■纒向遺跡出土のモモの核年代測定の新聞記事から
共産中国の建設者、毛沢東は、かつてのべた。
「揚子江は、あるところでは北に流れ、あるところでは南に流れ、あるところでは西にすら流れている。しかし、大きくみると、かならず西から東へながれている。」
これは、ある特定の岸部に立って観察した「事実」は全体的「真実」とは限らないことのたとえである。
「確証バイアス」とか、「チェリーピッキング」ということばがある。これらのことばについて、Wikipediaは次のように説明している。
「確証バイアス(英 confirmation bias)とは、認知心理学や社会心理学における用語で、仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしないこと。」
「チェリーピッキング(英cherry piking)とは、数多くの事例の中から自らの論証に有利な事例のみを並べ立てること」
纒向学研究センター(事実上は所長の寺澤薫氏の立場とみられるが)と私(安本)とで、どちらが「確証バイアス」的、または「チェリーピッキング」的になっていると見られるかを、ご検討いただきたい。
2018年5月14日(月)の夕刊、および5月15日(火)の朝刊で、新聞各紙は奈良県の纒向遺跡出土の桃の種についての年代測定の結果について報じた。
いま、一例として『朝日新聞』の5月15日(火)朝刊の記事をつぎに紹介する。
(下図はクリックすると大きくなります)
この桃の種は纒向遺跡中枢部とみられる大型建物の南約5メートルの穴から約2800個出土したものである。
この記事は畿内説と九州説との両方に配慮した記事といえよう。
新聞によってはいちじるしく畿内説よりでまとめた記事もあった。
以下では、つぎの二つにわけて、問題点矛盾点疑問点をのべる
(1)纒向学研究センターの発表と結論とをそのままみとめた場合の問題点と矛盾点。
(2)別種の分析法で分析したばあい、別の結論がでてくるという問題点
同じ遺跡から出土した遺物について、炭素14年代測定法によって測定したばあい、測定対象や、較正方法によって、推定年代値に、つぎのような違いが生じる。
測定対象 較正方法
年代が古くでる 土器付着炭化物 国際較正曲線による
年代が新しくでる 桃核・クルミ 日本産樹木による較正曲線
したがって、なにをどのように測定するのか、条件をそろえて比較する必要がある。
同じ箸墓古墳で出土した遺物のヒノキ、土器付着炭化物、桃核を炭素14年年代によって測定した結果が下記にある。
このように、ヒノキは古くでる。土器付着炭化物は西暦300年ごろとなり、桃核は400年ごろと新しくなる結果であった。炭素14年年代はこのように試料によって違いがある。今回の桃の種の結果だけを発表した。昔の桃の種のデータについても参考にすべきである。
それではまずあらかじめ、炭素14年代法の基本原理を復習しておく。
復習内容は下記リンク参照
第344回の「炭素14年代法」
今回の名古屋大学の報告書の表は下記である。
(下図はクリックすると大きくなります)
グラフにすると右下の「12個の14C年代(炭素14年代法)の平均値1824±6BPを暦年較正した結果」のグラフとなる。
中央値m0=185年(50%値)、
m0より上の確立密度50%
m0より下の確立密度50%
平均値の誤差は±6年と小さいが、14C年代の平均値がたまたま較曲線が真横に伸びて広がっている区間に対応するために、可能性の高い較正暦年代の範囲は西暦135年~西暦230年とほぼ100年間にわたって広がっている。
14C年代の誤差をいくら小さくしても、較正暦年代の範囲を絞ることはできない。
今回のように年代が古くでたばあいにはマスコミ発表を行ない、ホケノ山古墳の場合のように年代が新しくでたばあいはマスコミ発表を行なわないのは、「確証バイアス」的、または「チェリーピッキング」的なものといえる。
同じ纏向遺跡の炭素14年代測定法測定結果について、近藤玲(りょう)「纏向遺跡出土の桃核ほかと土器付着炭化物の炭素14年法による年代測定について」(『纏向学研究センター研究紀要 纏向学研究』第6号[桜井市纏向学研究センター、2018年3月刊])による下記資料がある。
