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第355回 邪馬台国の会
日本人の起源とフィリピン先住民の研究
倭人の弓、人類学と言語学
対談


 

1.日本人の起源とフィリピン先住民の研究(尾本恵市先生)

■日本人起源論の歴史355-01
斉藤成也氏『日本列島人の歴史』2015年岩波ジュニア新書刊、『DNAで分かった日本人のルーツ』2016年宝島社刊、篠田謙一『DNAで語る日本人起源論』2015年岩波新書刊、海部陽介『日本人はどこから来たのか』2016年文芸春秋刊など参照。

■日本列島人(アイヌ、本土日本人、琉球人)の起源
・埴原和郎(はにはらかずろう)氏の日本人の二重構造モデル
日本列島には旧石器時代から、縄文時代にかけて、「原日本人」というべき人が住んでいた。この「原日本人」は東南アジアの原アジア人が起源で、比較的残っているのがアイヌと琉球人である。また、アジア大陸北東に向かった北東アジア人が、新石器時代になって農耕牧畜によって人口が増え、北東アジア人が構成された。この北東アジア人が渡来して「原日本人」と混血したことにより本土日本人ができた。

しかし、遺伝子分析と合わなくなる。
縄文人は、東南アジア系でなく、北方アジア系である。

タンパク質を使う古典的遺伝子マーカーによる民族集団の系統樹から、本土日本人と最初に分かれる民族がアイヌと琉球人である。その次がコリアンとなる。

■縄文人と弥生人
縄文人は彫りが深い、丸っこい顔をしており、髭が濃い、耳たぶが大きい、などの特徴がある。
弥生人は顔が長細く、彫りが浅く、目が細く、髭が少ないなどの特徴がある。

しかしそのようにきちんと分けることができるのだろうか?
傾向としては分けて良いが、これだけで分けるのは問題である。

■『魏志倭人伝』に出てくる「侏儒国(しゅじゅこく)」とは?
この「侏儒国」が種子島ではないかという仮説がある。種子島の遺跡から身長が低い人の人骨が出ている。
『魏志倭人伝』の女王国の東にある倭種の国の南にあるところの「侏儒国」はフィリッピンのルソン島ではないか?
フィリッピンには「ネグリト」という背の低い人たちがいる。
『魏志倭人伝』が書かれた3世紀には中国人がフィリッピンを地理的に知っていたのではないかと思っている。

■フィリピンと日本:自然と歴史とヒト
フィリピンは多民族国家で、多様性である。日本は一様性で多様性でない。
日本は大和政権が支配した結果であり、これは中国において漢民族が支配していったのと同じである。
世界的現象として、狩猟採集民族が先住民で、そこに農耕民がやって来て文明が生じる。そして人口が増え、狩猟採集民を駆逐したり、上にかぶさったりして、現代に至った。
現在、70億人の世界人口の中で、狩猟採集民たった70万人しかいない。

■「ネグリト」の起源(Small is beautiful)
スペイン人がフィリピンにやって来た時、背の低い黒い人がいる。アフリカの黒人の小さな人たちなので、「ネグリト」と呼んだ。

最終氷河期(2~7万年前)の西太平洋にスンダランドがあった、そこはジャングルだったので、そこで、進化した人は小さくなった。小さいことはいいことだと言える。

(まだ、いろいろな講演内容がありましたが、おおまかな一部の話のみとしました。
前回講演の第206回も参照してください。)


2.倭人の弓、人類学と言語学(安本美典先生)

2.1 倭人の弓355-02
倭人の弓は長い弓であった。
それに対し、 アイヌの弓は短弓のようである。355-03

また、縄文時代の弓は下記のように短弓である。
2010年の8月に、北海道中部の恵庭市和光町のユカンボシE11遺跡から、縄文時代中期の、木製の矢柄(やがら)数本が、黒曜石の鏃とともに出土している(『千歳民報』2011年5月31日刊)。
新聞の報道では、約4700年まえのものとされている。
矢柄は、長さ50~60センチのものとされている。その長さが、長くないところからみて、短弓に用いたとみられる。
これは、わが国で、もっとも古い矢の例とみられる。
出土した場所からいって、アイヌの祖先にあたる人たちが用いた可能性がある。

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また、福島大学教授の、工藤雅樹氏の著書『古代の蝦夷』(河出書房新社、1992年刊)にクマをねらう弓の文様の土器に、矢をつがえた弓と、クマのような動物を表現したもがのっている。青森県八戸市(韮窪遺跡)という場所からいって、アイヌの祖先にあたる人たちの用いたものであろう。


