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第238回 謎の四世紀 
庄内式土器の時代

 

1.甕棺から推定する弥生時代

■ 墓制の時代区分
  1. 甕棺   : BC300〜AD180年
     北九州が中心で、ごく僅かながらAD300年まで継続する例もある。
  2. 箱式石棺 : AD180〜300年
     邪馬台国時代で北九州が中心
  3. 竪穴式石室: AD300〜400年
     古墳時代で畿内中心
  4. 横穴式石室: AD400〜600年
     古墳時代で畿内中心
■ 韓国の甕棺

今回の韓国旅行では金海式甕棺を見かけなかった。

甕棺の展示はあったが、甕に取っ手が付いていて、日本の甕棺と型式が異なる。韓国の無文土器の取っ手付き甕が使われているようである。

二つの甕を合わせて用いる「合わせ口」の使い方は日本と同じ。

■ 金海式甕棺

九州北部の甕棺の一形式で、韓国慶尚南道の金海で出土したためこの名がある。金海のものは搬入品とされ、九州で製作されていた形式である。

橋口達也氏の分類でKTc式にあたる。
あるいは、やや新しい要素があることからKUa式とする説もある。

■ 甕棺の形式

橋口達也氏は著書『甕棺と弥生時代年代論』のなかで、甕棺の形態的特徴をもとに、右図のように甕棺形式の編年を示している。

KTc式の甕棺がいわゆる金海式甕棺と呼ばれてきたもの。
KXc式、KXd式は糸島地方の大型甕棺の形式。
KXf式は最終末期のもので、福岡県久留米市の祇園山古墳出土の甕棺など。

■ 甕棺の年代

橋口達也氏は、甕棺に副葬された銅剣や鏡などの遺物の製作年代と、製作から埋葬までの時間を30年程度と見積もることによって、甕棺の形式と用いられた絶対年代の関係を次のように推定している。

区分甕棺形式年代 
前期KTa
KTb
KTc
270
240
210
 

前漢       
中期前半KUa
KUb
KUc
150
  
120
 
 
四郡設置
中期後半KVa
KVb
KVc
60
BC30
 
 
後期前半KWa
KWb
KWc
AD30
60
 
新王莽
後漢
 
後期後半KXa
KXb
KXc
KXd
KXe
120
 
150
180
210




三国(魏・呉・蜀)
古墳時代KXf240 

橋口氏は、このように甕棺と漢代の鏡などとの関係から導き出された弥生時代中期後半、後期前半の年代は動かせるものではなく、国立歴史民族博物館の提起した弥生時代が500年溯るという年代観はおかしいと述べている。

■ 末期の甕棺の年代

ほとんどの甕棺は西暦180年頃までには消えていったと思われる。しかし、以下のように、まれに、もう少し時代が過ぎてからも行われていたものがある。
  • KXd式甕棺を出土した、筑紫野市御笠地住居跡から蝙蝠座鈕長宜子孫鏡が発見された。
    この鏡は、位至三公鏡と同様に、邪馬台国時代の魏晋鏡であり、およそ250−300年ごろのものである。

  • KXf式甕棺を出土した福岡県久留米市の祇園山古墳から、画文帯神獣鏡が発見された。

    画文帯神獣鏡は、三角縁神獣鏡の前の時代に使用された鏡で、次章で説明するようにおよそ280年以降に製作されたものと考えられる。
    そしてこの時代は、庄内式土器の行われた時代でもある。
徳島文理大学の石野博信氏は祇園山古墳と庄内式土器の関係について次のように述べる。

九州の祇園山というのは、一辺が30メートル位の大きな方形墳ですが、墳丘上につくられている甕棺の時期が報告書では狐塚二式であって、それは西新式に併行すると言われています。

九州でも西新式の土器と一緒に庄内ガメが出ていますので、祇園山古墳を庄内式に並行させたのです。


2.画文帯神獣鏡と近畿の古墳群の年代

■ 画文帯神獣鏡

画文帯神獣鏡は中国でも日本でも出土している。

材料に含まれる鉛同位体の分析から、画文帯神獣鏡は三角縁神獣鏡と同様に中国南方の銅を使用していることがわかっている。
また、神獣文様も中国の南方で普及していた文様である。 

西晋が、南方の銅材料や南方の文様を入手し、画文帯神獣鏡を製作できたのは、280年に、中国南方を支配していた呉を滅ぼした後のことと考えられ、これが画文帯神獣鏡による年代判定のポイントとなる。
 
■ ホケノ山古墳の年代

ホケノ山古墳の木棺の炭素14年代測定の結果では、西暦80年〜137年という値が得られ古墳の古さの根拠とされている。

しかし、ホケノ山古墳からは庄内式土器や画文帯神獣鏡が出土しており、邪馬台国時代よりもあとの時代の古墳と考えられる。

ホケノ山古墳の木槨の存在が、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述と違っていることも、この古墳が邪馬台国時代のものでないことを示している。

さらに、ホケノ山古墳だけでなく纏向の古墳のかたちが、崇神天皇陵とそっくりであり、これらの古墳群が崇神天皇の時代に近い頃の築造であることを思わせる。


■ 木材の伐採年代と遺物遺跡の年代

木材は転用されたり伐採後長期間寝かされたりするので、木材の伐採年代だけで遺跡の年代を推定するのは問題がある。また、炭素14年代測定法そのものも、まだ精度に問題があり、参考程度にしかならないとする専門家もいる。

