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第243回 謎の四世紀 
広開土王碑と神功皇后征韓伝承  多賀城碑金石文の謎

 

1.最近の新聞から

■ 毎日新聞「文化という劇場」欄   (2006.3.12)

季刊邪馬台国91号の内容を毎日新聞が次のようにコメント。

邪馬台国九州説に追い風
魏志は列島の一部を描く


『季刊邪馬台国91号』(梓書院)が、「『邪馬台国=九州説』の復権」を力説 している。邪馬台国九州説の拠点的な雑誌であることを割り引いても、確かに「九 州説復権」のムードを感じる。

本誌も触れているが、昨年11月に出た『社会集団と政治組織』(岩波書店『列 島の古代史3』)の小澤毅氏、(奈良文化財研究所〉のコラムはちょっとショック だった。例外はあるが、考古学者はだいたい邪馬台国所在地論争から距離を置 き、論述の過程でついでに触れるといった姿勢が普通のようだ。あるいは、すで に大和説で決着ずみで、今さら論じる必要があるのかなあといった感じ。

ところが、小澤氏は「邪馬台国の概略の位置を求めること自体は、『魏志』の 記載によるかぎり、さほど難解なものとは思われない」とさらり。そして、「九 州にあったことは明瞭」ときっぱり。

特に注目したいのは、『魏志』が倭の領域を日本列島金体とは見ず、限定的に考 えていることに改めて注意を促した点だ。その観点に立つと、「女王国の東、 海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」の記述が断然光ってくる。邪馬台国 は九州に位置し、海を隔てた東に、その領域には属さない国々が存在すると解釈 するのが妥当だろう。

この見解は、02年の『邪馬台国の原像』(平野邦雄著、学生社)が明確に打ち出 した。九州も本州、四国もすべて倭種の国だが、『魏志』は記述の対象を九州に ある「狭義の」倭国に限ると明言しているのだ−−との説明に、当時の列島地図 がありありと浮かんだのを思い出す。

『季刊邪馬台国』の特集は、佐古和枝・関西外語大教授の同様の見解も紹介し ている。九州説に向けて、風が吹いてはいないだろうか。   【伊藤和史】

■ 西日本新聞 「最古級の須恵器」

2006年3月23日の西日本新聞の「最古級の須恵器」と題する記事は、須恵器の年代についての新たな発見を次のようにまとめている。

京都府宇治市の宇治市街遺跡で発掘された最古級の須恵器が四世紀後半に作られたことが分かり、同市歴史資料館が22日、発表した。
生産開始を五世紀前半とする定説より20〜40年さかのぼる発見。一緒に出土した木片の年輪年代測定で判明した。
須恵器は古墳などの年代を決める物差しの一つで、渡来人が須恵器や馬、鉄をもたらした古墳時代中期の幕開けも早まることになる。

これについて研究者の見解が次のように掲載されている。

西谷正九州大名誉教授(東アジア考古学)

年輪年代法による科学的なデータを積み重ね、古墳の年代感全体を見直す必要がある。

奈良県桜井市の箸墓古墳が邪馬台国の女王卑弥呼の墓という説を補強する成果だ。

福永伸哉大阪大教授(考古学)

今回の結果は、中期だけでなく古墳時代全体の年代見直しにかかわる。土器が変化するスピードからみて、前期が三世紀半ばにさかのぼり、中期が五世紀前半からというのは遅すぎる。四世紀後半ならつじつまが合い、卑弥呼が箸墓古墳に葬られたと考えて無理がなくなる

また、応神天皇陵はこれまで450年前後の築造とされ、四世紀末から五世紀初めとみられる応神天皇の没年と離れていることから、別人の墓説が有力だった。須恵器の年代が古くなることで、古墳の年代も古くなるとみた白石太一郎奈良大教授(考古学)は、応神天皇陵について次のように述べる。

年代が50年古くなれば没年に近づく。本物の応神陵である可能性を検討しなければ

一方、大塚初重明治大名誉教授(考古学)は次のように述べ、慎重さを求めている。

発掘調査もせずに古墳の被葬者は断定できない。一つのデータに飛び付いて議論するのは早計

この新聞記事についての、安本先生のコメント。 

  1. 記事内容と研究者の見解について

    須恵器が四世紀末から作られた可能性のあることは、すでに1998年に下記の著書の中で指摘しており、このことが「箸墓=卑弥呼の墓」説の補強になるとは思わないし、古墳時代中期が前倒しされることもない。
    安本先生の著書の内容は、概略次の通り。

