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第235回 魏志倭人伝を読む |
1.三角縁神獣鏡を考える |
■ 魏の皇帝の詔書
倭人伝に記された魏の皇帝の詔書によれば、卑弥呼の朝貢に対して、魏の皇帝は次のものを贈って、卑弥呼が献じた貢直(みつぎものの値)に答えた。 詔書全文 >>
鏡も、当時魏で行われていたものに限定すれば、北九州を中心に分布しており、奈良県とは圧倒的な差がある。 邪馬台国畿内説を主張する人々は、「卑弥呼が魏からもらった銅鏡百枚」は三角縁神獣鏡のことである、と主張し、これが畿内中心に出土することを根拠にして、邪馬台国は畿内にあったと述べる。 しかし、これは非常に無理の多い議論である。 以下にその無理の内容を解説する。 ■ 三角縁神獣鏡の数についての疑問
中国の考古学の第一人者・王仲殊氏は著書『三角縁神獣鏡』のなかでつぎのように述べている。
鏡の全体を見ると、中国の魏鏡にしろ呉鏡にしろ、いずれも日本出土の三角縁神獣鏡とは
異なっている。
三角縁神獣鏡は、畿内では、三世紀の邪馬台国時代の墓からはまず出土していない。こ れについては、畿内説の考古学者・樋口隆康氏自身、つぎのようにのべている。
1980年代になって来て、三世紀の古墳というものが、だんだん考古学調査で解っ
てまいりまして、そこから鏡が出て来る。三角縁神獣鏡ではなくて、もう少し古い鏡で
す。
以下の例のように、「同じ古墳から出土した同デザイン鏡は面径が一致する。」という強い法則性がある。 表1. 奈良県佐味田古墳などから出土している「天王日月」銘唐草文帯四神四獣鏡
表2. 福岡県原口古墳などから出土している「天王日月」銘獣帯三神三獣鏡
表3. 大阪府紫金山古墳などから出土している獣文帯三神三獣鏡
これまで出土した三角縁神獣鏡のデータ(『倭人と鏡 その2』(埋蔵文化財研究所関西世話人会編)巻末データ+黒塚古墳出土鏡)をもとに、一つの古墳から二面以上出土しているケースを全て取り出して調べると、
踏み返しによって同デザイン鏡を製作すると、銅の収縮によって、新しい鏡は元の鏡よりも面径が小さくなる。この現象を考慮すると、上記データは、次のようなことを示していると考えられる。
やはり、三角縁神獣鏡は、古墳での葬儀に関連して日本で作られたと考えるのが無理がない。 ■ 三角縁神獣鏡の押韻 三角縁神獣鏡の銘文は韻を踏んでいない。 魏の時代は曹操父子を中心として詩壇が形成され、詩文隆盛の時代であった。三角縁神獣鏡が魏の鏡ならば、その銘文が韻を踏まないことは考えられない。 中国語の音韻に詳しい森博達氏は述べる。 押韻の意識すら持たない三角縁神獣鏡の拙劣な銘文は、親魏倭王のみならず魏の皇帝の権威にも傷が付く。こんな銘文をもつ鏡を特鋳して賜るはずがない。三角縁神獣鏡魏朝特鋳説は幻想だ。 詳しくは、こちらを参照 >> |
2.日本と韓国の古代史 |
■ 朝鮮の歴史書
『三国史記』と『三国遺事』
釜山、金海などのある洛東江流域付近は、昔は、加羅、伽耶(かや)・駕洛(から)・任那 などと記されていた。 加羅諸国の中でも有力な金海加羅国の故地である金海には、加羅諸国の始祖と伝えられる首露王の陵・廟が現存する。 『三国遺事』巻二に採録された「駕洛国記」のなかに、首露王が加羅諸国の始祖となった神話伝承が、概略次のような内容で記されている。
亀旨峰(きじのみね:クジポン)に、天から黄金の卵が6個が降臨してきた。
また、亀旨峰(クジポン)は、天孫降臨伝承の「高千穂の久士布流多気(くじふるだけ)」と関係するとする説がある。 ■ 金海貝塚と金海式甕棺 首露王陵の400m南に、青銅器時代から三国時代にわたる遺跡で金海貝塚として有名な 「会里(かいけんり)貝塚」があり、これまで数次の発掘で、甕棺、箱式石棺、支石墓、細型銅剣、銅(やりがんな)、貨泉などが発見されている。 貝塚形成時に鉄斧・鉄片が存在することから、鉄器を使用する時期に属していたことは明らかであり、また、 「貨泉」の存在は貝塚年代の一点が「王莽の新」の時代に近いことを示している。 甕棺は、出土地の名称によって「金海式甕棺」と呼ばれるが、九州で製作されていた型式のものが、搬入されたと考えられている。この甕棺内外から碧玉製管玉、細型銅剣、銅など、北九州の甕棺と同じような遺物が出土する。 ■ 任那 朝鮮では、任那あるいは任那日本府の存在を認めない学者が多い。 任那は高句麗の広開土王碑に現れるのが最古例である。中国正史のの宋書や、三国史記などの朝鮮の史料にも現れるので、任那が朝鮮半島に存在したことは確かであろう。 五世紀前半に、倭王済(せい)や武(ぶ)は、客観的存在である中国の南朝の宋から、 「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」 とう爵号を与えられている。 この爵号は、当時の倭国が朝鮮半島に軍事的な影響力を保有していたことを示している。しかし、倭国が、この地域を占領して植民地化したわけではなく、韓の諸国は独立していて、倭国に貢ぎ物を送るような関係であったのだろう。 安本先生は、「任那日本府とは、諸国から貢ぎ物を集めて倭国に送るための出先機関」ではないかと述べる。 ■ 加羅の古墳群 市街から遠くないところに、近年発掘された金海礼安里古墳群や釜山福泉洞古墳群などがあり、出土遺物は国立博物館や市立博物館などに収蔵されている。 これらの遺物のなかには、以下のように加羅と日本の密接な関係を示しているものがある。
蒙古鉢型冑は、高句麗系の冑であり、400年に高句麗軍が安羅まで進入してきた証拠かもしれない。少なくとも、この地域が、高句麗など騎馬民族の影響を受けたことは確実である。 |
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