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第233回 魏志倭人伝を読む
邪馬台国の位置

 

最近の新聞から
1.泉屋博古館のずさんな調査について

第224回講演会や、第227回講演会でも取り上げた、泉屋博古館(せんおくはくこかん:樋口隆康館長)の三角縁神獣鏡神獣鏡問題について、読売新聞が泉屋博古館の調査は 「説得力に欠けるずさんな発表」 と指摘する記事を掲載した。

『読売新聞』2005年3月25日(金)夕刊  「手帳」コラムの記事

 ”卑弥呼の鏡” ずさんな成分調査

古代の青銅鏡として最も有名なのは三角縁神獣鏡である。倭国の女王卑弥呼が239年に中国・魏へ使 節を送った際に、下賜された鏡であるとする有力な説があるからだ。しかし、中'国から1面も発見されてい ないことから、国内で製作された鏡ではないかとの異論も根強い。

膠着状態にあるこの論争に一石を投ずるものとして話題になったのが、昨年5月、京都市の泉屋博古館 が記者発表した蛍光エックス線による調査結果である。

三角縁神獣鏡はこれまでの研究上、中国で作られ日本にもたらされたとされる舶載鏡と、それをまねて日本で作ったとされる製鏡に区別されている。今回の分析では、青銅鏡の微量成分であるアンチモンと銀の錫との比が、舶載鏡では他の中国製の鏡と、製鏡は日本製であることが明らかな他の鏡と、それぞれほぼ一致したという。

原材料を輸入して製作された可能性もあり、成分の一致が必ずしも製作地の一致を示すわけではない、と の反論もあった。しかし、もし原材料が輸入されて、すべての三角縁神獣鏡が日本で製作されたのだとした ら、どの鏡も中国鏡の成分と似通ってくるはず。そうならなかったということは、中国鏡説に有利な分析結果であ ると受け止められたのだった。

しかし、今月発売された「季刊邪馬台国87号」で、韓国・慶尚大招聘教授の新井宏氏(金属考古学)が、 この分析の重大な欠陥を指摘した。

青銅鏡の主成分は銅、錫、鉛の三種類。アンチモンはこれらのうち錫鉱 石に混入していた不純物であると、博古館は見なしていた。しかし、新井氏はむしろ銅鉱石に含まれていたものであ ると、データをそろえて主張。博古館が鏡の分類に用いた、アンチモンと銀の含有率による相関関係は全く 意味のないものであると、論難した。

新井氏はそれを証明するものとして、32面もの三角縁神獣鏡が出土したことで知られる京都府の椿井大塚 山古墳の調査報告書(1998年)を活用。ここに掲載された各鏡の微量成分の値に基づき、博古館と同じ 計算を試みたところ、同古墳出土の舶載鏡とされる鏡の多くが、なんと製鏡の分布域に収まったことを明 らかにした。

意外なことに、泉屋博古館の館長は、この報告書を執筆した日本考古学界の重鎮、樋口隆康・京 大名誉教授である。

泉屋博古館は「今回の分析結果はアンチモンの由来には左右されない」と反論している が、説得力に欠くずさんな発表であったことには違いない。というわけで、三角縁神獣鏡の素性は依然として闇 の中だ。(片岡正人記者)

泉屋博古館の発表では、三角縁神獣鏡が「中国製である可能性が高まったのではないか。」としていたが、金属考古学の専門家である韓国・慶尚大招聘教授の新井宏氏は、この発表が完全な誤りであると指摘した。

新井氏は、「舶載」三角縁神獣鏡とされる椿井大塚山古墳出土の三角縁神獣鏡について、山崎一雄氏が行った定量分析データをもとに、Ag/Sn比とSb/Sn比をもとめ、泉屋博古館発表の図にプロットした(右図)。

椿井大塚山古墳の分析値(▲印)は、泉屋博古館論文とは明らかに異なった分布を示している。 椿井大塚山古墳出土の「舶載」三角縁神獣鏡のかなりの数が、図の古墳時代「製」鏡の範囲にはいってしまうのである。

■ 安本先生のコメント

学問的な根拠がなく、内容がまったくダメな発表であっても、権威ある人から行われたということだけで、大新聞のトップ記事になる。大新聞の対応はどこかおかしいのではないか。

