TOP>活動記録>講演会>第242回 一覧 次回 前回 戻る  


第242回 謎の四世紀 
仲哀天皇の時代  隅田八幡神社鏡銘を読む

 

1.隅田八幡神社鏡銘を読む

隅田八幡神社の画文帯神獣鏡 ■ 鏡の銘文

和歌山県の隅田(すだ)八幡神社に納められている画文帯神獣鏡の銘文解読に挑戦する。 この鏡には次のような銘文が刻まれている。

癸未年八月日十、大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻念長寿、遺中費、穢人、州利二人等、取白上同二百旱、作此竟

鏡の銘文薄い文字は、研究者によって判読内容が異なる。)

この銘文を、およそ、つぎのように読む。

癸未の年八月十日大王の御代に(あるいは、八月、日十【ひと】大王の御代に)、男弟王が忍坂(おしさか)の宮にいた時に、斯麻(しま)が、長寿を念じて、開中費直(河内の直)と穢人の今州利の二人らをつかわして、白上銅二百旱(かん)をとって、この鏡を作る。

この銘文の解釈について、多くの研究者がさまざまな説を発表しているが、安本先生は従来とは異なる新しい解釈の可能性を示した。

隅田八幡神社の位置
銘文解釈上の主な論点は、以下の7つである。
    会場のようす
  1. 葵未年が、西暦何年に当たるのか?
  2. 日十大王とは、誰のことか?
  3. 男弟王とは、誰のことか?
  4. 意柴沙加宮(おしさかのみや)とは、どこのことか?
  5. 斯麻とは、誰のことか?
  6. 開中費直とは、誰のことか?
  7. 穢人今州利とは、誰のことか?
■ 斯麻とは、誰のことか

まず、最も意見が分かれる「斯麻」を特定する。
  1. 日本の古典で「しま」と読める人名 安本先生

    諸説で取り上げられた有名な人だけでも、次のような人びとがいる。
    • 斯麻宿禰(しまのすくね)
      『日本書紀』神功皇后紀
    • 志摩宿禰(上と同一人物)
      『日本書紀』神功皇后紀
    • 嶋王(せまきし)
      百済の武寧王のこと。『日本書紀』雄略天皇紀
    • 斯麻王(上と同一人物)
      『日本書紀』武烈天皇紀
    • 嶋大臣(しまのおおおみ)
      蘇我馬子のこと。『日本書紀』推古天皇紀
    • 吉備嶋皇祖母(きびのしまのすめみおや)
      欽明天皇の孫、吉備姫王のこと。皇極天皇、孝徳天皇の母。『日本書紀』皇極天皇紀、孝徳天皇紀
    • 島皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)
      敏達天皇の皇女、糠手姫皇女のこと。押坂彦人大兄皇子の妻となり舒明天皇を生んだ。『日本書紀』天智天皇紀

  2. 地名をとって「しま」と呼ばれた可能性のある人物

    奈良県明日香村島庄(しまのしょう)付近に、飛鳥時代から奈良時代まで存続した「島宮(しまのみや)」と呼ぶ離宮があった。

    『日本書紀』天武天皇即位前紀にはじめてみえるが、島大臣と呼ばれた蘇我馬子の邸宅の跡に作られ、血縁関係を通じて伝領されたらしい。

    皇極天皇の生母である吉備姫王が吉備嶋皇祖母命と呼ばれたことや、舒明天皇の生母の糠手姫皇女が島皇祖母命と呼ばれたことは、「島宮」が、これらの人びとに順次伝えられたことを示す。

    糠手姫皇女の死去後は、天武天皇を介して草壁皇子の宮となったことが『万葉集』二の挽歌に示されている。

    つまり、草壁皇子を直接「しま」と表現した文献は存在しないが、草壁皇子も「しま」と呼ばれた人物である可能性がある。これが安本先生の新説である。
■ 「斯麻」=草壁皇子としたときの解釈

論点となっていたキーワードは次のように解釈される。
  1. 葵未年:
    683年。天武天皇の在位中で、草壁皇子の活躍時期と整合
  2. 日十大王:
    天武天皇。国風諡号アマノヌナハラオキノマヒト(天渟中原瀛真人)の「ヒト」を「日十」で表したと理解できる。
  3. 男弟王:
    忍坂部皇子(おさかべのみこ)。草壁皇子の弟にあたる。
  4. 意柴沙加宮:
    忍坂宮(おしさかのみや)は、忍坂部皇子の宮居。
  5. 斯麻:
    草壁皇子
  6. 開中費直:
    川内の直
  7. 穢人今州利:
    今来村主(いまきのすぐり)。『新撰姓氏録』に仁徳天皇の時代に渡来した人びとの末裔として今来村主が記されている。朝鮮半島北東のの出身なので、穢人と記されたのであろう。
■ 諸説の比較

諸説での論点の合理性について、つぎのような点数配分をして比べてみる。例として、「斯麻=草壁皇子説」と「斯麻=斯麻宿禰説」を取り上げて比較してみると下表のような結果になる。
  • ◎: よくあてはまる (3点)
  • ○: 一応あてはまる (2点)
  • △: やや近いものがある (1点)
  • −: あてはまるものが見出せない (0点)
「斯麻=草壁皇子説」と「斯麻=斯麻宿禰説」との比較
キーワード斯麻=草壁皇子説斯麻=斯麻宿禰説
癸未年 ◎ 683年 ○ 未の年
日十大王 ◎ 天武天皇 △ 彦人大兄(ひこひとのおおえ)
男弟王 ◎ 忍坂部皇子 −
意柴沙加宮 ◎ 忍坂部 −
斯麻 ○ 島宮(しまのみや) ◎ 斯摩宿禰(しまのすくね)
開中費直 ◎ 川内直(かふちのあたひ) −
穢人今州利 − 別途 △ 弥州流(みつる)
合計 17点 6点