また、右の写真は、北海道小樽市の忍路(おしょろ)土場遺跡出土の、縄文時代後期の弓である。
出土した場所からいって、アイヌの祖先にあたる人たちの用いたものとみてよいであろう。これも短弓の類である。

 


そして、長弓圏の可能性がある地域は下記のようだとして、以前に話をした。

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ここで、最近の話として、岡安光彦氏の和弓についての論文がある。
岡安光彦「原始和弓の起源」(『日本考古学』[第39号2015年5月 日本考古学協会])

Ⅰ類のなかでも、ヒトの背丈を越える極端に長大な弓、Ⅰ類長大弓の分布は、オーストロネシア語族の分布域ないしその影響ときわめてよく重なる。太平洋の無人の島々に弓を伝えられたのは彼ら以外に存在しえない。Ⅰ類長大弓の伝播と拡散に、オーストロネシア語族が強く関与していたことは明白である。

拡散前のオーストロネシア語族の源郷(urheimat:Heine-Geldern1932)は、中国南部とみられる(J.ダイアモンド2000)

本論では、環太平洋地域における長弓の伝播がオーストロネシア語族と深い関係にあることを明らかにしたが、彼らの大規模な拡散の起点となった台湾は、職場の前任者『蘭嶼(らんしょ)とヤミと考古学』の筆者である故澤容一氏が、フィールドとして愛してやまなかった土地である。

太平洋およびインド洋周辺地域の長大なⅠ類弓は、海洋民(Sea-Nomad:Satherl995)たるオーストロネシア語族の大規模な拡散にともなって普及した。
(下図はクリックすると大きくなります)

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太平洋西岸と南方の島嶼群に並んで、極端に長大なⅠ類弓が集中するのが、南アメリカ大陸のアマゾン川上流域一帯である。国立民族学博物館の標本のなかには、ブラジルのシングー川上流で採取された、228cmに及ぶ長弓がある。この地域では、ブラジルやベネズエラのヤノアマ(ヤノマミ)族、カマユラ族、ボドクト族、ペルーのトリオ族などが、長大なⅠ類弓を用いている。カマユラ族は漁労に利用する。ボドクト族はミトコンドリアDNA分析の結果、ポリネシア人と共通の遺伝子が発見されたが(Perikins2013)、ヨーロッパ人が釣り針をもたらすまでその存在を知らず、長大な弓と三叉鏃の矢で漁労をしていた(Metraux1946)。

オーストロネシア語族の拡散をめぐっては、言語統計学、人類学、考古学などの成果から、以下の仮説が有力視されている。紀元前3500年頃、台湾を起点に拡散が開始された。今日のアミ族、タイヤル族などオーストロネシア語族の言語を話す台湾先住民族がその子孫である。起元前3300年頃にはフィリピンへの入植が行われた。ここで、オーストロネシア語族は二手に分岐し、一群は西に向かい、インドネシアなど東南アジア島嶼群を席巻したのちに、マダガスカル島へ渡った。もう一群は東に向かい、紀元前1600年頃にオセアニア、前1200年頃にポリネシア、西暦500年頃にハワイ、西暦1000年頃にはニュー・ジーランドまで拡散した。サツマイモを、その栽培方法とともにポリネシアに持ち帰った。こうして「ポリネシア急行」と比喩される、急速かつ広範囲な拡散が完了した(P.ベルウッド1989、Bellwood1995、Gray2002)。
(下図はクリックすると大きくなります)

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南米大陸へのⅠ類長大弓の伝播についても簡単にふれておく。先述したように、南米原産のサツマイモが、オセアニアやポリネシアで広く栽培されている事実やその他の根拠から、オーストロネシア語族が南米大陸への往復を実現していたことは確実視されている(Yen1974、P.ベルウッド1989、片山2002)。ヘイエルダールの実験航海(T.ヘイエルダール1996)は興味深い探検だが、今日その説はほとんど考慮されていない。

国立民族博物館には、先述した全長228cmに達する世界最長級の弓をはじめ、アマゾン川上流周辺で採集された先住民の長大な弓が多数収蔵されている。それらの弓の特徴は、太平洋型I類長大弓と酷似している。加えて、三叉鏃を付した長い漁労用の矢も相同である。南米大陸の弓と矢は、オーストロネシア語族がもたらした可能性がきわめて高い。

