TOP>活動記録>講演会>第233回 | 一覧 | 次回 | 前回 | 戻る |
第233回 魏志倭人伝を読む |
最近の新聞から |
第224回講演会や、第227回講演会でも取り上げた、泉屋博古館(せんおくはくこかん:樋口隆康館長)の三角縁神獣鏡神獣鏡問題について、読売新聞が泉屋博古館の調査は 「説得力に欠けるずさんな発表」 と指摘する記事を掲載した。
『読売新聞』2005年3月25日(金)夕刊 「手帳」コラムの記事
新井氏は、「舶載」三角縁神獣鏡とされる椿井大塚山古墳出土の三角縁神獣鏡について、山崎一雄氏が行った定量分析データをもとに、Ag/Sn比とSb/Sn比をもとめ、泉屋博古館発表の図にプロットした(右図)。 椿井大塚山古墳の分析値(▲印)は、泉屋博古館論文とは明らかに異なった分布を示している。 椿井大塚山古墳出土の「舶載」三角縁神獣鏡のかなりの数が、図の古墳時代「製」鏡の範囲にはいってしまうのである。 ■ 安本先生のコメント 学問的な根拠がなく、内容がまったくダメな発表であっても、権威ある人から行われたということだけで、大新聞のトップ記事になる。大新聞の対応はどこかおかしいのではないか。 今回の読売新聞のように、おかしいと気がついたときにこのような記事を出すのは、まだいい方だが、一切修正をしない新聞もある。 以前、国立歴史民族博物館が、弥生時代のはじまりが定説より500年ほどさかのぼるという発表をして話題になったが、その後、九州大学の調査で、この内容を否定するような結果が出て、弥生時代の開始時期はそれほど古くはならないとされた。 九大の調査で、歴博発表とまったく異なる結果が出たことを、西日本新聞はトップ記事で報じたが、歴博発表をあれほど大きく報道した大手各紙は、まったく報じなかった。 報道に偏りがあるようで、なにかおかしい。 |
2.天皇陵の信憑性について |
延喜式には、幣帛を捧げて祀った歴代の天皇の陵墓の記述がある。延喜式が編纂された頃には、天皇陵の所在が正確に分かっていたのであろう。
その後、天皇の権威が凋落し、歴代の天皇の陵墓が不明確となってしまったが、幕末から明治の初期にかけての王政復古の動きの中で、当時の学者たちによって陵墓の比定が行われた。 このときの指定が、現在もそのまま踏襲されているが、戦後の考古学研究の進歩で、このときの指定が間違っていることがはっきりしたケースがある。陵墓指定の見直しや、変更について、宮内庁は一切公表してこなかったが、戦前から昭和30年代にかけて、宮内庁は陵墓の指定の再検討をしていたことが明らかになった。 『読売新聞』5月8日(日)朝刊
宮内庁の考証で現行の指定に疑問符が付いた天皇陵
■ 内部資料を検討した外池昇・田園調布学園大短大部助教授の話 宮内庁は過去、真剣に陵墓の正しい指定を追求していたことが明らかになった。それに比べて、現在は硬直的にすぎるのではないか。陵墓を学会に広く公開し、被葬者の特定を実証的に再検討すべき時にきている。 ■ 応神天皇陵について応神天皇陵について、次のような矛盾点をあげて、現在の陵墓の指定は誤りとする説がある。
安本先生が、応神天皇を5世紀の天皇とする理由はおよそ次の通り。
|
3.西都原古墳群の3世紀築造古墳について |
魏志倭人伝 邪馬台国の位置 |
■ 「伊都国」と「女王国」の位置関係
『魏志倭人伝』では、「伊都国」と「女王国」との位置関係を3度にわたって記す。
