4世紀末から5世紀にかけて、万をこえる倭の軍隊が朝鮮半島の奥地まで侵入し、戦いをくりひろげたことが、高句麗の広開土王の碑文に記されている。
そして、それを裏づける記事が『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』や、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、あるいは、中国の史書『宋書』などにみえる。
■ 広開土王碑文
広開土王碑文は、朝鮮半島に侵入した倭について次のように記す。
- 400年:
新羅の国境に倭人が満ちていたが、広開土王は歩騎五万を派遣して新羅を救った。
- 404年:倭は不軌(無軌道)にも、帯方界に侵入した。
帯方界といえば、現在のソウルからその北のあたりをさす。倭は朝鮮半島のそうとう奥地まで侵入している。
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407年:広開土王は、歩騎五万を派遣し、倭と合戦して、残らず斬り殺し、獲得した鎧ナ(がいこう)は一万余領、持ち帰った軍資や器械は数え切れないほどであった。
■ 朝鮮半島での倭の勢力
広開土王碑文によれば、「倭賊は退却し」、「壊滅し」、「残らず斬り殺された」ことになっている。
しかし、歴史学者・坂元義種氏は、必ずしも一方的な状態ではなかったと、次のように述べる。
好太王碑文によると、倭軍は高句麗によってさんざん敗られたことになっているが、実際はかならずしも「倭寇、潰敗し、斬殺すること無数」というわけにはいかなかったようである。
倭軍が何度となく出兵して高句麗軍と戦っていることは、高句麗側が決定的な勝利をおさめることができなかった証拠といってよかろう。
また、『三国史記』によると、(新羅王)の実聖尼師今(にしきん)元年(402)三月、新羅は倭国と好(よし)みを通じ、奈勿王(なぶつおう)の王子未斯欣(みしきん)を人質として倭国に送ったという。
これは、高句麗の庇護だけでは迫りくる倭軍の脅威を払いのけることができなかったことを示しており、これまた、朝鮮半島における倭の勢力を物語るものであろう。
百済や新羅の王族が人質として倭国に送られている事実や、たび重なる倭軍と高句麗との戦闘を考慮するならば、好太王碑文の「倭、辛卯の年を以って来りて海を渡り、百残(百済のこと)□□(二時欠落か)新羅を破り、以て臣民となす」という記事がまったくの妄言ではないことが理解されるであろう。
■ 倭の軍事権は朝鮮半島に及んでいた
五世紀前半に、倭王済(せい)や武(ぶ)は、客観的存在である中国の南朝の宋から次の爵号を与えられている。
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使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王
ここに、新羅の名が入っていることが注目される。
広開土王碑文の記述や、神功皇后が新羅を攻めた伝承と関係する事実があったのであろう。
■ 倭、百済、高句麗の勢力範囲
百済の爵号
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使持節・都督 百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王(420年、430年)
- 使持節・都督 百済諸軍事・寧東大将軍・百済王(521年)
高句麗の爵号
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[都督]営州諸軍事・征東大将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王(355年)
- 使持節・都督営州諸軍事・征東将軍・高句麗王・楽浪公(413年)
- 使持節・散騎常持・都督営・平諸軍事、東騎大将軍、開府儀同三司、高句麗王・楽浪公
つまり、客観的存在である中国の南朝宋の認めた五世紀ごろの、倭、百済、高句麗の三国の勢力範囲は互いに重ならず次のとうりである。(上図参照)
- 倭
朝鮮半島の南半分の百済の領域を除く地域と日本。三国時代の辰韓、弁韓の地と日本。
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百済
百済の地。三国時代の馬韓の地。
- 高句麗
遼東半島の地と、南満州および朝鮮半島の地。
■ 神功皇后
