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第243回 謎の四世紀 |
1.最近の新聞から |
■ 毎日新聞「文化という劇場」欄 (2006.3.12)
季刊邪馬台国91号の内容を毎日新聞が次のようにコメント。
邪馬台国九州説に追い風 2006年3月23日の西日本新聞の「最古級の須恵器」と題する記事は、須恵器の年代についての新たな発見を次のようにまとめている。
京都府宇治市の宇治市街遺跡で発掘された最古級の須恵器が四世紀後半に作られたことが分かり、同市歴史資料館が22日、発表した。 西谷正九州大名誉教授(東アジア考古学)
年輪年代法による科学的なデータを積み重ね、古墳の年代感全体を見直す必要がある。
今回の結果は、中期だけでなく古墳時代全体の年代見直しにかかわる。土器が変化するスピードからみて、前期が三世紀半ばにさかのぼり、中期が五世紀前半からというのは遅すぎる。四世紀後半ならつじつまが合い、卑弥呼が箸墓古墳に葬られたと考えて無理がなくなる また、応神天皇陵はこれまで450年前後の築造とされ、四世紀末から五世紀初めとみられる応神天皇の没年と離れていることから、別人の墓説が有力だった。須恵器の年代が古くなることで、古墳の年代も古くなるとみた白石太一郎奈良大教授(考古学)は、応神天皇陵について次のように述べる。年代が50年古くなれば没年に近づく。本物の応神陵である可能性を検討しなければ 一方、大塚初重明治大名誉教授(考古学)は次のように述べ、慎重さを求めている。発掘調査もせずに古墳の被葬者は断定できない。一つのデータに飛び付いて議論するのは早計 この新聞記事についての、安本先生のコメント。
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2.多賀城碑金石文の謎 |
3.神功皇后の年代の推定 |
第31代用明天皇の没年は、『日本書紀』では587年4月9日、『古事記』では同年4月15日と記されていて、わずか6日しか差がない。『日本書紀』は用明天皇の即位を585年としており、在位期間は2年足らずである。
『古事記』『日本書紀』の記述がほぼ一致していることから、用明天皇は実在の天皇であり、586年には活躍していたと見て良いだろう。 第21代雄略天皇は、478年に宋に使者を送ったことが中国文献に記されている。活躍年代の判明している第21代雄略天皇から第31代用明天皇までの、天皇の平均在位年数を見てみる。この間10代で、その在位期間の合計は108年、1代の平均在位年数は10.8年となる。 また、第21代雄略天皇から奈良時代の末の第49代光仁天皇(在位770〜781年)まで28代をみると、在位年総合計は297.5年で、平均は1代あたり10.6年となる。 すなわち、雄略天皇から光仁天皇の時代までの約300年間、天皇の平均在位年数は10年強で安定している。 そこで、在位期間平均10.8年を用いて、雄略天皇以前の時代を推定してみる。 雄略天皇から神功皇后まで7代で計算すると、神功皇后は402年頃の人となる。また、第11代垂仁天皇について計算すると、およそ、370年ごろと推定できる。 このように推定した神功皇后の活躍年代について、他の情報と整合するのか吟味してみる。
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4.風雲の5世紀 |
■ 高句麗の広開土王と戦った日本
5世紀に倭の大軍が、朝鮮半島の奥地まで侵入したことが「広開土王の碑文」に記されている。それを裏付ける記事が、わが国の『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』などの奈良時代の文献や、朝鮮側の史書『三国記史記』『三国遺事』、更に中国側の史書『宋書』などにみえる。 碑文によれば、400年、好太王は歩騎5万を派遣して、新羅の国境に満ちていた倭人を攻め、新羅を救った。しかしその4年後の404年に、倭は無軌道にも、帯方群に侵入した。これに対し好太王の軍は、倭の主力をたち切り、一挙に攻撃すると倭寇は壊滅した。このとき切り殺した倭賊は無数であった。 更に、407年、好太王は軍令を下し、歩騎5万を派遣して倭を攻撃し、合戦して残らず斬り殺し、獲るところの鎧ナ(がいこう)一万余領であった。持ち帰った軍資や器械は、数えることができないほどであった。 朝鮮に侵入した倭は正規の高句麗軍5万と繰り返し戦う力をもつ、万を超える大軍であったとされる。 このころの倭国は、崇神天皇や景行天皇など、大規模に軍事的な作戦を展開した天皇のあとで、巨大な前方後円墳を作るなど、王権が強化された時代であった。倭国は朝鮮半島に強力な正規軍を送り込む力を備えていた。高句麗と戦ったのは、海賊などのたぐいではないであろう。 ■朝鮮半島での倭の勢力 歴史学者、坂元義種はその著『倭の五王』のなかで、次のように述べる。
好太王碑文によると、倭軍は高句麗によりさんざん敗られたことになっているが、
実際はかならずしも『倭寇、潰敗し、斬殺すること無数』というわけにはいかなかった
ようである。
このときの新羅と倭の力関係は、人質を取った倭国の方が優勢だったと考えられる。広開土王碑文の 『倭が百残(百済のこと)、新羅を破ぶり、以って臣民となす』という文章のような状況があったのだろう。 ■倭の軍事権は、朝鮮半島に及んでいた 五世紀後半に、倭王済や武は、客観的存在である中国の南朝の宋から、「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓(辰韓) 慕韓(馬韓) 六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」という爵号を与えられている。 この爵号は、倭の軍事支配権が、朝鮮半島におよんでいたことを示している。とくに、新羅の名が入っていることが注目される。 そのころの日本は、このような爵号を与えられるだけの背景となるものを、もっていたとみられる。 西暦478年に倭王武が宋に送った上表文には、次のようなことが記されている。 東は毛人(蝦夷、アイヌか)を征すること55国。西は衆夷(熊襲、隼人などか)を服すること 66国。渡って海北を平らげること95国。 東の毛人を征したのは、日本武の尊の東征のことであろうし、西の衆夷を服したのは、景行天皇や日本武の尊が九州に赴いた話と考えられる。そして、海北を平らげたというのは、実際にあった神功皇后の遠征のことを伝えているのであろう。神功皇后の遠征から倭王武の朝貢まで80年ほどしかたっていない。倭王武の時代にも、神功皇后の遠征の記憶は十分に残っていたと考えられる。 また、『日本書紀』の継体天皇6年(512年)の条に、旧馬韓の一部であった全羅南道の四つの県を日本が百済に与えたという記事がある。 これも、512年以前に、朝鮮半島南部のこの地域に日本の支配権が及んでいたことを示すものである。 |
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