■ 一大率 一大率の「率」は「師」であり、「太宰率」「太宰師」などと記述されるように「率」「師」は「長官」の意味を示す。一大率は「一人の大きな率(かみ)」と読める。一大率は後の「太宰師」にあたり、 国司クラスであろうか? ■ 末盧国から邪馬台国までの距離 『魏志倭人伝』では、帯方郡から女王国までの距離を「一万二千余里」と記す。 藤井滋氏は『東アジアの古代文化』1983年春号の「『魏志』倭人伝の科学」のなかで、つぎのように述べ、邪馬台国は右図の円の範囲内のあることを示唆する。 「帯方郡から狗邪韓国までの七千余里、狗邪韓国から末盧国まで三千余里を合計すると 一万余里となる。従って、末盧国から邪馬台国までは、一万二千余里から一万余里を引 いて、二千余里ほどになる」 ■ 対馬国『魏志倭人伝』はつぎのように記す。 (帯方郡から)七千余里にして、はじめて一海をわたり、千余里で、対馬国にいたる。 その大官を卑狗(ひこ)といい、副(官)を卑奴母離(ひなもり)という。 いるところは絶島(離れ島)で、方(域)は、四百余里ばかりである。土地は、山けわし く、深林多く、道路は、禽(とり)と鹿(けもの)のこみちのようである。千余戸がある。 良田はない。海(産)物をたべて自活している。船にのり、南北に(出て)市糴(してき) (米をかうこと)をしている。 『朝日新聞』2000年10月28日朝刊によると、「長崎県対馬・峰町の三根遺跡山辺区で弥生 時代の大規模集落が出土した。3、4棟の高床式倉庫や二基以上の竪穴式住居跡 が確認されている。合計1万点以上の弥生土器や古墳時代の須恵器や土師(はじ) 器、朝鮮土器などが出土」と記述されている。 対馬中央部の三根湾周辺は青銅器を副葬した首領級の墳墓の密集地で、魏志倭人 伝と深いつながりがあるとみられる。 ■ 一支国 一支国について『魏志倭人伝』はつぎのように記す。 また、南に一海をわたること千余里、名づけて瀚海(対馬海峡)という。一大国(一支国の誤り。壱岐国)にいたる。官(吏)をまた卑狗(ひこ)といい、副(官)を卑奴母離(ひなもり)という。方(域)は、三百里ばかりである。 竹木の叢林(そうりん)が多い。三千(戸)ばかりの家がある。やや田地が ある。田をたがやしても、なお食に不足である。(この国も)また、南北に(出て) 市糴している。 壱岐で最大の遺跡は、壱岐島の南東部に位置する原の辻遺跡である。弥生時代中期〜 後期を主体とする集落遺跡で、集落のある台地を三重の環濠が取り囲んでいることが 確認されている。 ■ 対馬国と一支国の比較 現在の対馬と壱岐を比較すると、面積・人口とも対馬のほうが多い。 しかし、古代では、対馬国は、面積は広いが人口は少なかったのではないか? 近代の人口統計では、江戸時代でも対馬の人口は壱岐よりも少なく、大正時代に入ってやっと 逆転した状態である。 『和名抄』の水田面積でも、対馬と壱岐では対馬の方が少ない。 ■ シミュレーションによる遺跡分布の推定 茨城大学の及川昭文氏は『東アジアの古代文化』の69号に発表した論文「シミュレーション による遺跡分布の推定」のなかで、弥生遺跡の発掘された場所の標高、傾斜度、傾斜方 向、地形、地質、土壌などを調べ、それと同等の性質を持つ場所が、九州において、 どのように分布しているかを調査した。 及川氏は、1キロメートル四方のメッシュを考え、遺跡があると期待される度合いの高い メッシュがどのように分布しているかを表にした。これを図示したものが上図であり、ここから、次のようなことが分かる。
この表から、次のようなことが分かる。
ふぅー! 今回は長かった! (^_^;) |
TOP>活動記録>講演会>第233回 | 一覧 | 上へ | 次回 | 前回 | 戻る |