このような方法で諸説の内容と得点を比較すると次のようになる。 この結果からみると「斯麻=草壁皇子説」はかなり妥当性のある説と言えそうである。
諸説の得点の比較
斯麻はだれか葵未年(または未の年)天皇得点
 斯麻=草壁皇子説683年(葵未年)天武天皇17
 斯麻=嶋大臣(蘇我馬子)説623年(葵未年)推古天皇15
 斯麻=斯麻王(嶋王、武寧王)説478年(己未年)雄略天皇12
 斯麻=吉備嶋皇祖母(吉備姫王)説623年(葵未年)推古天皇11
 斯麻=島皇祖母命(糠手姫皇女)説623年(葵未年)推古天皇11
   −  443年(葵未年)允恭天皇10
 斯麻=斯麻王(嶋王、武寧王)説515年(乙未年)継体天皇
 斯麻=斯麻王(嶋王、武寧王)説503年(癸未年)武烈天皇
 斯麻=斯摩宿禰説395年、407年など(未年)神功皇后
 斯麻=斯麻王(嶋王、武寧王)説491年(乙未年)仁賢天皇



2.神功皇后、仲哀天皇、応神天皇

仲哀天皇の時代の、もっとも大きな謎は応神天皇の出自である。この問題について次の観点から見てみた。

■ 応神天皇の親は仲哀天皇か

『日本書紀』によれば、仲哀天皇が2月5日に亡くなってからぴったり十月十日後の12月14日に応神天皇が生まれる。

いつのころからか、人間が胎内にいる期間は十月十日であると、言い習わしてきた。しかし、人間の妊娠期間は、統計的には280日±17日で、正確には陰暦で計算しても十月十日にはならない。

このことから、推理作家の高木彬光は『古代天皇の秘密』のなかで、応神天皇の出生の不自然さについて次のように述べる。

仲哀天皇が亡くなった日が、2月5日ということだから、その日から数えて十月十日というのはあまりにも作為的で、これを信じろ、と言われても無理な話だ。なにしろ、応神天皇の父は、死ぬ当日の仲哀天皇だったとはね。

■ 神懸かりと心理学

「神懸かり」は、いわゆる「多重人格(二重人格など)」の一種で、米国の精神医学会 の診断基準では「解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder)」に属する。

しかし、精神疾患あるいは「障害」の次元のみで理解できるもではなく、「文化」 「宗教」と関係するところが大きい。

辞書によれば「神懸かり」は憑依現象の一種で神霊が人間に憑くこと。シャーマニズムの 基本形態としている。『古事記』や『日本書紀』では女性が神懸りする事例が多い。

■ 神功皇后は夫の仲哀天皇の死を願っていた

神功皇后が神懸かりして、その神に仲哀天皇を殺させている。「神懸かり」は、けっして神が人間に懸くのではない。本人のもつ、別の人格状態である。次のようなことは、ことごとく、神功皇后の潜在意識が平常とは別の人格の形をとって、意図し、のべていることになる。心のなかにひそんでいた思いが、神のことばのかたちをとってのべられていることになる。
  • 西の国(新羅)に出かけようと述べていること。
  • この国は仲哀天皇が治める国ではない、と述べていること。
  • 「汝(いまし:お前)」というような、敬意を含まない言い方で天皇を呼んでいること。
  • 天皇に、死の国へ行けと、述べていること。
  • 仲哀天皇には、神功皇后より身分の高い大仲津比命に生ませた香坂の王(かごさかのみこ)と忍熊の 王(おしくまのみこ)とがいるにもかかわらず、この国は皇后の腹にいる子が治めるべき国である、と述べていること。
■ 応神天皇の出自をめぐる諸説

仲哀天皇と神功皇后との間に強い不協和のニュアンスが感じられる。応神天皇が本当に仲哀天皇の子であるのかとの疑問が生じるのは当然である生じ、応神天皇の出自について、下記のようにいくつかの説がある。
  1. 騎馬民族出自説
    江上波夫によれば騎馬民族による日本建国は二段階の過程で行われた。
    第一段階は4世紀前半で、崇神天皇が主役となって、騎馬民族が南朝鮮の任那(加羅)方面から、北九州(筑紫)へ侵入した。
    第二段階は、4世紀末から5世紀初めのあいだに、応神天皇が主役となって、北九州から畿内への進出を果たし、最初の統一国家である大和朝廷を成立させたとする。

  2. 九州地方の豪族説
    東大教授だった日本史家の井上光貞がとなえた。
    応神天皇は実在の確かな最古の天皇で、もとは九州地方に起きた豪族であり、畿内を征服して新王朝の始祖となったとする。

  3. 大阪平野を地盤とする豪族説
    直木孝次郎氏や岡田精治氏、上田正昭氏などがとなえた。崇神天皇に始まる三輪王朝が滅んで、大阪平野を地盤とする応神天皇が、新たな王朝である河内王朝を建てたとする。

  4. 父は武内宿禰とする説
    高木彬光がとなえたもので、いつも神功皇后の身近にいた武内宿禰が父親であるとする。
安本先生は、応神天皇以後、武内宿禰の子孫から多数の天皇を出し、一族が大変な繁栄をしている(上図)ことから、武内宿禰が応神天皇の父親ではないかと考えている。



  TOP>活動記録>講演会>第242回 一覧 上へ 次回 前回 戻る