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第244回 |
1.倭王讃と応神天皇 |
■ 応神天皇の年代
これまでここで説明してきたことを簡単に言えば、『日本書紀』に記された年代は、本当の年代が引き延ばされているので、これを適切に修正すれば、『古事記』『日本書紀』の内容も、中国文献の内容も、考古学的な事実も、統一的に説明できる可能性があるということである。 前回、神功皇后の年代を推定したのと同じように、用明天皇や雄略天皇など活躍年代が確定できる天皇の年代を手がかりに、第15代応神天皇を推定する。 用明天皇は、『古事記』『日本書紀』の記述がほぼ一致していることから、586年ごろ活躍していた実在の天皇とみる。 そして、第21代雄略天皇は倭王武と考えられており、478年に宋に使者を送ったことが中国文献に記されているので、このころ活躍していた実在の天皇とみる。 第21代雄略天皇から第31代用明天皇までの、天皇の平均在位年数を見てみると、この間10代で108年、1代当たり10.8年である。 在位期間平均10.8年を用いて、雄略天皇から応神天皇まで6代で計算すると、応神天皇の活躍年代は413年頃となる。 ■ 倭王讃 倭の五王のひとり倭王讃が中国文献に登場するのは、413年(南史)、421年(宋書)、425年(宋書)のことである。応神天皇が413年ごろの天皇とすると、中国文献の倭王讃の年代と重なることから、倭王讃と応神天皇は同一人物ということができる。 ここでもたびたび説明したが、『古事記』や『日本書紀』は年代が古い方へ引き延ばされている。従って、記紀の年代によって倭の五王と天皇を関連づけようとしても正しい結果は得られない。 天皇一代あたりの平均在位期間を10年強と考え、記紀の文章の量などによって在位の長さを調整する安本先生の方法によって天皇在位の年代を推定すると、倭の五王と天皇の対応は次のようになる。 ■ 応神天皇陵は古市古墳群の中にある。 応神天皇の活躍年代の誤解、あるいは、応神天皇と仁徳天皇が同一人物とするような説を述べて、現在、古市古墳群にある応神天皇陵古墳は、応神天皇陵ではないと主張する意見がある。 しかし、安本先生は、次のような説明で、現在の応神天皇陵古墳は応神天皇の陵墓と判断して良いと述べる。 『古事記』は、応神天皇陵について「御陵(みはか)は河内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)の岡にあり」と記す。 不思議なことに『日本書紀』応神天皇紀には陵墓の記述がない。 陵墓が大きすぎて応神天皇の生前には完成せず、かなり時間がたってから完成し葬られたからであろうか。 しかし、『日本書紀』雄略天皇紀9年の条に、応神天皇陵にまつわる次のような伝承が記されている。
飛鳥部郡(あすかべのこおり:羽曳野市の飛鳥から柏原市国分にかけての地)の人である田辺史伯孫(たなべのふひとはくそん)の娘は、古市郡(羽曳野市古市付近)の人である書首加竜(ふみのおびとかりょう)の妻である。
『日本書紀』は応神天皇を誉田天皇(ほむだのすめらみこと)と記しており、「誉田陵」は応神天皇の陵のこととみてよい。 じじつ、『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(かみつけのあそみ)の条に、同じ話が載せられていて、ここには、はっきりと応神天皇御陵辺(おうじんてんのうのみささぎべ)の近くで馬を交換したと記されている。 ■ 応神天皇陵の大きさ 従来、応神天皇陵が一番大きく、二番目が仁徳天皇陵だといわれてきたが、計りかたが違っているので、どちらが大きいのか判断が難しい。 長さを比較すれば仁徳天皇陵の方が長いが、応神天皇陵と仁徳天皇陵とは古墳の形が違う。 土の量で比較するにしても、斜面に造られた場合どこから高さを計るかが問題になる。同じ基準で計ると仁徳天皇陵の方が大きいようだ。 『延喜式』には、応神天皇陵について次のように記している。 恵我の藻伏(もふし)の岡陵。軽嶋の明(あきら)の宮で天下を治められた応神天皇(の陵)。河内の国志紀郡にある。兆域は、東西五町。南北五町。陵戸二烟。守戸三烟。 延喜式も河内の国志紀郡にあると記しており、応神天皇陵が古市古墳群の中にあると見られていたことになる。『延喜式』は、古市古墳群の応神天皇陵以外の陵墓の兆域を北から順に次のように記している。