    『日本書紀』の垂仁天皇の条に次のような記述がある。

    天の日槍(あめのひぼこ)は、宇治川をさかのぼって、北方の近江の国の吾名の邑(あなのむら:『和名抄』の坂田郡阿那郷か)にはいって、しばらく住んだ。また、近江から若狭の国をへて、西方の但馬の国にいたって住処を定めた。近江の国の鏡村の谷の陶人(すゑびと)は、天の日槍の従者である。

    ここに出てくる「鏡村」の地は、銅鐸や三角縁神獣鏡が出土した滋賀県の大岩山の近くであり、現在もこの地には「鏡」「鏡山」「鏡口」「須恵」などの地名があり「鏡神社」がある。そして、「須恵」の地からは、須恵器の窯跡や須恵器が出土している。

    須恵器は朝鮮由来の土器であることを、研究者は次のように述べている。まず、歴史民族博物館の白石太一郎氏。

    「日本列島に須恵器生産という新しい窯業技術が伝えられました。最近では、須恵器の出現は5世紀の初頭ないし前半だといわれています。私は5世紀でもわりに古いところを考えています。」

    「第一段階の須恵器が洛東江流域のいわゆる加耶の影響によって成立したことはほぼ間違いないようですね」  (『古墳時代の考古学』学生社)

    また、考古学者の小林行雄氏は『図解考古学事典』で須恵器について次のように述べる。

    「千度以上の還元状態で灰色ないし灰黒色に焼きあげたかなり硬質の土器である。」

    「朝鮮の新羅焼とは、その分派ともいうべき密接な関係にある。」

    古く、新羅で、優秀な土器が作られていたこと、そして、新羅の皇子の従者が住み着いたといわれる近江の須恵付近に、新羅焼に似ている須恵器の窯跡や須恵器片が散布していることなどから、『日本書紀』の垂仁天皇紀に記された、近江の鏡村の陶人が、新羅の皇子の天の日槍の従人であったとする伝承には、あるていどの史実性がふくまれているように見える。

    須恵器と関連する伝承は崇神天皇紀にも記されている。古代の天皇の在位年数を1代約10年とみる説によると、崇神天皇、垂仁天皇は、およそ4世紀の後半の天皇である。崇神天皇紀、垂仁天皇紀に見える伝承からみて、須恵器は、わが国の一部の先進地域では、4世紀の末ぐらいには製作が行われていたのではないか。 講演中の安本先生

    そして、高い温度で焼く硬質の土器の製造技術が、鏡の鋳型を焼いて作るのに役立ち、三角縁神獣鏡などの鏡の大量生産をもたらしているのではないか。

    というのが著書の概略内容である。

    今回の記事は、上記のような著書の内容が、年輪年代法によって確認されたと言うことであって、箸墓の年代や畿内説とはまったく関係ない話である。

    むしろ、伝承と客観的事実が良く合致していることで、『日本書紀』の内容の確かさが裏付けられたと言える。つまり、『日本書紀』に箸墓は崇神天皇の時代の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓と記されていることも信憑性が高まったといえるのではないか。

    箸墓が卑弥呼の墓だなんていうのは、周濠から出た馬具のことを考えてもまったく話にならないと思う。

    なお、450年前後の築造とされる応神天皇陵について、白石太一郎氏は古墳の年代が古くなるので、本物の可能性が出てくると述べる。

    しかし、安本先生は、『日本書紀』の年代が古いほうに引き延ばされていることが問題で、応神天皇の没年が5世紀の中ごろと見られる根拠があるので、応神天皇陵の築造年代を古く持って行かなくても本物と考えて良いとする。

  2. 新聞発表のスタンスについて

    この記事についてコメントを掲載した研究者は、いずれも邪馬台国畿内説の立場に立つ方々である。邪馬台国問題については意見が畿内説と九州説の二つに分かれているし、西日本新聞のお膝元の九州には、高島忠平氏をはじめ、邪馬台国九州説の学者もたくさんいるのに、畿内説の学者の意見しか紹介しないのは問題である。

    新聞に大々的に掲載されると、一般の人は洗脳されてしまう。しかし、最近の考古学についての発表は、今回の記事と同様に根拠のないものが多い。

2.多賀城碑金石文の謎

■ 重要文化財 多賀城碑とは

宮城県多賀城市に多賀城碑とよばれる高さ2メートルほどの石碑がある。これは日本三古碑の一つとされ、次のような内容が刻まれている。
  • 多賀城の位置
  • 多賀城は神亀元年(724年)に、大野東人(おおのあずまひと)が設置したこと。
  • 天平宝字6年(762年)に、藤原朝(あさかり)が、多賀城を修復したこと。
  • 天平宝字6年12月1日に、碑が建立されたこと。
多賀城碑は江戸時代初期の1660年頃、地中から掘り出されたと言われている。 松尾芭蕉が元禄2年(1689)に多賀城を訪れ、碑に接したことを『奥の細道』に 書き残している。