天皇一代の平均在位年数を10年とする年代論によると、神功皇后は400年前後に活躍した。これは、広開土王碑文で倭が朝鮮半島に進入した時代である。
400年前後と見られることがらで、次のようなことは、日本側の史書と、朝鮮側の史書とが、
ともに記している。これは、神功皇后伝承には400年頃の客観的な歴史的事実が反映されて
いると理解できるのではないか。
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日本軍が新羅の王城までいたった。
- その後に、新羅の王子、未斯欣(みしきん)が、日本に人質としてきた。
(未斯欣は朝鮮側の表記。『日本書紀』では微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき))
- 未斯欣は、倭をあざむいて、新羅に逃げて帰った。
■ 神功皇后陵
神宮皇后陵について、古文件は次のように記す。
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『古事記』 狭城の楯列の陵
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『日本書紀』 狭城の盾列の陵
- 『延喜式』 狭城の盾列の池上陵
奈良県奈良市佐紀町から歌姫町・法華寺町にかけての、奈良盆地北部、佐紀丘陵南斜面にかけて、佐紀盾列(たてなみ)古墳群が存在する。
佐紀盾列古墳群は大きく東群と西群にわけられ、神功皇后陵のある西群のほうが古い。
大塚初重等編の『古墳辞典』によると
西群は、4世紀後半から5世紀前半ごろの、東群は5世紀中葉から後半ごろの築造と考えられる。
神功皇后は400年前後に活躍したとすると、神功皇后陵の年代と合う。
■ 鉄
(てってい)
『日本書紀』の「神功皇后紀」46年の条に、百済の王が、日本の使臣に「鉄
40枚」を与えたとの記事が見える。
佐紀盾列古墳群の東群に属する宇和奈辺(うわなべ)古墳の陪塚から多量の鉄
が出土した。(大型282枚、小型590枚)
鉄
は、新羅の慶州にある金冠塚からも多量に出土している。
森浩一・石部正志両氏は、この鉄
と佐紀盾列古墳群の関係について次のように述べる。
五世紀初頭を中心にした約一世紀間に構築された畿内の大古墳のうちで、多数の鉄
製武器類を副葬する例は、河内の古市誉田古墳群、和泉の百舌鳥古墳群がとくに顕著
である。
大和では、河内・和泉ほどではないが、おなじ傾向がこの佐紀古墳群と馬見
古墳群にあらわれている。
南朝鮮に鉄の産地があったことは『魏志』の東夷伝弁辰の
条(「国鉄を出す。韓・・倭みな従ってこれを取る、……」)にうかがうことができる
ので、大和勢力の南鮮出兵の盛衰が古墳に副葬された鉄素材や鉄製品の増加や減少の
傾向に関係があるとすれば、奈良盆地の古墳群のうちでも、この佐紀古墳群は南鮮出
兵に関与したか、出兵の影響を直接につよくうける集団の古墳群と想定したい。
『日本の考古学Wー古墳時代』〈上〉所収、河出書房新社刊
■ 倭の新羅進出の信憑性
400年前後の、倭と朝鮮半島の関係をまとめると以下のようになる。これらを総合すれば、390〜410年ごろに、日本側が新羅の王城までいたったことは確実である。
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天皇の一代の平均在位年数を、約10年とする年代論によるとき、神功皇后の時代は、西暦390〜410年ごろとなる。
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『古事記』『日本書紀』ともに、日本軍が「新羅の王の門」にまでいたったと記している。また『風土記』『万葉集』『続日本紀』『古語拾遺』その他古代の史書は、こぞって新羅進出に関係する記事をのせている。
- 「広開土王碑文」には、391年に、倭が「海を渡ってきて、百残(百済)、□□□羅を破り、これを臣民とする」と読める記事がある。
- 「新羅本紀」は、393年に「倭人が、金城(新羅の王城)を包囲して、五日も解かなかった」と記している。
- 「広開土王碑文」は、400年に、「倭が、新羅城のうちに満ちあふれていた」と記している。
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『三国史記』は、402年に、「王子未斯欣が、倭の質になった」と記している。
- 「広開土王碑文」によれば、404年にも、倭は、「不軌にも帯方界に進入」している。
- 「広開土王碑文」によれば、407年にも、万を超える倭が進出している。