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第235回 魏志倭人伝を読む
三角縁神獣鏡を考える

 

1.三角縁神獣鏡を考える

■ 魏の皇帝の詔書

倭人伝に記された魏の皇帝の詔書によれば、卑弥呼の朝貢に対して、魏の皇帝は次のものを贈って、卑弥呼が献じた貢直(みつぎものの値)に答えた。    詔書全文 >>
  • 絳地(あつぎぬ)の交竜錦(二頭の竜を配した錦の織物) 五匹
  • 絳地の(すうぞくけい:ちぢみ毛織物) 十張
  • 絳(せんこう:あかね色のつむぎ) 五十匹
  • 紺青(紺青色の織物) 五十匹
また、鄭重に好い物を賜るので、これらを持ち帰って国中の人にしめし、魏が、卑弥呼をあわれんでいることを知らせよ、として以下のものを与えた。
  • 紺地の句文錦(くもんきん:紺色の地に区ぎりもようのついた錦の織物) 三匹
  • 細班華(さいはんかけい:こまかい花もようを斑らにあらわした毛織物) 五張
  • 白絹(もようのない白い絹織物) 五十匹
  • 金 八両
  • 五尺刀 二口
  • 銅鏡 百枚
  • 真珠・鉛丹(黄赤色をしており、顔料として用いる)  おのおの五十斤
上に示す五尺刀は鉄刀と考えられる(五尺の長さの刀は、銅製では強度が不足)が、 前回の講義で、鉄刀も絹も、北九州を中心に分布していることを示した。

鏡も、当時魏で行われていたものに限定すれば、北九州を中心に分布しており、奈良県とは圧倒的な差がある。

邪馬台国畿内説を主張する人々は、「卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚」は三角縁神獣鏡のことである、と主張し、これが畿内中心に出土することを根拠にして、邪馬台国は畿内にあったと述べる。

しかし、これは非常に無理の多い議論である。 以下にその無理の内容を解説する。

■ 三角縁神獣鏡の数についての疑問
  • 三角縁神獣鏡の出土状況

    三角縁神獣鏡は、全国で、すでに500面以上出土している。

    最近は、画文帯神獣鏡も卑弥呼がもらった鏡だという主張もある。

    画文帯神獣鏡は日本で150面ほど出土しており、三角縁神獣鏡とあわせると650面に達する。

  • 遺物の出土率

    考古学的な遺物の出土率を示す事例。

    • 中国の五代(907〜960)の時、呉越国が立国し、日本と親交を結ぶために500基の「銭弘俶塔(せんこうしゅくとう)」というものを贈ってきた。「銭弘俶塔」の現在までの出土数は5基。出土率は1%である。

    考古学者の森浩一氏は、経塚に納められた「銭弘俶塔」と、古墳に副葬される鏡との違いを考慮して、鏡の出土率を10%程度と推定した。

  • 三角縁神獣鏡の輸入数の推定

    畿内説の学者たちが卑弥呼の鏡とする三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の現在までの出土数は、上述のようにおよそ650面である。

    森浩一氏の推定した出土率10%で計算すると、過去には、約6500面の鏡が輸入されたことになる。

    卑弥呼が魏に使いを出した239年ごろから、魏が滅ぶ265年までは、約26年間である。26年間に6500面の鏡を輸入するためには、毎年250面もの鏡を輸入しなければならないことになる。

    無茶すぎないであろうか。

    中国の五代の時代は、邪馬台国の時代よりも、約700年あとである。このころの「銭弘俶塔」の出土率(現存率)が1%とすると、邪馬台国時代の鏡の出土率を10%と見るのは、かなり高めの値である。

    かりに、5%の出土率とみれば、13000面もの鏡が26年間に輸入されたことになる。毎年500面である。話があまりにもおかしい。
■ 三角縁神獣鏡は中国では1面も出土していない

中国の考古学の第一人者・王仲殊氏は著書『三角縁神獣鏡』のなかでつぎのように述べている。

鏡の全体を見ると、中国の魏鏡にしろ呉鏡にしろ、いずれも日本出土の三角縁神獣鏡とは 異なっている。

つまり、北方であれ南方であれ、中国から出土するどの鏡と比較しても、三角 縁神獣鏡は、これらには見られぬ特色を持っている。

すなわち、三角縁神獣鏡の巨大な大きさ、高く鋭くとがった外縁部のことは別にしても、内区外周のいわゆる『唐草文帯』、また文様と銘文の間にはまり込んでいる幾つもの乳状突起(乳)、さらに『笠松形』と称される図案化された旄(ほう:旗飾りの一種)の文様などは、いずれも、三角縁神獣鏡が中国の魏鏡でないばか りか、呉鏡とも異なっていることを示している。