今回の読売新聞のように、おかしいと気がついたときにこのような記事を出すのは、まだいい方だが、一切修正をしない新聞もある。

以前、国立歴史民族博物館が、弥生時代のはじまりが定説より500年ほどさかのぼるという発表をして話題になったが、その後、九州大学の調査で、この内容を否定するような結果が出て、弥生時代の開始時期はそれほど古くはならないとされた。

九大の調査で、歴博発表とまったく異なる結果が出たことを、西日本新聞はトップ記事で報じたが、歴博発表をあれほど大きく報道した大手各紙は、まったく報じなかった。 報道に偏りがあるようで、なにかおかしい。

2.天皇陵の信憑性について

延喜式には、幣帛を捧げて祀った歴代の天皇の陵墓の記述がある。延喜式が編纂された頃には、天皇陵の所在が正確に分かっていたのであろう。

その後、天皇の権威が凋落し、歴代の天皇の陵墓が不明確となってしまったが、幕末から明治の初期にかけての王政復古の動きの中で、当時の学者たちによって陵墓の比定が行われた。

このときの指定が、現在もそのまま踏襲されているが、戦後の考古学研究の進歩で、このときの指定が間違っていることがはっきりしたケースがある。陵墓指定の見直しや、変更について、宮内庁は一切公表してこなかったが、戦前から昭和30年代にかけて、宮内庁は陵墓の指定の再検討をしていたことが明らかになった。

『読売新聞』5月8日(日)朝刊

10天皇陵 宮内庁も疑問符
陵墓指定再検討していた(戦前・・・昭和30年代)  


歴代天皇や皇族の陵墓と、その可能性のある陵墓参考地について、宮内庁(旧宮内省)が戦前から戦中、戦後の昭和30年代にかけて、一部指定の見直しを本格的に検討していたことが、同庁の内部資料で明らかになった。

25代武烈、26代継体、85代仲恭など10か所の天皇陵については、自らの指定が誤っている可能性を認めており注目される。宮内庁は現在、現行の陵墓指定を見直す考えはないとの方釘を貫いているが、皇国史観の影響が強かった時代ですら、再検討が行われていた事実が判明したことで、学問的な成果を反映した陵墓の指定見直しを求める声が一段と高まりそうだ。

問題の資料は、「臨時陵墓調査委員会書類及資料」(「1935〜44年)や「陵墓参考地一覧」(1949年10月調と58年3月調の2冊)など。陵墓を研究している田園調布学園大短大部の外池昇助教授(近世史)が情報公開法に基づいて閲覧し、初めて公となった。

現在、宮内庁は「皇霊の 静謐を守るため」という理由で、研究者ですら原則として陵墓への立ち入りを認めていない。陵墓の指定は大部分が幕末から明治初期にかけて行われ、現在もほとんどが当時のまま踏襲されている。しかし、戦後の学問の進歩によって、指定が間違っていることがはっきりしたケースでも、同庁は指定の変更を一切行っておらず、過去に見直しが検討されたことがある事実も公表してこなかった。

1935〜44年に活動した宮内大臣く当時)の諮問機関「臨時陵墓調査委員会」の資料で注目されるのは、大阪府高槻市の今城塚古墳が継体天皇陵である可能性が極めて高く、「陵墓参考地に編入すべし」と答申した点。これは、近くの太田茶臼山古墳を継体天皇の「三島藍野陵」としていた自らの指定に事実上、疑義を突き付けるものだった。

また1949年の「陵墓参考地一覧」には、すでに確定している天皇陵の他の候補として9つの事例が記載されており、その中でも、武烈陵については「現御陵に疑問があり」、仲恭天皇を被葬者として想定した東山本町陵墓参考地については「現陵よりも確かなり」との記述があった。

これらは57年までに書き込まれたものとみられる。このほか、「永く保存」、「解除可能」(15件)などの注記もあった。

宮内庁はこうした考証に基づいて、昭和30年代には現地調査も実施しており、陵墓の再編に向けて踏み込んだ検討が行われた事実がうかがわれる。しかし、いずれも変更の手続きは実行されず、陵墓指定はほぼ当時のままとなっている。