炭素14年代法よりも高精度であるとされる年輪年代法でも、得られた木材の伐採年代と、文献や土器などから得られる年代との差は、下表のように整合しない事例が多くある。

文献との相違
事例年輪年代法による伐採年代文献による築造年代およその差 
奈良県正倉院宝物木工品
緑地金銀絵長方几第17
381年
(老齢木の中心部分)
正倉院の建築年代は奈良時代。
東大寺の創建は、751年
370年
奈良県国宝法起寺三重塔572年7世紀末〜8世紀100〜150年
奈良県国宝法隆寺五重塔の心柱594年ごろ711年ごろ(再建説)
607年ごろ(非再建説)
(再建説が有利。伽藍から出土する瓦は7世紀後半以降のもの)
約100年
奈良県国宝元興寺禅堂582年ごろ718年ごろ136年
秋田県波宇志別神社神楽殿967年
(転用部材とみられる)
1584年(仕様・様式による年代推定)約600年
奈良県国宝法隆寺所蔵百万塔721年
(残存最外年輪のもっともあたらしいもの)
767〜768年製作。
770年百万塔分置
46〜47年

共伴土器との相違
事例年輪年代法による伐採年代共伴土器の推定年代およその差 
奈良県纏向石塚古墳の周濠内最下層板材177年(辺材型、残存最外年輪)
200年を下らない(推定)
3世紀後半代
(庄内式土器)
100年
70年
滋賀県下の郷遺跡板材BC223年
BC200年に近い(推定)
(土器の年代よりかなり古いものと受けとめられている。)
弥生中期の土器200年以上
兵庫県武庫庄遺跡BC245年
(土器の年代より約200年古い)
 200年
大阪府史跡池上曽根遺跡BC52年(柱No12)(転用材の可能性はまずない)
BC56年(柱No20)(従来の土器推定年代よりも約100年古い)
西暦1世紀後半代100年


■ 画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡

これら二種類の鏡の鉛同位体比を見ると、ほぼ同じ領域で分布している。しかし、下表の画文帯神獣鏡の一部は、三角縁神獣鏡の分布領域からはみ出している。(下図参照)

これは、中国南方の銅で作った画文帯神獣鏡などの銅製品をまとめて溶かし、国内であらたに三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡を製作したことが理由と考えられる。つまり、中国からの輸入品は成分がばらつくが、国産の鏡はブレンドによって成分のばらつきが平均化されたことを示している。

No資料名出土地PB-207
/PB-206
PB-208
/PB-206
(1)画文帯神獣鏡奈良県天理市柳本天神山古墳0.85792.1293
(2)画文帯神獣鏡奈良県天理市柳本天神山古墳0.85992.1266
(3)画文帯神獣鏡奈良県天理市柳本天神山古墳0.86122.1256
(4)画文帯神獣鏡奈良県天理市柳本天神山古墳0.84392.0993
(5)画文帯対置式神獣鏡京都府相楽郡山城町椿井大塚山古墳0.82212.0658
(6)画文帯環状乳神獣鏡広島県佐東町宇那木山2号墳0.85272.1113
(7)画文帯環状乳神獣鏡福岡県朝倉郡朝倉町大字山田字外之隈1号石棺0.84372.0950
(8)画文帯環状乳神獣鏡熊本県一の宮町迎平6号墳0.85112.1065
(9)画文帯環状乳神獣鏡熊本県不知火町国越古墳0.85182.1091



3.庄内式土器

■ 庄内式土器の特徴

庄内式土器は、弥生時代と古墳時代の間の時期の土器である。庄内式土器と、それ以前の弥生式土器の違いについて関川尚功氏は「近畿・庄内式土器の動向」(『三世紀の九州と畿内』河出書房新社)の中で次のように述べる。

煮沸形態に関連して重要なことの一つに甕の器壁の薄さ、つまり、煮沸したときの熱の通りの良さがあります。 弥生後期タイプの甕は大体4ミリから5ミリぐらいの厚さですが、庄内あるいはそれに続く布留式の甕になると、1.5ミリから2ミリぐらいの非常に薄い器壁になります。

庄内甕の特徴の一つに内面を削って薄くするという手法がある。 これはもともと畿内の弥生後期の甕にはみられなかったもので、瀬戸内、日本海側の地域にそれ以前からみられるものである。

■ 庄内式土器の分布

庄内式土器は北九州一円と、近畿地方では、大阪府八尾市近辺と奈良県の天理市から櫻井市にかけての地域に分布する。

北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪と奈良のかぎられた地域にしか分布しない。

これは、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたと考える方が自然である。

大阪や奈良の庄内式土器の出土地は、物部氏と関係の強い地域である。 物部氏が、饒速日命とともに九州から近畿地方に天降ったり、九州の人びとが神武天皇に従って奈良に入ったことと関係すると思われる。

奈良県と大阪府の地名の類似や、さらに、同じ地名が九州にもあることも、饒速日命や神武東征の伝承で伝えられるような、九州から近畿地方への人の移動を裏付けるものである。
地名の類似について詳細 >>



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