に流しているのが現状である。

3.日本と韓国の古代史

■ 新羅の金銀

新羅の都・慶州からは、金や銀の製品が多数出土し、国立慶州博物館などに展示されている。

日本の弥生時代の遺跡からは、志賀島出土の金印以外には、金銀製品がほとんど出土しないことと好対照である。

新羅に金銀が多いことは、『日本書紀』の神功皇后紀にも次のように記述されている。

眼炎く(まかがやく)金(こがね)、銀(しろがね)、彩色(うるはしきいろ)、多(さわ)に其の国に在り。是を栲衾新羅国(たくぶすましらぎのくに)と謂ふ。

  慶州金鈴塚出土の金冠 慶州皇南大塚出土の金冠 慶州路西洞出土の頸飾

■ 押木玉縵(おしきのたまかづら)

『日本書紀』の安康天皇の条に、次のような逸話がある。

「安康天皇が大泊瀬皇子のために、大草香皇子の妹の幡梭皇女(はたひのひめみこ)と結婚させたいと 望まれ、坂本臣の租・根使臣(ねのおみ)を使いにだした。

大草香皇子は天皇の申し入れを承諾し、家宝の押木玉縵を信契として天皇に奉った。

ところが、根使主がこの押木玉縵の麗美さに感嘆し、自分の宝として着服してしまい、さらに、 大草香皇子が命を奉じないと偽りの報告をした。

天皇は大いに怒って、大草香皇子の家を囲んで殺し、そして幡梭皇女を大泊瀬皇子と結婚させた」

ここに現れる押木玉縵とは、慶州で出土した金冠と同じ種類の宝物であると言われている。

すなわち、押木とは、押し重なった樹枝形立飾を意味し、玉縵とは、縵草の類を輪にした髪飾り、転じて冠のことで、実際に慶州の、金冠塚や瑞鳳塚、天馬塚などから出土している、勾玉で飾った金製の冠のことである。

大草香皇子は、このような逸品を、皇子に仕えていた新羅系の帰化人を通じて所蔵していたのである。

なお、この逸話には、雄略天皇の条に次のような後日譚がある。

「それから16年経過し、大泊瀬皇子が雄略天皇になっていたが、呉人が来朝した とき、一緒に饗宴に参加する人として、根使臣が選ばれた。

天皇はひそかに舎人をつかわして、根使臣の装餝を見させたが、身につけた玉縵がはなはだ貴く非常に 美しいものであり、その以前にも使を迎えるとき装餝していたと報告した。

天皇は見たいとされ、根使臣を饗応のときと同じ服装で引見した。先の大草香皇子の妹で あった皇后は、これを見て啼泣したので、根使臣がかって偽り報じたことが発覚した。 根使臣は逃亡したが、遂に官軍のために殺された。」

押木玉縵は人々の目につくきわめて麗美なものであったことがうかがえる。

慶州市街地図



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