宮内庁陵墓課の話
「戦後しばらくは組織縮小などもあり、陵墓参考地すべてを抱えていられないという事情もあったのだろう。ただ、100パーセント確実な資料が見つからない限り、陵墓や参考一地の変更はむずかしい」

宮内庁が陵墓見直しを検討していたことを示す1949年の「陵墓参考地一覧」では、陵墓をつぎの三段階に分類している。
  • 第一類 陵墓の疑いの濃いもの
  • 第二類 第一類に次ぐもの(甲)及び陵墓の疑いを否定しがたいもの
  • 第三類 陵墓の関係を認めることが適当でないもの
この中で既に確定された天皇陵が厳然と存在しているにもかかわらず、これとは別に 陵墓参考地の中にも天皇陵墓である可能性があると指摘している。つまりこれらの 天皇陵は複数の候補地があることになる。

宮内庁の考証で現行の指定に疑問符が付いた天皇陵  
天皇所在地安本先生の判断
15応神大阪府羽曳野市
18反正大阪府堺市現在の指定は間違い
19允恭大阪府藤井寺市
21雄略大阪府羽曳野市現在の指定は間違い
23顕宗奈良県香芝市現在の指定は間違い
25武烈奈良県香芝市現在の指定は間違い
26継体大阪府茨木市現在の指定は間違い
50桓武京都市
58光孝京都市
86仲恭京都市
    

■ 内部資料を検討した外池昇・田園調布学園大短大部助教授の話

宮内庁は過去、真剣に陵墓の正しい指定を追求していたことが明らかになった。それに比べて、現在は硬直的にすぎるのではないか。陵墓を学会に広く公開し、被葬者の特定を実証的に再検討すべき時にきている。 

■ 応神天皇陵について

応神天皇陵について、次のような矛盾点をあげて、現在の陵墓の指定は誤りとする説がある。
  • 現在の応神天皇陵は、考古学的に見て5世紀の古墳である。
  • 『古事記』『日本書紀』の記述からは、応神天皇は4世紀に活躍した天皇である。
しかし、安本先生は、応神天皇の活躍時期は5世紀であり、応神天皇の陵墓は、現在指定されている応神陵で良いのではないかと述べる。

安本先生が、応神天皇を5世紀の天皇とする理由はおよそ次の通り。
  • 『日本書紀』の古い時代の年代は引き延ばされている。古代の天皇の在位期間は約10年とする安本先生の説にしたがうと、応神天皇の治世は5世紀になる。

  • 『日本書紀』には、応神天皇の母親の神功皇后の時代に、新羅の王子が日本の人質になった記述がある。『三国史記』の新羅本紀に、402年、奈勿王の子・未斯欣を倭国の人質とした記述があり、日韓の文献が対応することから神功皇后は400年ぐらいの人である。したがってその子・応神天皇は5世紀の人。

  • 『日本書紀』の応神天皇在世中の記述に、百済で久爾辛(くにしん)王が即位した記事がある。『三国史記』によると、久爾辛王の即位は420年のことであり、これは中国史書でも確認できる。すなわち、応神天皇は5世紀の人。


3.西都原古墳群の3世紀築造古墳について

宮崎県の西都原古墳群で、三世紀なかばに築造された古墳が確認された。この事実を巡る専門家の対応に疑問。

西日本新聞 5月19日

宮崎西都原 最古級の前方後円墳
宮崎大  3世紀半ば築造確認


宮崎県西都市の西都原古墳群にある前方後円墳が、宮崎大学の調査で18日までに、国内最古級と確認された。

築造は三世紀中ごろから後半とみられ、畿内で同じ型式の古墳築造が始まったのとほぼ同時期。大和政権の影響下に古墳が広まったとする説に一石を投じ、古墳の成立を研究する上で貴重な発見となりそうだ。

確認されたのは、「西都原81号墳」。後円部の長さが約33メートル、前方部が約19メートル。前方部が短くばちの形に開いた「纏向型前方後円墳」で、本格的な前方後円墳の前に造られたとされる。南九州では最古という。後円部の墳丘付近から土器数点が出土。その特徴から築造時期が判明した。