そして、1998年6月30日に、重要文化財に指定されている。

この石碑については、明治時代以来、文字の彫り方、書風、官位、官職、里程、国号 などの研究から偽作説が支配的であったが、安部辰夫・平川南編『多賀城−その謎を解く−』(雄山閣1989年)が刊行され、近年では、真作説が有力になってきているという。偽作説は根拠にとぼしいという。

はたしてそうなのか。刻まれた文字と日付の分析によって、やはり、多賀城碑は1660年ごろの偽造物であることを明らかにする。

■ 碑文の書体

碑に記されている文字について、以下のように、建立の時期762年のころの書体と、碑が発見されたといわれる1660年ごろの書体とを並べて比較すると、碑に記された文字は、建立の時期の書体よりも、発見された時期の書体に近い。

  1. 「此」の文字の偏(へん)と傍(つくり)の間隔
    多賀城碑文の「此」の文字は偏と傍の「ヒ」の間隔が離れている。奈良時代以前の、わが国のほぼ全ての「此」の文字は偏と傍がつながっている。さらに、鎌倉・室町に入っても偏と傍がつながった「此」の文字が用いられている。多賀城碑文の「此」のように、偏と傍が離れるのは、江戸時代の16世紀以後のように見える。


  2. 「従」の文字の傍の上部の「人」のかたち(上図)
    奈良時代以前の「従」の文字は現在の「従」の文字と同じようである。しかし平安中期 の11世紀のなかばごろから、傍の上部に「人」の文字を二つ並べて書くように なった。多賀城碑文の「従」では「人」の文字を二つ並べて書いてある。11世紀以降の書体である。

  3. 「西」および「四」の文字の中央の縦の線の形状
    奈良時代の「西」の文字は中央の二本の縦の線を横に曲げない。ところが、1660年ごろは、現在とおなじように、「西」という字の中央の二本の縦線を横に曲げるのが普通になった。多賀城碑文の「西」の中央の二本の縦の線は横に曲がっていて、1660年ごろの書体に近い。「四」についても同じである。
■ 碑文の日付

『続日本紀』によると、多賀城を修理し石碑を建立したとされる藤原朝(あさかり)が参議に叙せられた日は天平宝字6年12月1日である。これは、碑文を建立した日とまったく同じ日である。

井上通泰は『上代歴史地理新考』東山道多賀城碑(昭和18年)のなかで、次のように述べる。

碑文はあらかじめ作り、あらかじめ書き、あらかじめ刻み、碑記は今いふ除幕の日を計りてあらかじめ記すべきを、朝は如何にしてか当日栄任を蒙らむことを知るべき。

奈良の都から遠く離れていて、叙任の日をあらかじめ知ることは難しいと思われる東北地方で、ちょうど叙任の当日に石碑を建立したとするのはいかにも不自然である。

以上のような分析から、多賀城碑が、天平年間に作られたものではなく、発見された1660年ごろに偽造されたものであると判断できる。なお、多賀城碑を真作とした『多賀城−その謎を解く−』の執筆者の一員に、旧石器捏造事件の関係者・鎌田俊明氏が加わっているのが気になる。

 

3.神功皇后の年代の推定

第31代用明天皇の没年は、『日本書紀』では587年4月9日、『古事記』では同年4月15日と記されていて、わずか6日しか差がない。『日本書紀』は用明天皇の即位を585年としており、在位期間は2年足らずである。

『古事記』『日本書紀』の記述がほぼ一致していることから、用明天皇は実在の天皇であり、586年には活躍していたと見て良いだろう。

第21代雄略天皇は、478年に宋に使者を送ったことが中国文献に記されている。活躍年代の判明している第21代雄略天皇から第31代用明天皇までの、天皇の平均在位年数を見てみる。この間10代で、その在位期間の合計は108年、1代の平均在位年数は10.8年となる。

また、第21代雄略天皇から奈良時代の末の第49代光仁天皇(在位770〜781年)まで28代をみると、在位年総合計は297.5年で、平均は1代あたり10.6年となる。

すなわち、雄略天皇から光仁天皇の時代までの約300年間、天皇の平均在位年数は10年強で安定している。

そこで、在位期間平均10.8年を用いて、雄略天皇以前の時代を推定してみる。

雄略天皇から神功皇后まで7代で計算すると、神功皇后は402年頃の人となる。また、第11代垂仁天皇について計算すると、およそ、370年ごろと推定できる。

このように推定した神功皇后の活躍年代について、他の情報と整合するのか吟味してみる。
  • 広開土王碑の年代・内容
    広開土王碑には、400〜407年ごろに倭と戦ったことが記録されている。『日本書紀』神功皇后紀をはじめ日本のほとんどすべての古文献に、神功皇后が朝鮮半島に出兵した伝承が記される。神功皇后の年代を402年ごろとすれば、広開土王碑文と神功皇后伝承の内容・年代が整合する。

