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第274回講演会
邪馬台国はどこか  
古代の市


 

1.邪馬台国はどこか

邪馬台国の場所を絞り込んでいくには、次のようなアプローチが可能である。
  • 距離
  • 方向
  • 「卑弥呼=天照大御神」とすれば、「天照大御神」のいた場所が邪馬台国
  • 『魏志倭人伝』に書かれている事物の遺物としての分布
邪馬台国大和説(畿内説)をとった場合、次のようなことが問題になる。
  • 距離と方向があわない。
  • 卑弥呼はだれか定まらない。
  • 『魏志倭人伝』に記されている物と、遺跡・遺物の分布があわない。
■距離
  • 全体の距離からの推定

    『魏志倭人伝』には、朝鮮半島の帯方郡から女王国までの距離が、「12,000余里」 であると明記されている。

    技術者の藤井滋氏は『東アジアの古代文化』に掲載した論文「『魏志』倭人伝の科学」のなかで次のように述べる。

    帯方郡から狗邪韓国までの7,000余里と、狗邪韓国から末慮国まで3,000余里を合計すると帯方郡から末慮国までの距離は1万余里となる。

    従って末慮国から邪馬台国までは、12,000余里から1万余里を引いて、2,000里ほどとなる。

    末慮国を中心にして、半径1,500里〜2,500里の円を描くと右図の網掛けの範囲になり、邪馬台国はこの中にあることになる。

    この図から分かるように、邪馬台国=博多説では近すぎ、邪馬台国=畿内説では遠すぎる。 邪馬台国を朝倉市(夜須町)付近と考えると矛盾はない。

  • 周旋すること五千余里

    『魏志倭人伝』にはまた、「倭の地を参問する(人々に問い合わせてみる)に、海中洲島 のうえに絶在している。あるいは絶え、あるいは連なり、周旋すること(めぐり まわれば)五千余里ばかりである。」と記される。

    「周旋」とは、「周囲」を意味する語ではなく、みずからが「旋転(めぐりまわる)」する意味であることは、国語・国文学者の山田孝雄が、論文「狗奴国考」で考察している。

    帯方郡から女王国までの12,000余里から、帯方郡から狗邪韓国までの 7,000余里を引くと5,000里ほどとなり、『魏志倭人伝』の記述通り狗邪韓国から女王国まで周旋して5,000余里ということになる。

    これは、『魏志倭人伝』の別の部分で記述している内容と整合していることになる。またこの記述から女王国は九州の範囲を出ないことが分かる。
■方位

畿内説の学者は、邪馬台国を東の畿内に持っていくために、『魏志倭人伝』で「南」と記される方向は誤記であり、「東」と読むべきだと主張する。

しかし、『魏志倭人伝』は伊都国と女王国との位置関係を三度にわたって記し、いずれも、女王国は伊都国の南にあるとしている。
  1. 『魏志倭人伝』の記す旅程では、伊都国を経て、終わりは、「南、邪馬台国にいたる。 女王の都するところ」と記している。順路の読み方は「順次式」「放射式」などがあるが、大略、「邪馬台国」は「伊都国」の南にあったことになる。

  2. 『魏志倭人伝』は「女王より以北は、その戸数・道里は略載するを得べし」と記す。 戸数・道理を略載されているのは対馬国 一支国 末慮国、伊都国、奴国、不弥国 である。これらは、「女王国の以北」にあったのである。すなわち、女王国は伊都国より南にあったのである。

  3. 『魏志倭人伝』は「女王国より以北には、特に一大率をおいて、諸国を検察させて いる。(一大率は)つねに伊都国に(おいて)治めている。」とある。 ここでも、伊都国は女王国の北だと記されている。つまり、女王国は伊都国の南だというのである。
『魏志倭人伝』は、このように何度も念を押すように同じことを表現している。これを 距離・方位の書き間違えがあったと単純に言う事はできない。

邪馬台国については、「女王国=邪馬台国」とする説と、「邪馬台国は女王国の一部 で、首都のある場所」とする説があるが、いずれにしても女王国は伊都国より南にあるのである。

さて、『魏志倭人伝』は、狗邪韓国から対馬国に渡り、対馬国から「また南に一海をわたる こと千余里、名づけて瀚海(かんかい:対馬海峡)という。一大国(一支国の 誤り:壱岐国)にいたる。」と記す。

狗邪韓国から対馬国への方位が記されていないが、一支国に渡る時、「また南に」と記しているので、対馬国は狗邪韓国の南、一支国は対馬国の南にあることになる。

対馬国の都があったとされる三根遺跡から、一支国の都があったとされる壱岐の原ノ辻遺跡の方角は大方南である。『魏志倭人伝』の記す方位は、現在の方位と大幅に違うとは思えない。従って、方位を東に置き換えることはできないし、邪馬台国を畿内に持っていくのは無理だと考える。