フィリピンやインドネシア海域の島嶼群の場合はどうか。この地域にはオーストロネシア語族の拡散以前に、すでにオーストラロイド系の狩猟採集民が先住していたが、太平洋型のⅠ類長大弓が広まった。オーストロネシア語族が先住民を人口的・文化的に淘汰してしまったからである(J.ダイアモンド2000)。フィリピンの狩猟漁労民ネグリートは、生き残ったオーストラロイド系の少数民であるが、言語的にはオースロネシア語族に同化され(P.ベルウッド1989)、生業もまたその影響を強く受けて、アウトリガー・カヌーを操り長大な弓と矢で漁労を営んでいる。

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この地域では、180~190cm台あるいはそれ以上の長さに達するような、長大なⅠ類弓が、主体である。フィリピンのネグリート族は、原始和弓と同じ弓幹に樋と巻を施した長弓と、三叉(さんさ)鏃を付した長大な矢で、漁労に使用する(Krieger1926)

日本列島では縄文時代の短弓、弥生時代の比較的長い弓、長大な原始和弓など、さまざまな丸木弓が用いられてきた。朝鮮半島南部では、日本の弥生時代に相当する原三国時代(げんさんごくじだい)に、原始和弓に匹敵する長大なⅠ類弓が確認されている。起源前1世紀中頃の慶尚南道(けいしょうなんどう)昌原市(しょうげんし)茶戸里(ちゃどり)2号木棺墓(国立中央博物館2012)、2世紀前半頃の金海良洞里(きんかいりょうどうり)21号木槨墓(国立金海博物館2012)出土例である。

南下して東シナ海に目を転じると、杭州湾を臨む浙江省跨湖橋(ここきょう)遺跡から、新石器時代(紀元前5000~6000年頃)のⅠ類漆塗り丸木弓が出土している( 浙扛省文物考古研究所2004)。図面上の上側は折れて欠損し、下側もかなりの部分が剥離した状態で、残存長は121cmだが、一般的な弓のプロポーションから復元すると180cm前後の長大な弓であった可能性がある。詳しくは後述するが、跨湖橋(ここきょう)遺跡は稲作開始期の集落で、家畜化初期段階のブタ、丸木舟などが共伴している。

先に記した紀元前1世紀中頃の慶尚南道昌原市茶戸里1号木棺墓、紀元後2世紀前半頃の金海良洞里21号木槨墓という、いずれも朝鮮半島南部から出土したⅠ類の長大な漆弓を見ると、東シナ海沿岸の、跨湖橋遺跡から出土した、同じくⅠ類の漆弓との関連性に注目せざるをえない。紀元前後に朝鮮半島南部に出現し、遅れて日本列島に登場するⅠ類長大弓は、鳥霊思想にともなう他の文物などとともに、南方からもたらされた文化複合の構成要素ではないだろうか。

Ⅰ類長大弓の出現は、弥生文化が成立した後に起きた、時期的に異なる事象だからである。弥生文化の成立は、紀元前6世紀前後だろうが(田中2014)、I類長大弓が朝鮮半島南部に出現したのは紀元前1世紀頃以降、日本列島に出現したのは早くても弥生時代中期、確実には古墳時代に入ってからでのことである。

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長弓の出発点は揚子江の河口の跨湖橋付近で、南は台湾へ行く、北は山東半島から朝鮮半島南岸から北九州へ伝わったとする。しかし南アメリカへ渡ったというところはどうだろうかといったところである。


2.2 人類学と言語学

埴原和郎氏の「二重構造説」(尾本恵市氏による骨子)
①日本列島には旧石器時代から縄文時代にかけて「原日本人」というべきヒトが住んでいたが、後の弥生時代以降に大陸から渡来したヒトとの間に混血が起きた。混血は西日本で始まり、一方で東・北日本へ、他方で南日本へと広がったが、それは現在でも進行中である。西日本から遠い北海道と琉球列島では混血の影響がもっとも少ない。このように、日本人には由来の違うヒトの二重構造がある。
②原日本人は南方系のヒトで、渡来系は北方系である。