(下図はクリックすると大きくなります)
この結果でも土器付着炭化物は古くでて、桃核は年代が新しくなる傾向がある。
今回の発表での問題点について、次に述べる。
[第1の問題点]
14C年代の誤差をいくら小さくしても、較正暦年代の範囲を絞ることはできない。
炭素14年代測定法の結果を信ずると、纒向出土の桃の核と、ホケノ山古墳出土の12年輪ほどの小枝資料とで、同じ庄内3式期なのに、年代差が、大きくなりすぎる。
炭素14年代BPでも、較正暦年代でも、代表値において、百年以上の差がみられる。(表参照)
この結果でも土器付着炭化物は古くでて、桃核は年代が新しくなる傾向がある。
寺沢薫氏は、『箸墓古墳周辺の調査』(奈良県立橿原考古学研究所、2002年刊)のなかで、布留0式期、布留1式期などの存続期間について、「1様式20~25年として」というようにのべておられる。庄内3式期だけが、一様式百年以上つづくということがありえようか。
測定された結果は、できるだけ尊重するという立場にたつとき、[第1の問題点]を解消するのに、つぎのような立場をとることが考えられる。
ホケノ山古墳からは小形丸底土器などが出土している。このようなことなどから、考古学者の関川尚功氏はかねてから、ホケノ山古墳は庄内期のものではなく布留式期のものであると判断しておられる。
この立場に立てば、[第1の問題]は解消する。
しかし、このように考えると、つぎの[第2の問題点]が発生する。
[第2の問題点]
寺沢薫氏は、庄内式期の出土鏡を、下表のような形にまとめておられる。(ただし、表において「238年または239年卑弥呼遣使」と書き入れたのは、安本)。
表をみると庄内期の奈良県からの確実な青銅鏡の出土は、ホケノ山古墳から三面のみである。ホケノ山古墳を庄内期のものでなく、布留式期のものであるとすると、奈良県からの庄内期の鏡の出土は、確実なものは、皆無になってしまう。いっぽう福岡県からは、30面出土していることになる。
この表をグラフにしたもの下のグラフである。
福岡県が圧倒的に多い。第2の問題から奈良県の3枚が0枚になることになる。
中国を代表する考古学者の王仲殊氏はのべている。
「河南省の洛陽を中心とする中国の黄河流域の各地で出土した、二世紀の後漢・三世紀の魏晋期の銅鏡の種類から判断すると、魏王朝が卑弥呼に賜わった百面の銅鏡は、『方格規矩鏡』『内行花文鏡(連弧文鏡)』『獣首鏡』『夔鳳鏡(きほうきょう)』『双頭竜鳳文鏡』、それに『位至三公鏡』などであるに違いありません。」(『三角縁神獣鏡と邪馬台国』梓書院、1997年刊)
また、王仲殊氏とならんで、中国を代表する考古学者である徐苹芳氏も、つぎのようにのべる。
「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以下の五種類のものである可能性が強いのです。位至三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晉の時代に中国の北方からしか輸出できなかったものと考えられます。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊。傍線、およびその部分をゴシックにしたのは、安本)。
西晋鏡とする鏡でも福岡県が圧倒的に多い。
■『弥生時代鉄器総覧』の話
広島大学の教授であった川越哲志(かわごえてつし)は、2005年に亡くなった。六十三歳であった。
川越哲志のまとめた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。
弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめたもので、現在も邪馬台国時代の鉄器などについて考えるさいの基本文献であることを失わない。
そこには、鉄器についての、厖大なデータが整理されている。
『魏志倭人伝』などには、鉄のことがいくつか記されている。
(1)倭人は、兵器に、「鉄鏃」を用いる、とある。
(2)倭人は、兵器に「矛」を用いるとある。この「矛」は、鉄の矛と考えられる。
広形銅矛などは、武器になりえない。