地図上で、伊都国の平原遺跡や奴国の博多からこの方向に平行線を引くと、筑後川流域は それほどずれているとは思えない。

■「卑弥呼=天照大御神」とすれば、「天照大御神」のいた場所が邪馬台国

古事記神話に現れる地名の統計を取ると、九州と出雲の地名が突出して多い。

しかも、九州や出雲では、神々が具体的に活動するようすが描かれている。

いっぽう、奈良県の地名については、神社などの由緒の説明に現れるだけで、神々が活躍する物語の中にはまったく現れない。

天照大御神や、須佐之男命などの活躍の舞台が、九州や出雲であったことになる。

従って、卑弥呼=天照大御神とすると、卑弥呼のいた邪馬台国もこの地域にあったことになる。

ギリシャ・ローマの考古学や聖書の考古学はすべての考古学の始まりであり、母胎であった。 そして、これらの考古学は神話や伝承に導かれたものであった。

今日、日本ではこの重要な事実は、しばしば忘れられ、あるいは意識的に回避されている。

『古事記』の中で、天照大御神の物語に現れる「天の安の河」は、実際に存在しているように描かれている。

筑後川の支流の小石原川は夜須川とも呼ばれている。地名は言語の化石とも言われるように、長い年月を経ても残りやすいので、これが「天の安の河」の地名のなごりだと考えている。

地名については、興味深い事実がある。夜須町のまわりの地名と奈良盆地の大和郷のまわりの地名がよく一致していることである。これも古い時代に邪馬台国の勢力が九州から畿内に移動して、九州の地名が畿内に持ち込まれたものと考えている。

九州の地名は新しいのではないかという議論があるが、そうではない。たとえば、奈良県にも九州にもある「朝倉」は、『日本書紀』にも記される古い地名である。

奈良県の場合は21代の雄略天皇は泊瀬(はつせ)の朝倉に都したと書かれている。九州の場合は斉明天皇が新羅を攻める時に、橘の朝倉の宮に滞在したことが記されている。

邪馬台国があったと想定する筑紫平野の一角・朝倉市に弥生時代末期の大環濠遺跡「平塚川添遺跡」がある。

九州では、吉野ヶ里遺跡が初めって発掘された弥生時代の集落であったので、全国的に有名 になったが、平塚川添遺跡はそのあとに発掘されたので、それほど有名にならず注目され なかった。遺跡にも運不運がある。

平塚川添遺跡の一帯は弥生時代の遺跡が多い地域で、工業団地の造成にあたり、遺跡で工事がストップしないよう遺跡の多い台地部分を避けて隣接する平地部分を造成したが、ここから平塚川添の大遺跡が発見されてしまった。

高倉洋彰西南学院大学教授は平塚川添遺跡で五重の環濠が発見されたころ次のように述べている。その後、環濠は六重で、部分的には七重であることが明らかになっている。

「吉野ヶ里と同様の性格を持った大規模な拠点集落で、邪馬台国時代の一つのクニの中心と思われる。
弥生後期には関西を含めて、拠点的な大規模集落は吉野ヶ里を含めて二、三例で、同時代の日本最大級の環濠集落と見ていい。」

このように、平塚川添遺跡は邪馬台国時代の遺跡の可能性は大きいのだが、まだ十分に発掘 されていない。

■『邪馬台国、中国人はこう読む』

邪馬台国へいたる旅程記事のうち、「水行十日、陸行一月」という語句は、論争に置けるつまづきの石であった。

従来は、「水行十日して、その後にさらに陸行一月」あるいは、「水行十日、または、陸行一月」のいずれかに読まれてきた。

しかし、謝銘仁氏は『邪馬台国、中国人はこう読む』のなかで、このいずれの読み方も違っていて、次のように解釈するのが正しいと述べる。

邪馬台国へいたる旅程記事のうち、「水行十日、陸行一月」という語句について、「水行二十日、水行十日、陸行一月」などは、休日・節日や、いろいろな事情によって、ひまどって遅れたり、鬼神への配慮などから、道を急ぐのを控えた日々をひっくるめた総日数に、修辞も加わって記されたものである。決して実際に道を進めた”所要日数”のことを意味 しているのではない。」

この日程記事は、先に水路を「十日」行ってから、引き続いて、陸路を「一月」 行ったという意味ではない。地勢によって、沿海水行したり、山谷を乗り越えたり、 川や沼地を渡ったり陸路を行ったり、水行に陸行、陸行に水行をくり返し、さらに、 天候や何かの事情も頭にいれて、大ざっぱながらも、整然とした、「十日」「一月」 で表現しのであろう。

つまり、魏使の道程には、水行の部分、陸行の部分、さまざまな部分があり、その 水行の部分を合計すれば、「水行十日」となり、陸行の部分を合計すれば、 「陸行一月」となるという意味であるとする。

混一彊理歴代国都之図(こんいちきょうりれきだいこくとのず)

明の時代(1402)に朝鮮でできた地図『混一彊理歴代国都之図』にもとづいて、「南を東」に読み替える議論がある。

『混一彊理歴代国都之図』という地図は九州を北として、たれさがるような形で描かれ ている。従って、「南」へ行くということは畿内の方へ進むということだというので ある。