はっきり言って、これまでかなり広く調べて みたが、中国全土のどこにも、たとえ一面といえども、三角縁神獣鏡が発見されたことはない のである。

■ 三角縁神獣鏡は3世紀の古墳から出てこない。

三角縁神獣鏡は、畿内では、三世紀の邪馬台国時代の墓からはまず出土していない。こ れについては、畿内説の考古学者・樋口隆康氏自身、つぎのようにのべている。

1980年代になって来て、三世紀の古墳というものが、だんだん考古学調査で解っ てまいりまして、そこから鏡が出て来る。三角縁神獣鏡ではなくて、もう少し古い鏡で す。

そこには製鏡もあれば、中国製の鏡もある。というようなことが、だんだん解ってまいりまして、そういうものをもう一度検討してみる必要があるだろうということになった。

そうすると、やっぱり方格規矩鏡とか、それから内行花文鏡とか、飛禽鏡とか、あるいは菱鳳鏡とか、あるいは盤竜鏡とか、さっき王(仲殊)先生がおあげになったようなものとだいたい似たよう な鏡が、三角縁神獣鏡がお墓に埋められるようになる前の日本の古墳からも出ていると いうことが、解って来ております。

王仲殊・樋口隆康・西谷正共著『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院、1997年刊

■ 三角縁神獣鏡は古墳築造時に製作された

以下の例のように、「同じ古墳から出土した同デザイン鏡は面径が一致する。」という強い法則性がある。

表1. 奈良県佐味田古墳などから出土している「天王日月」銘唐草文帯四神四獣鏡
出土地面径(センチ)
奈良県佐味田宝塚古墳23.9
京都府椿井大塚山古墳23.7
静岡県赤門上古古墳23.7
兵庫県吉島古墳23.4
兵庫県吉島古墳23.4

表2. 福岡県原口古墳などから出土している「天王日月」銘獣帯三神三獣鏡
出土地面径(センチ)
福岡県原口古墳22.6
福岡県天神森古墳22.6
大分県赤塚古墳22.6
京都府椿井大塚山古墳22.6
福岡県石塚山古墳22.4
福岡県石塚山古墳22.4

表3. 大阪府紫金山古墳などから出土している獣文帯三神三獣鏡
出土地面径(センチ)
大阪府紫金山古墳24.4
大阪府紫金山古墳24.4
福岡県沖の島17号遺跡24.3
京都府百々ヶ池古墳24.2
大阪府壺井御旅山古墳24.0


これまで出土した三角縁神獣鏡のデータ(『倭人と鏡 その2』(埋蔵文化財研究所関西世話人会編)巻末データ+黒塚古墳出土鏡)をもとに、一つの古墳から二面以上出土しているケースを全て取り出して調べると、
  • 同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率は、82.1%
  • 異なる古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率は、25.5%
1ミリ以内の面径の差を誤差範囲として計算しても
  • 同じ古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率は、92.9%
  • 異なる古墳から出土した同デザイン鏡の面径の一致率は、62.0%
であり、同デザイン鏡が、同じ古墳から出土する場合と異なる古墳から出土する場合とで、上記いずれの場合も、統計学的に偶然とはいえない差が認められる。

踏み返しによって同デザイン鏡を製作すると、銅の収縮によって、新しい鏡は元の鏡よりも面径が小さくなる。この現象を考慮すると、上記データは、次のようなことを示していると考えられる。
  • 同じ古墳から出土した同デザイン鏡は、古墳築造の時に同時に作った「同デザイン同型鏡」がほとんどである。
  • 異なる古墳から出土した同デザイン鏡は、「同デザイン踏み返し鏡」がほとんどである。
岡村秀典氏は三角縁神獣鏡の伝世を説くが、岡村氏の言うように、中国大陸で製作されて日本に運ばれ、時間を経てから各地に埋納されたものであれば、伝世の過程でバラバラになるので、上記のような高い確率で同デザイン同型鏡が同じ古墳から出土することは考えにくい。

やはり、三角縁神獣鏡は、古墳での葬儀に関連して日本で作られたと考えるのが無理がない。

■ 三角縁神獣鏡の押韻

三角縁神獣鏡の銘文は韻を踏んでいない。

魏の時代は曹操父子を中心として詩壇が形成され、詩文隆盛の時代であった。三角縁神獣鏡が魏の鏡ならば、その銘文が韻を踏まないことは考えられない。

中国語の音韻に詳しい森博達氏は述べる。

押韻の意識すら持たない三角縁神獣鏡の拙劣な銘文は、親魏倭王のみならず魏の皇帝の権威にも傷が付く。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜るはずがない。三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。