(3)魏の皇帝は、卑弥呼に、「五尺刀二口」を与えたと記されている。この「五尺刀」は鉄の刀と考えられる。「五尺刀」は、長い刀である。銅の刀であれば、ねばり気がないので、長い刀は折れやすい。
(4)『魏志』の「韓伝」の弁辰の条に、つぎのようなことが記されている。
「(弁辰の)国は、鉄をだす。韓、濊、倭、みな、これをとる。」
この記事は、倭人が、鉄を用いたことを示している。
また、『魏志倭人伝』には、つぎのように記されている。
「卑弥呼が死んだあと、あらためて男王を立てたけれども、国中がそれに従わず、殺しあいをした。当時千余人が死んだ。」
人を殺すのには、武器を用いたはずである。その武器には、鉄の矛、鉄の刀剣。鉄の鏃などを用いたとみられる。
ところで、『弥生時代鉄器総覧』の出土地名表をみると、福岡県には、49ページさかれている。これに対し、奈良県には1ページしかさかれていない。
「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的違いが、目にはいらないのだろうか。
たとえば、鉄の鏃をとりあげてみよう。
福岡県からは、398個の鏃が出土しているのに、奈良県からは、わずか、4個の鏃しか出土していない。
(「鉄鏃?」などとあって、疑問のあるものは除く)。
しかも、奈良県の4個のうちの3個は、「時期」が「終末期~古墳初頭」となっている。邪馬台国時代よりも、時代が下がる可能性もある。
東京大学名誉教授の、現代を代表する統計学者、松原望氏はのべている。
「統計学者が『鉄の鏃』の各県別出土数データを見ると、もう邪馬台国についての結論はでています。」
(拙者『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』「勉誠出版2015年刊」参照。)
矛なども、福岡県からは、出土例はみられるが、奈良県からの出土例は、みられない。
鏡や鉄についていえた同様なことが、『魏志倭人伝』に記されている勾玉や絹についてもいえる。「邪馬台国=畿内説」の考古学者の小林行雄でさえ、つぎのようにのべる。
弥生式時代の硬玉製勾玉をみると、その大部分が北九州地方の墓からの発見品であり、そこでは輸入品の銅剣・銅矛などと同様な、財宝的とりあつかいをうけていたことが注意される。」(『古墳の話』[岩波書店]
このような全体的状況は現在も変わっていない。
■大型建物について
結局、奈良県からは、『魏志倭人伝』に記されているような事物の遺物は、ほとんどなにも出土しておらず、福岡県と奈良県とでは、出土状況に圧倒的な差がある。
今回の測定結果で判明したことは纏向遺跡から出土した桃の種は三世紀と結びつくこと、そして「大型建物」の年代も、それと結びつく可能性が大きいことである。
(下図はクリックすると大きくなります)
しかし、「大型建物」跡の出土ということだけでは、『魏志倭人伝』の記述と結びつくことにはならない。というのは、全国のあちこちで、古い時代の「大型建物」の跡が出土しているからである。
たとえば、縄文時代の青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)では、長辺32メートル、短辺9メートルの、纒向遺跡の大型建物よりも、ずっと大きな竪穴住居跡が出土している。
福岡県西区の弥生時代の吉武高木遺跡からは、14メートル四方の大型建物跡が確認されている。確認面積では、纒向遺跡の大型建物よりも大きい。
吉野ヶ里遺跡からは、約12.5メートル四方の、ほぼ正方形の高床式の大型建物が出土している。これも、確認面積では纒向遺跡の大型建物よりも大きい。
また、大阪府の池上曽根遺跡でも、今回の建物あとに近い規模の大型建物あとが出土している。纏向遺跡よりも、ずっと時代の古いものである。当時、「最大級の高床建物跡」などと報じられたものであった。
纏向遺跡の大型建物を卑弥呼の「宮殿」とする見解がある。
しかし、『魏志倭人伝』は、卑弥呼も「居処」について、次のように記している。
「宮室・楼観(たかどの)・城柵(じょうさく)をおごそかに設け、つねに人がいて、兵(器)をもち守備をしている。」
纏向遺跡出土の「大型建物」には、「楼観」「城柵」にあたるものが出土していない。