しかし、『混一彊理歴代国都之図』は西を上方位に描いた「行基図」を不用意にその まま重ねたために生じたと思われる。

編者が朝鮮と日本の正しい位置関係を知らな かったとは思えない。余白が不足していたことがこのように描かれた理由であろう。

■女王国の東の海、女王国の南の狗奴国

『魏志倭人伝』には「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」という記述がある。

九州は一つの島であるから、本州方面に行こうとすると、海を渡る以外にない。

邪馬台国を畿内大和とすると、東方に行くのに、海を渡らなければならない必然性はないように見える。

「成立する可能性はありうるか」というような設問のしかたではなく、「どちらの可能性がより高いのか」という設問をしてみよう。

すると、女王国を九州とした場合のほうが、畿内と考えた場合よりも「女王国の東、千余里」の地理的状況によりふさわしいようにみえる。

また、『魏志倭人伝』には「(女王国の)南に狗奴国がある。男子を王としている。その官に狗古智卑狗(くこちひこ)がある。」と記される。

邪馬台国九州説をとる場合、肥後の国の球磨郡を中心とする地域を考えることが できる。狗古智卑狗は「菊池(くくち)郡」地域の彦と考えることができる。

2.古代の市

『魏志倭人伝』には「租賦をおさめる。(租賦を保管する)邸閣(倉庫)がある。 国々に市がある。(たがいの)有無を交易し、大倭(身分の高い倭人)にこれを 監(督)させる。」と記されている。ここに描かれた古代の市とはどのようなものなのだろうか。

当時の中国の資料や、少しのちの時代の日本の資料があるので、これらの資料から邪馬台国時代の市のようすを探ってみたい。

『日本書紀』孝徳天皇紀によると、邪馬台国時代より400年ほど後の奈良時代には、市に、市司(いちのつかさ)を置いて、出入りする人から手数料を徴収していたことが記されている。

また、『日本書紀』の一書には、天照大御神が天の岩屋の籠もってしまった時に、八十萬(やそよろず)の神々が天高市(あまのたけち)に集まったことが記されている。

「たけち」は「たかいち」の略で、多く小高い場所が選ばれて人々が集まり、物を交換したことから高市と呼ばれたのであろう。

市には大きく三つの機能があった。
  • 売買(本来の機能である物の売買)

    律令の「律」は刑法、「令」は行政法である。奈良時代の「令」の中に関市令(ぐゑんしりゃう)というものがあり、関所や市場についての、決めごとが記述されている。

    それによると、市場は午の刻(12時)から始まり、日暮れ前に鼓の音で終わる。鼓は9回たたくことを3回繰り返す。

    市では、店ごとに商品の名前を記した標を立てる。市の司は、値段の高いもの安いもの中ぐらいのものを分類して報告書を作り、季ごとに上司に報告することなどが決められていた。

    平安時代には市で物資を交易する資格を与えられた女性を市女(いちめ)と称した。 笠をかぶっていたので、これを市女笠と呼んだ。

  • 刑罰の執行

    皇族などの例外を除き、死刑は市場か囚獄司で執行された。

    人の集まる市場で死刑を執行したのは、人民に恐怖の念を起こさせ、犯罪を予防するため。

  • 雨乞い

    『続日本紀』文武天皇紀に、市場で雨乞いを行ったことが記されている。
市場の近くに墳墓を作ることがある。たとえば、箸墓古墳は大市墓(おおいちのはか)と呼ばれ、大市という市場の近くに築かれた。大きな墳墓を築造したことを多くの人に見てもらうために、人の集まる市場の近くに作ったのではないか。

畿内では、軽市(かるのいち)、海柘榴市(つばきいち)、阿斗桑市(あとのくわ いち)、餌香市(えかのいち)などが知られているが、その実体や当時の商業発達の程度などは必ずしも明らかではない。





『日本書紀』天武天皇紀には、天皇が狩りをした時に大夫たちが軽市の樹下に集合したことが描かれており、軽市に樹木が茂っていたことがわかる。海柘榴市、阿斗桑市なども、樹木の名前で呼ばれており、樹木を目印として人が集まってきたのであろう。

新撰姓氏録にある大市首(おおいちのおびと)、古市村主(ふるいちのすぐり)など の姓は市場に関係した渡来系の人物だったと考えられる。

甘木は交通の要地であったようで、古くから毎月九度、ここで市が立った。「二日町」 「四日町」「七日町」「八日町」などの市の立つ日にちなむ地名は、そのなごりであろう。

卑弥呼の遣魏使に「都市牛利」という名前の人物がいる。「都市牛利」の「都市」は、「市を都(す)べる」の意味の官名と思われ、「都市牛利」は市の司ではないだろうか。

中国では、後漢から東晋に至る貴族・学者などの逸話をまとめた『世説新語』という書物に、魏の夏侯玄が東の市場で処刑されたことが書かれており、中国でも市場で処刑が行われたことが分かる。

また、周代の官制を記した『周礼(しゅらい)』には、周の時代に市場で刑を執行するにあたって、身分が高い者が市場に来た場合は刑を減軽し、国王が来た場合には刑を許すと記されている。そのため身分の高い者はむやみに市場には行かなかったとされる。



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