「東西五町、南北五町」もの兆域を必要とする陵墓は、古市古墳群のなかでは、現在の応神天皇陵古墳以外にはない。『延喜式』の著者は明らかに現在の応神天皇陵古墳を応神天皇陵と考えていた。 すくなくとも文献学的には、現在の応神天皇陵古墳が応神天皇の陵墓であることを疑う理由はほとんどない。
『古事記』によって、諸天皇についての記事の量を調べ、記事量の多い順に並べると右表のようになる。 これらの天皇は事跡の多かった天皇であると考えられる。 諸天皇の中で最も記事量の多い応神天皇に、全古墳の中で最大規模の応神天皇陵古墳を当てはめるのは自然であろう。 ■ 現在の応神天皇陵古墳が応神天皇の陵墓ではないとする意見 考古学者など専門家の中には応神天皇陵古墳が応神天皇の墓であることを疑う人が少なくない。 たとえば、地理学者日下雅義氏の見解は、
墳丘外ではあるが、応神天皇陵古墳の範囲内の地層を検査し、古墳築造に際しての整地以降に生じた(地震による)ズレから推定し、誉田山古墳の築造年代を、五世紀末から六世紀初頭と計算した。 日下氏の意見について、安本先生のコメント。 まず、『古事記』の没年干支は応神天皇以前については、信頼しがたいとみられる理由がある(新版・卑弥呼の謎:講談社現代新書参照)。『古事記』も『日本書紀』と同じく、古い時代の天皇は、実際よりもより古く位置づけられている。応神天皇の没年は、倭王讃として朝貢した記録の残る425年よりあとである。 日下氏の主張のように、応神天皇陵古墳の築造が五世紀末とすれば、およそ、60年程度の食い違いを生じる。しかし、森浩一氏の述べるところによれば、考古学者による古墳の年代の推定には、「前後に約60年の判定誤差」をつける必要があるという(『三世紀の考古学』上巻、学生社)。 文献にもとづく統計的推定年代と考古学的推定年代とのくい違いは、許容限界内といえる。 また、日下氏の調査は、応神天皇陵古墳そのものの地層のズレを調べたものではなく、古墳の範囲内とはいえ墳丘外の地層の検査である。 日下氏によれば、応神天皇陵古墳は、土地の安定した段丘と不安定な氾濫原という異質な土地にまたがって造営されている。とすれば、地層のズレも、場所により異なるのではなかろうか。試案の域を出ないと思われる。 また、円筒埴輪を研究した川西宏幸氏によれば、応神天皇陵古墳の円筒埴輪は、川西氏の編年による分類でW期のものとされ、その年代は五世紀中葉〜後葉に比定されている。 応神天皇陵古墳を五世紀中葉とみれば、応神天皇の没年とわずかしか違わない。巨大古墳であるから築造に年月がかかったとも考えられる。 このような巨大古墳では、その時代の最先端技術が用いられ、のちの時代に一般化し、流行するような埴輪が立てられるというようなこともあるであろう。 円筒埴輪による編年は、だいたいの傾向を示すもので、個々の古墳によって、事情にかなりな違いがあるとみられる。 |
2.「崇神天皇紀」の「陶の邑(すえのむら)」 |
前回、垂仁天皇の時代に、天之日矛の従者が近江の国の鏡村の谷に住み着いて須恵器を作ったことを述べ、須恵器が四世紀末から作られた可能性のあることについて解説したが、以下にその補足として、崇神天皇の時代の須恵器生産について説明する。
『日本書紀』崇神天皇七年八月の条で、大田田根子(おおたたねこ)に大物主の大神を祀らせた話が記されている。大田田根子は、茅渟の県(ちぬのあがた:和泉の国一帯の古称)の「陶の邑」の人である。 「陶の邑」は和泉の国大鳥郡陶器荘の地で、今の大阪府堺市東南部の陶器山からその西方にかけての地域である。このあたりから多数の須恵器が出土していることから、須恵器生産の本拠地であったと考えられている。 大田田根子の父は大物主の大神、母は活玉依毘売(いくたまよりびめ)で陶津耳(すえつみみ)の娘である。陶津耳は陶という地名または陶器をつくる職業集団のリーダーという意味であろう。 つまり、「陶の邑」では崇神天皇の時代にすでに須恵器が作られていたと考えられる。崇神天皇は4世紀の半ばから後半に活躍したと考えられることから、日本の一部の地域では須恵器は4世紀の後半に作られていたと判断できる。 |
3.奈良時代語が話せますか |
奈良時代語を現在の人が聞いたら理解できるのだろうか?