詳しくは、こちらを参照 >>

2.日本と韓国の古代史

■ 朝鮮の歴史書 

『三国史記』と『三国遺事』
  • 『三国史記』
    新羅・高句麗・百済の三国の歴史を記したもので、高麗時代の1145年に、金富軾(きんふしょく)等が編纂した官撰書。よくできていたのでそれ以外の歴史書を駆逐して しまい、現存最古の貴重な資料である。

  • 『三国遺事』
    1280年に高麗の高僧一然(いちねん)が編纂した私撰の歴史書。『三国史記』にもれた史実・伝承を集めたもの。僧侶が編んだので、仏教関連の情報は詳しく書かれている。
■ 加羅諸国の始祖伝承

釜山、金海などのある洛東江流域付近は、昔は、加羅、伽耶(かや)・駕洛(から)・任那 などと記されていた。

加羅諸国の中でも有力な金海加羅国の故地である金海には、加羅諸国の始祖と伝えられる首露王の陵・廟が現存する。

『三国遺事』巻二に採録された「駕洛国記」のなかに、首露王が加羅諸国の始祖となった神話伝承が、概略次のような内容で記されている。

亀旨峰(きじのみね:クジポン)に、天から黄金の卵が6個が降臨してきた。
この卵が童子になり、10日余りで身長九尺の大人になり、六伽耶のそれぞれの王となった。
最初に現れた童子が首露王で、国を大駕洛または伽耶国と称した。
6年後に海のかなたから来た「阿踰(あゆだ)国」の公女を后とした。后は157歳、王は158歳まで 生きた。
9代孫の仇衛(新羅に降って王位を失った)まで陵墓を守った。

神話の中でも六伽耶のそれぞれに王がいたとされており、加羅諸国は統一されていなかったようだ。

また、亀旨峰(クジポン)は、天孫降臨伝承の「高千穂の久士布流多気(くじふるだけ)」と関係するとする説がある。

■ 金海貝塚と金海式甕棺

首露王陵の400m南に、青銅器時代から三国時代にわたる遺跡で金海貝塚として有名な 「会里(かいけんり)貝塚」があり、これまで数次の発掘で、甕棺、箱式石棺、支石墓、細型銅剣、銅(やりがんな)、貨泉などが発見されている。

貝塚形成時に鉄斧・鉄片が存在することから、鉄器を使用する時期に属していたことは明らかであり、また、 「貨泉」の存在は貝塚年代の一点が「王莽の新」の時代に近いことを示している。

甕棺は、出土地の名称によって「金海式甕棺」と呼ばれるが、九州で製作されていた型式のものが、搬入されたと考えられている。この甕棺内外から碧玉製管玉、細型銅剣、銅など、北九州の甕棺と同じような遺物が出土する。

■ 任那

朝鮮では、任那あるいは任那日本府の存在を認めない学者が多い。

任那は高句麗の広開土王碑に現れるのが最古例である。中国正史のの宋書や、三国史記などの朝鮮の史料にも現れるので、任那が朝鮮半島に存在したことは確かであろう。

五世紀前半に、倭王済(せい)や武(ぶ)は、客観的存在である中国の南朝の宋から、 「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」 とう爵号を与えられている。

この爵号は、当時の倭国が朝鮮半島に軍事的な影響力を保有していたことを示している。しかし、倭国が、この地域を占領して植民地化したわけではなく、韓の諸国は独立していて、倭国に貢ぎ物を送るような関係であったのだろう。

安本先生は、「任那日本府とは、諸国から貢ぎ物を集めて倭国に送るための出先機関」ではないかと述べる。

■ 加羅の古墳群

市街から遠くないところに、近年発掘された金海礼安里古墳群や釜山福泉洞古墳群などがあり、出土遺物は国立博物館や市立博物館などに収蔵されている。

これらの遺物のなかには、以下のように加羅と日本の密接な関係を示しているものがある。
洛東江下流の福泉洞古墳群は本格的調査が進められ、興味深い事実が明らかになっている。
  • 被葬者: 五世紀代までこの地域を統制した首長クラスの人物
  • 遺跡の特徴: 鉄器類(鉄、甲冑、馬具類)の出土がきわだって多い。
  • 遺物の特徴
    • :鋳鉄ではなく鍛鉄。この地域の生産事情と製鉄技術についての情報が得られた。
    • 蒙古鉢型冑(かぶと):和歌山県椒浜古墳、奈良県五條市猫塚古墳出土の冑と近似。
は奈良県ウワナベ古墳の培塚からも大量に出土しており、朝鮮半島との関連を思わせる。

蒙古鉢型冑は、高句麗系の冑であり、400年に高句麗軍が安羅まで進入してきた証拠かもしれない。少なくとも、この地域が、高句麗など騎馬民族の影響を受けたことは確実である。



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