『魏志倭人伝』では倭人武器についてつぎのように記されている。
「兵(器)には、矛(ほこ)を用いる。」
「竹の箭(や)は、鉄の鏃(やじり)、あるいは、骨の鏃(のもの)である。」
たとえば、北九州の吉野ヶ里遺跡では、防衛用の城柵も、楼観のあとらしいものも発見されている。
吉野ヶ里遺跡のばあい外濠は、築造当時、幅10メートル、深さ4.5メートルていどであったであろうといわれている。濠の断面はV字形をしている。濠は、軍事的性格をもっていたとみられる。また、洪水を防いだり、灌漑の便をはかる治水の目的もあわせもっていたであろうといわれている。
深さ4メートルの濠の外に、掘り土を盛りあげ、材木で柵(さく)をその上に設置すると、落差は、6メートル以上となる。
この柵が、『魏志倭人伝』の記事の、「城柵」にあたるかといわれている。
吉野ケ里遺跡の発掘当時、考古学者の佐原真は、およそ、つぎのような意見をのべている。
「もともと中国の『城』は、日本語の城、英語のカースル(Castle)ではなく、日本語の囲い、英語のウォール(wall)である。しかも、古くは、それを土をつんで造った。だからこそ『土で成る』という字になっているとか。
『城(きず)く』という動詞もある。濠を掘る。弥生の村では、その土を、濠の内側ではなく、外側に掘りあげて土の囲いを盛りあげた。『土塁(どるい)』ともよんでいる。これは中国流では、『城』でよい。」(『月刊Asahi』1989年6月号。)
吉野ケ里遺跡の実物を見(あるいは、写真を見)、佐原真の説明をきけば、『魏志倭人伝』のいう「城柵」とは、なるほどそういうものであったのかと、なっとくできるように思える。「柵」なのであるから、英語のカースルではないのであろう。
『魏志倭人伝』に記されている「楼観」のあとか、といわれている物見やぐらを思わせる建物跡がある。
これは、門舎であるとする見解もある。
吉野ケ里遺跡出土のこの建物跡について、大阪外国語大学の森博達(もりひろみち)助教授は、つぎのようにのべている。
「『楼観』は、本来宮門の左右に築かれる一対の高台(たかどの)を指す。『後漢書』の〈単超伝〉や〈粱冀(りょうき)伝〉の用例から壮麗な高台であることがわかる。『楼櫓』のような単なる物見やぐらではない。吉野ヶ里から高さ10メートル以上と思われる『物見やぐら』の遺構が発掘された。内濠の東側では出入口を挟んで左右に築かれている。楼櫓ではなく楼観に近いものと考えるべきである。」『プレジデント』1989年7月号。)
『魏志倭人伝』の記述は、宮室が内部にあり、環濠と土塁と、土塁の上の柵とがあり、物見やぐら風のたかどのなどがあって、そこで兵士が監視し、守衛しているというイメージの、吉野ヶ里の状況などと、よく重なりあっているように思える。
また、吉野ヶ里遺跡からは『魏志倭人伝』に記されている「鉄の鏃」や、絹や、鏡(後漢式鏡)や、勾玉などが出土している。
纒向の地の柵は、防衛用のものではない。区画用のものである(この点も、桜井市の教育委員会の橋本輝彦氏に、お電話してたしかめた。)
■纏向学研究センター発表の方法とは別種の方法
つぎに、纏向遺跡出土の桃の核の、炭素14年代測定法によって得られた結果を纏向学研究センター発表の方法とは別種の方法で分析したばあい、別の結論がでてくるという問題をとりあげる。
数理考古学者(元・韓国国立慶尚大学教授)新井宏氏からのお手紙
「12件の個別データを作ってみました。
ご覧いただくとわかりますが、平均値でグラフを作ると、AD300~350の部分のグラフはほとんど強調されませんが、個別のデータによると12件中8件で、AD300~350のデータがしっかりと表示されます。
簡単に言えば、Momo-10とMomo-13がなければ、AD300~350の可能性もかなり高い感じです。
下図参照
日本産樹木の炭素14年代による較正曲線を用いたばあいと、国際較正曲線を用いたばあいとで、結果が異なってくる。(以下「日本標準」と「国際標準」と略す。)
「日本標準」で構成したばあいのほうが較正暦年代(西暦)が新しくでる傾向がある。
これらの結果と、前に示した近藤玲論文の要約とをみくらべるとき、これらの12個の桃の核は、すべてが、単年度産(ある特定の1年に実ったもの)といえるのか、という疑いが生ずる。