文書に書かれたものは、おおよそ理解できるが、奈良時代の発音で話されたら、まったく理解できないだろう。 当時の発音について解説する。
■ 上代特殊仮名遣
現代の日本語と、今から千二三百年以上前(ほぼ奈良時代以前)の日本語との大きな違いとしては、母音の数の違っていたことがあげられる。この事実は、国語学者の橋本進吉によって指摘され、現在の国語学会では、ひろく認められている。
安本先生は、これらの音は一種の半母音であり、藤堂明保編の「学研漢和大字典」(学習研究社刊)の、中国古代の発音を参照すれば、どのような音であったのか推定することができると述べる。 「学研漢和大字典」では、ここにのせられている全ての漢字について、上古音(周・秦音)、中古音(隋・唐音)、中原音韻(元音)、北京語が、発音記号で示されている。「倭人語」解読の大きな手がかりを与えている。 ■ 音の推定 分析の例として、万葉集133番の柿本人麻呂の歌を取り上げる。柿本人麻呂は『古事記』が編纂されたころに活躍した歌人である。 「笹の葉は み山もさやに さやげども 我(あれ)は妹(いも)思ふ 別れ来ぬれば」 (小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆) 「さ」の音 『古事記』は、資料が豊富なので『古事記』によって音を探ってみる。『古事記』に現れる「さ」の音を分類すると下表のようになる。
『古事記』の歌謡表記の部分の万葉仮名では、「沙」はまったく用いられず「佐」のみが使用されている。「沙」はおもに地の文のなかの「笠沙」「宇沙」など固有名詞の表記に用いられており、太安万侶以前の伝統的な用字法が踏襲されたものとみられる。 太安万侶は「さ」の音を中国の中古音にもとづき、「ツァ(tsa)」のように発音したとみられる。すなわち、「笹」は「ツァツァ」のように発音されたのであろう 「の」の音 「笹の葉」の「の」は乙類の「ノ」である。乙類の「ノ」について『古事記』の用例を分析すると次のようになる。
乙類の「ノ」は、「乙類のオ」列全体の体系から、本来は「n」(ほぼ、ニョとヌォの中間音)と推定されるが、「n」が舌を歯茎につける歯茎音であるため、「」音が、「n」音に吸収され「n」に近くなっているとみられる。「n」だけでなく、「t」などのように息が舌で妨げられるような音には、おなじように「」音の変化が認められる。 「は」の音 『古事記』における「ハ」の万葉仮名と使用頻度は次の通り。
「笹の葉」の「は」の音は上表に示すように「プァ(pua)」に近い音であったとみられる。この「pua」は現代東京方言の「フ」のように、唇をやや円く突き出して発音する「プァ」の音であったとみられる。 ここまでのところをまとめると、「笹の葉は」は「つぁつぁにょぷぁぷぁ」のように発音されたことになる。そして、このように分析していくと、柿本人麻呂のこの歌の全体は、次のように読まれたと推定される。 「笹の葉は み山もさやに さやげども 我(あれ)は妹(いも)思ふ 別れ来ぬれば」 「つぁつぁにょぷぁぷぁ みやまみょつぁやに つぁやがぃぢょみょ あらぃばゆいもよみよぶ わからぃきぬらぃば」 奈良時代のこの発音を現代の人が聞いても、何を言ってるのかまったく分からないであろう。 |
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