■ これについての専門家のコメント
発掘に当たった宮崎大学・柳沢一男教授

大和政権は全国の有力者が連合して誕生したと見られ、南九州の勢力が大和政権の一角を担っていた可能性がある。

橿原考古学研究所・寺澤薫調査研究部長

この時期には既に大和政権が全国にくさびを打つように関係をつくっていたことを示すもの。

西都原古墳群内に男狭穂塚古墳や女狭穂塚古墳等が5世紀に造られたのも、突然できたのではなく、こうした端緒があったから。

伊都国歴史博物館の西谷正館長

関東などとともに南九州がいち早く大和政権の連合に編入されていたことを示す。

徳島文理大・石野博信教授

詳しい年代は今後の調査だが、少なくとも西都原古墳群の築造が3世紀にまで古くなるのは衝撃的。これまで古墳は、大和政権が権威を示すために各地域の豪族に築造を承認していたというのが定説だった。

これだけ古くなれば、宮崎が大和政権の初期から結び付いていたことを示したり、あるいは、古墳が九州、関東など各地で造られ、それを大和政権が4世紀に統合したという新たな考えもできる。 古墳を考える上で貴重な成果と言える。

■ 安本先生のコメント

考古学者の小林行雄氏や森浩一氏などは記紀を良く読んでいて、文献に大変詳しいが、最近の考古学者は『古事記』『日本書紀』をまったく読んでいないのではないか。

今回コメントした考古学者たちのように、文献を無視して考古学だけで突っ走るのは危ないと思う。

『古事記』『日本書紀』とも、皇室の祖先が南九州から来たという大筋は一致しており、古墳も南九州から大和に移ったという発想があってしかるべきである。

両方の可能性があるのに、はじめから畿内説の立場でしか考えないのでは、いけない。公平ではないですね。
 

 魏志倭人伝  邪馬台国の位置

■ 「伊都国」と「女王国」の位置関係

『魏志倭人伝』では、「伊都国」と「女王国」との位置関係を3度にわたって記す。
  1. 『魏志倭人伝』の記す旅程は、伊都国を経て、「南、邪馬台国にいたる。女王の都するところ」で終わる。この順路の読み方については、「順次式」「放射式」などがあるが、どちらにしても、大略、「邪馬台国」は「伊都国」の南である。

  2. 『魏志倭人伝』は、「女王国より以北は、その戸数・道里は略載するを得べし」と記 す。そこで、戸数・道里が略載されている国を確認すると、「対馬国」「一支国」「末盧国」 「伊都国」「奴国」「不弥国」である。このなかに「伊都国」が入っているので、「伊都国」は 「女王国」の北にあることになる。

  3. 『魏志倭人伝』は「女王国より以北には、一大率をおいて。諸国を検察させている。 (一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている」。つまり、「女王国」は「伊都 国」の南にある。
これら三つの表記のいずれも、「女王国」は「伊都国」の南にあったことを表している。それぞれが独立の文脈であり、畿内説論者がいうような「南」は「東」の誤記ということは考えにくい。

■ 一大率

一大率の「率」は「師」であり、「太宰率」「太宰師」などと記述されるように「率」「師」は「長官」の意味を示す。一大率は「一人の大きな率(かみ)」と読める。一大率は後の「太宰師」にあたり、 国司クラスであろうか?

■ 末盧国から邪馬台国までの距離

『魏志倭人伝』では、帯方郡から女王国までの距離を「一万二千余里」と記す。

藤井滋氏は『東アジアの古代文化』1983年春号の「『魏志』倭人伝の科学」のなかで、つぎのように述べ、邪馬台国は右図の円の範囲内のあることを示唆する。

「帯方郡から狗邪韓国までの七千余里、狗邪韓国から末盧国まで三千余里を合計すると 一万余里となる。従って、末盧国から邪馬台国までは、一万二千余里から一万余里を引 いて、二千余里ほどになる」

■ 対馬国

『魏志倭人伝』はつぎのように記す。

(帯方郡から)七千余里にして、はじめて一海をわたり、千余里で、対馬国にいたる。 その大官を卑狗(ひこ)といい、副(官)を卑奴母離(ひなもり)という。

いるところは絶島(離れ島)で、方(域)は、四百余里ばかりである。土地は、山けわし く、深林多く、道路は、禽(とり)と鹿(けもの)のこみちのようである。千余戸がある。 良田はない。海(産)物をたべて自活している。船にのり、南北に(出て)市糴(してき) (米をかうこと)をしている。