12個のデータの平均値でみると、古い年代を示すモモの核に引かれて、300~350年の確立密度がめだたないが、個々のものでみると、300~350年のめだつものがかなりある。
下表の近藤玲論文の要約をみると、「最下層下部」から出土したものが古くでるなどの傾向がみとめられるようである。
下表の②の東田大塚古墳と、④の箸墓古墳とは、ともに纒向古墳群に属する古墳である。そして、ともに、土器年代では、布留0式古相とされる時期に築造されたと考えられるものである。
そして、二つの古墳は、炭素14年代測定値(BP)において、土器付着炭化物の値も、桃核のばあいも、かなり近い値を示している。土器付着炭化物の年代が、桃核の年代よりも古くなるていども、九十年と七十七年とで、かなり近い。
このことは、箸墓古墳の年代は、四世紀のものとする判断を、サポートするものである。
ホケノ山古墳・箸墓古墳の年代
寺沢薫氏の土器編年によれば、庄内3式期のつぎの時期の土器型式は、「布留0式期古相」である。
纒向古墳群に属する箸墓古墳は、布留0式期古相のものとされている。また、同じく纏向古墳群に属する東田大塚古墳も、布留0式期古相のものとされている。
そして、箸墓古墳からは、三個の桃核(桃の種の固い部分)が出土している。東田大塚古墳からは、一個の桃核が出土している。
これらの、合計四個の桃核は、箸墓古墳、および、東田大塚古墳から出土した資料の中で、もっとも新しい時代相を示している。
そして、これらの桃核の炭素14年代測定法による測定値は、ホケノ山古墳出土の小枝試料の年代測定値に近い年代を示している。
いま、ホケノ山古墳出土の二つ小枝試料、箸墓古墳出土の三つの桃核試料、東田大塚古墳出土の一つの桃核試料の合計六つのデータを用い、これらの西暦推定年代の分布を示せば、下図のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)
上図をみればわかるように、これらの三つの古墳の築造の時期が、西暦300年以後である確率は、85.2パーセントとなる。西暦350年以後である確率でさえ、76.7パーセントとなる。下図は、ホケノ山古墳だけの結果の図とはなはだ整合的である。
これらは、すべて、四世紀のものである確率が大きい。
(下図はクリックすると大きくなります)
なお、箸墓古墳についての年代測定データは、『箸墓古墳周辺の調査』(奈良県橿原考古学研究所、2002年刊)による。
この報告書、『箸墓古墳周辺の調査』のなかで、寺沢薫氏は、箸墓古墳出土の「桃核」について、「明らかに布留0式古相の土器群とPrimaryな状況で共存したと判断された桃核」と記しておられる。あとから、なにかの事情で、まぎれこんだりしたものではない、ということである。
また、桃核試料については、名古屋大学年代測定総合研究センターの中村俊夫教授が、「クルミの殼」について、「クルミの殼はかなり丈夫で汚染しにくいので、年代測定が実施しやすい試料である。」(日本文化財料学学会第26回大会特別講演資料)とのべておられることが、参考になるであろう。
そして、纒向遺跡を発掘し、奈良県立橿原考古学研究所の所員で、纒向遺跡を発掘し、大部の報告書『纒向』を執筆された関川尚功氏は、つぎのようにのべている。
「箸墓古墳とホケノ山古墳とほぼ同時期のもので、布留1式期のものであり、古墳時代前期の前半のもので、四世紀の中ごろ前後の築造とみられる。」(『季刊邪馬台国』102号、2009年刊)
この関川氏の見解は、炭素14年代測定法の測定結果の年代とも、よく合致している。
今回の纏向遺跡のモモの種の炭素14年代法による結果の三世紀前半が正しいとすると、下記の表示のようになる。
福岡県では、三世紀前半は長期子孫銘内行花文鏡、方格規矩鏡など出土の遺跡があり、三世紀後半は位至三公鏡、西晋鏡などの出土の遺跡がある。
それに対し奈良県では、纏向遺跡が三世紀前半とすると、次がホケノ山古墳の画文帯神獣鏡による四世紀となり、三世紀後半の時代が空白となる。
連続性を考えても、纏向遺跡のモモの種を三世紀前半にすることからの矛盾が感じられる。