  • 応神天皇陵の築造年代
    応神天皇は神功皇后の息子である。神功皇后の年代を402年ごろと推定すると、応神天皇の活躍年代は5世紀前半であり、没年は5世紀半ばごろと見て良い。これは、応神天皇陵の築造が450年前後とされることと整合する。
このように、天皇一代の在位期間を平均10.8年として、神功皇后の年代を402年ごろと見ることによって多くのことが矛盾なく説明できる。

4.風雲の5世紀

■ 高句麗の広開土王と戦った日本

5世紀に倭の大軍が、朝鮮半島の奥地まで侵入したことが「広開土王の碑文」に記されている。それを裏付ける記事が、わが国の『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』などの奈良時代の文献や、朝鮮側の史書『三国記史記』『三国遺事』、更に中国側の史書『宋書』などにみえる。

碑文によれば、400年、好太王は歩騎5万を派遣して、新羅の国境に満ちていた倭人を攻め、新羅を救った。しかしその4年後の404年に、倭は無軌道にも、帯方群に侵入した。これに対し好太王の軍は、倭の主力をたち切り、一挙に攻撃すると倭寇は壊滅した。このとき切り殺した倭賊は無数であった。

更に、407年、好太王は軍令を下し、歩騎5万を派遣して倭を攻撃し、合戦して残らず斬り殺し、獲るところの鎧ナ(がいこう)一万余領であった。持ち帰った軍資や器械は、数えることができないほどであった。

朝鮮に侵入した倭は正規の高句麗軍5万と繰り返し戦う力をもつ、万を超える大軍であったとされる。

このころの倭国は、崇神天皇や景行天皇など、大規模に軍事的な作戦を展開した天皇のあとで、巨大な前方後円墳を作るなど、王権が強化された時代であった。倭国は朝鮮半島に強力な正規軍を送り込む力を備えていた。高句麗と戦ったのは、海賊などのたぐいではないであろう。

■朝鮮半島での倭の勢力

歴史学者、坂元義種はその著『倭の五王』のなかで、次のように述べる。

好太王碑文によると、倭軍は高句麗によりさんざん敗られたことになっているが、 実際はかならずしも『倭寇、潰敗し、斬殺すること無数』というわけにはいかなかった ようである。

倭軍が何度となく出兵して高句麗軍と戦っていることは、高句麗軍が決定的な勝利を おさめられなかった証拠といってよかろう。

また『三国史記』によると、実聖尼師今元年(402年)3月、新羅が倭国とよしみを通じ、 奈勿王(なぶつおう)の王子未斯欣(みしきん)を人質として倭国へ送ったという。

これは高句麗の庇護だけでは迫りくる倭軍の脅威を払いのけることができなかったことを示しており 、これまた朝鮮半島における倭人の勢力を物語るものであろう。

倭国へ人質として送られた未斯欣王子は神功皇后紀に微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)という名で記録されている。

このときの新羅と倭の力関係は、人質を取った倭国の方が優勢だったと考えられる。広開土王碑文の 『倭が百残(百済のこと)、新羅を破ぶり、以って臣民となす』という文章のような状況があったのだろう。

■倭の軍事権は、朝鮮半島に及んでいた

五世紀後半に、倭王済や武は、客観的存在である中国の南朝の宋から、「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓(辰韓) 慕韓(馬韓) 六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」という爵号を与えられている。

この爵号は、倭の軍事支配権が、朝鮮半島におよんでいたことを示している。とくに、新羅の名が入っていることが注目される。

そのころの日本は、このような爵号を与えられるだけの背景となるものを、もっていたとみられる。

西暦478年に倭王武が宋に送った上表文には、次のようなことが記されている。

東は毛人(蝦夷、アイヌか)を征すること55国。西は衆夷(熊襲、隼人などか)を服すること 66国。渡って海北を平らげること95国。

東の毛人を征したのは、日本武の尊の東征のことであろうし、西の衆夷を服したのは、景行天皇や日本武の尊が九州に赴いた話と考えられる。そして、海北を平らげたというのは、実際にあった神功皇后の遠征のことを伝えているのであろう。

神功皇后の遠征から倭王武の朝貢まで80年ほどしかたっていない。倭王武の時代にも、神功皇后の遠征の記憶は十分に残っていたと考えられる。

また、『日本書紀』の継体天皇6年(512年)の条に、旧馬韓の一部であった全羅南道の四つの県を日本が百済に与えたという記事がある。

これも、512年以前に、朝鮮半島南部のこの地域に日本の支配権が及んでいたことを示すものである。



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