尾本恵市氏の見解
われわれの研究では、埴原が提案した現代日本人の二重構造の存在はほぼ支持できるが日本人が南方系であるという点は否定される。なお、図でアイヌ人がコリアン、チベット人、モンゴル人などとともに北東アジアの集団群に含まれることについて、それは現在のアイヌ人ですでに和人(北方系が主体)との混血が進んでいるからではないか、との批判があった。それに対し、われわれはさまざまな混血率を仮定したシミュレーションを行い、アイヌ人がやはり北東アジアの集団に近縁であることを確かめた。
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■語順
日本語など、「古極東アジア語」系とみられる言語の「語順」は、ユーラシア大陸にひろくひろがる諸言語の語順と一致する。この点について、金沢大学の言語学者、松本克己(かつみ)氏は「日本語の類型論的位置づけ」という論文のなかでのべている。

「語順の特徴に関するかぎり、日本語はユーラシアの中核的な『主語-目的語-動詞』圏の一環をなし、この地域との結びつきは疑うべくもない。また日本語の『目的語-動詞』的配列は、支配の方向性が驚くほど首尾一貫したもっともプロトタイプ(原型)に近い型といってもよい。また、この語順の型は、現存資料で溯りうる最古の時代から、基本的にはほとんど変化がなく、多くの過渡地域に見られる動揺や混合特徴は、漢語やヨーロッパ語の影響による一部の現象を除いて、まったく認められない。日本語はこの点で、インド亜大陸のドラヴィダ諸語、アジア北・東部のアルタイ諸語と共に、『目的語-動詞』言語圏の中のもっとも安定したタイプに属し、他方、東南アジアとオセアニア(オーストラリア、ニューギュア、メラネシア、ポリネシア、ミクロネシア)を中心とする『動詞-目的語』言語圏とは明確な一線を画している。」
「このように語順の特徴から見ると、日本語はユーラシア、特にその北・東部ともっとも密接につながる。」(『月刊言語』総合特集 日本語の古層、1987年、大修館書店刊)

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■アイヌ語と朝鮮語との関係
現在の日本語とアイヌ語は全く別の言語であるが、沖縄の首里方言は近いように思われる。
これを定量的に表すために、基礎200の単語の語頭音の一致から比較する。
日本語の上古語、東京方言、首里方言、中期朝鮮語、アイヌ語紋別方言と比較すると、
偶然以上の一致がある。

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日本上古語、中期朝鮮語、アイヌ語紋別方言はモンゴル語と偶然以上の一致はないが、日本上古語、中期朝鮮語、アイヌ語紋別方言に共通する単語23をモンゴル語と比較すると、一致するものが多くなる。つまり古い単語だけとれば、一致する確率が上がる。


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ラテン語はルーマニア語、イタリア語、フランス語などに分かれたが、日本語は古極東アジア語などをベースにインドネシア系言語、クメール系言語、ビルマ、中国語などが入ってきて成立した。

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この日本語の成立について、地図上に示すと下図の「日本祖語成立期(紀元前5世紀~紀元前3世紀ごとか)の言語分布」のようになる。

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これは、日本祖語としてのクレオール語となったと考えられる。「日本祖語としてのクレオール語発生地域」参照

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上古日本語と偶然以上の一致がみられるものの3番目に、インドネシア語がある。

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ポド語とか、ナガ語が身体語に関して、上古日本語に近い。

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このポド語とか、ナガ語を話す人達はインドのアッサム地方の住民である。

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生物の分布から、面白い現象がある。
「周日本海型分布を示す生物の例」西村三郎著『日本海の成立』(築地書館、1974年刊)による。
A、Bチョウの場合
(A、ウラジロミドリシジミFavonius saphirinus ; B、メスアカミドリシジミChrysozephyrus smaragdinus、中国のものは別亜種とされる)。シジミチョウ科のなかでも、このミドリシジミ族Thecliniにはほかにも周日本海型分布をするものが多い。

C、D陸上高等植物の場合
(C、ヒメザゼンソウSymplocarpus nipponicus〔サトイモ科〕;D、ツバメオモトClintonia udensis〔ユリ科〕、ヒマラヤ産のものは別品種とされる)。
AとCとは、純粋な周日本海型の生物の例;BとDとは、いわゆる西部シナあるいはヒマラヤ関連生物という名前で一括されるグループに所属させることもできる。

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このように、日本海を取り囲むように分布しているものが、ヒマラヤの方にも存在する。


3.対談

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■尾本先生
人類学は自然人類学、文化人類学に分かれている。アメリカの動きから文化人類学が盛んである。
民族学はAPE の会(Anthropology Prehistory Ethnology)を発足させ、更に、Primatology と Linguisticsを加えたAPPLE の会にしようという動きもあったが、振るわなかった。

その他いろいろな話がありましたが、省略します。

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