『朝日新聞』2000年10月28日朝刊によると、「長崎県対馬・峰町の三根遺跡山辺区で弥生 時代の大規模集落が出土した。3、4棟の高床式倉庫や二基以上の竪穴式住居跡 が確認されている。合計1万点以上の弥生土器や古墳時代の須恵器や土師(はじ) 器、朝鮮土器などが出土」と記述されている。

対馬中央部の三根湾周辺は青銅器を副葬した首領級の墳墓の密集地で、魏志倭人 伝と深いつながりがあるとみられる。

■ 一支国

一支国について『魏志倭人伝』はつぎのように記す。

また、南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(対馬海峡)という。一大国(一支国の誤り。壱岐国)にいたる。官(吏)をまた卑狗(ひこ)といい、副(官)を卑奴母離(ひなもり)という。方(域)は、三百里ばかりである。

竹木の叢林(そうりん)が多い。三千(戸)ばかりの家がある。やや田地が ある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)また、南北に(出て) 市糴している。

壱岐で最大の遺跡は、壱岐島の南東部に位置する原の辻遺跡である。弥生時代中期〜 後期を主体とする集落遺跡で、集落のある台地を三重の環濠が取り囲んでいることが 確認されている。

■ 対馬国と一支国の比較

現在の対馬と壱岐を比較すると、面積・人口とも対馬のほうが多い。 しかし、古代では、対馬国は、面積は広いが人口は少なかったのではないか?

近代の人口統計では、江戸時代でも対馬の人口は壱岐よりも少なく、大正時代に入ってやっと 逆転した状態である。

『和名抄』の水田面積でも、対馬と壱岐では対馬の方が少ない。

■ シミュレーションによる遺跡分布の推定

茨城大学の及川昭文氏は『東アジアの古代文化』の69号に発表した論文「シミュレーション による遺跡分布の推定」のなかで、弥生遺跡の発掘された場所の標高、傾斜度、傾斜方 向、地形、地質、土壌などを調べ、それと同等の性質を持つ場所が、九州において、 どのように分布しているかを調査した。

及川氏は、1キロメートル四方のメッシュを考え、遺跡があると期待される度合いの高い メッシュがどのように分布しているかを表にした。これを図示したものが上図であり、ここから、次のようなことが分かる。
  • 遺跡のありそうな場所は、平野部を中心に広がっていること、
  • 筑紫平野(筑後川流域)が突出していること、
  • 奴国にあてられる博多湾岸地域の合計に比べ、筑紫平野は二倍以上の人口を含みうること
さらに、及川氏のまとめた表を元に、『魏志倭人伝』に記された国々が存在したと見られる地域に、遺跡期待指数の高いメッシュがいくつ存在するかを見ると、次のようになる。

国名クラスターメッシュ数戸数
(千)
壱岐を1とした比率
メッシュ戸数
一支壱岐291.01.0
末廬唐津461.61.3
伊都糸島半島903.10.3
(伊都『魏略』)(糸島半島)(90)(10)(3.1)(3.3)
博多湾264219.17.0
投馬遠賀川・中津1645016.016.7
邪馬台筑紫平野6767023.323.3
合計
(『魏略』による)
1589
(1589)
149
(158)
54.1
(54.1)
49.6
(52.6)

この表から、次のようなことが分かる。
  1. 壱岐を1としたメッシュ数の比率は『魏志倭人伝』に記されている戸数の比率とほとんど正確に合致している。このことは諸国の比定がほぼ正しいことを示している。

  2. 壱岐に1の割合のメッシュがあるとすれば、北九州に、その約50倍の割合のメッシュがある。つまり、壱岐が3千戸あるとすれば、北九州にその50倍の15万戸があってもおかしくない。

    そして、当時の壱岐の戸数三千戸は、ほぼ妥当とみてよい。つまり、邪馬台国をはじめとする『魏志倭人伝』に記されている国々は、北九州の範囲におさまる。『魏志倭人伝』の記述は、かなり正確なのではないか。


ふぅー! 今回は長かった! (^_^;)
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