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Rev.1 2019.10.29

第380回 邪馬台国の会
『誤りと偽りの考古学・纏向』出版記念特別講演会
年代論の検討
出雲神話と邪馬台国


 

1.新刊『誤りと偽りの考古学・纏向』出版記念特別講演会

■「絳」は「茜(あかね)」であって、「ベニバナ」を指すものではない。
『読売新聞』2007年10月3日の記事についての話を以前にしたことがある。ここにおける畿内説に有利なベニバナ話がいかに間違っているか、畿内説の間違いを指摘する分かり易い例となるので、もう一度このベニバナの話をしてみたい。
(下図はクリックすると大きくなります)
380-01

金原正明(かねはらまさあき)「纏向遺跡の植物遺体群集の産状と植生、環境、生業の変遷と画期」(纏向学研究センター研究季要)『纒向学研究』第1号、2013年[桜井市纒向学研究センター])
この論文には次のページのような文章がみえる。そこでは、「他の文献には」とあるが、その「文献名」は、記されていない。
文章の意味がとりにくい。

「3世紀前半の纒向遺跡にベニバナが伝わり紅花染めが行われていたと考えられるが、ベニバナの栽培自体が伝わっていたのか染織に用いる花(花弁)のみが移入されたのかはわからない。纒向遺跡でこの時期にベニバナ染めが行われてきたことから、『魏志倭人伝』の卑弥呼の時期にはベニバナが伝わっていることになる。『魏志倭人伝』で卑弥呼が献じた「絳青縑」(こうせいけん)の「絳」は深紅の色を指し、「茜」(あかね)と概ね解釈されてきた。同『魏志倭人伝』で魏より賜った中に「蒨絳」(せんこう)があり、「蒨」は「茜」と同義で、矛盾が生じる。(安本注:意味不明。別に矛盾は生じない。)

他の文献には絳と茜を示す緋とは分けられ、同時に記載があり、別と考えられる。卑弥呼が献じた「絳青縑」(こうせいけん)の「絳」はベニバナで染めたものであった可能性が生じる。」
(安本注:この文章では「文献上」の根拠や、ベニバナで絹を染めた遺物の「出土例」などが示されていない。)

 

■「絳」は「ベニバナ」ではなく「茜(あかね)[蒨(あかね)]」である
さきの新聞記事のなかで、「『絳』は『あか』とも読み、「(桜井)市教委によると、ベニバナを指す可能性があるという。」と記されている。そして、ベニバナであることが前提となって話が進む。しかし、「ベニバナを指す可能性がある」とする根拠は示されていない。

この「絳」は、「ベニバナ」ではない。「茜(あかね)」である。
以下に、「絳」は「茜」である根拠を記す。桜井市の教育委員会は、せめて、以下にのベるていどの、「絳」を「ベニバナ」とする根拠(文献的根拠、遺物上の根拠)を示してほしい。

(1)『魏志倭人伝』では、「絳青縑」という語のでてくるすぐ前のところの景初二年(じっさいは、景初三年「239」とみられる)の条のところに、「蒨絳(せんこう)五十匹」という語がでてくる。「蒨(せん)」は、「茜(せん)」と同音である。呉音、漢音ともに、「セン」で、中国音は、「qiān」である。「茜」と「蒨」とは、音も意味も同じで、「あかね」のことである。
「蒨絳」とは、「あかね草で染めたあか」のことである。このことは、『魏志倭人伝』の諸注釈書が、こぞって、そう記していることである。
水野祐著『評釈 魏志倭人伝』(雄山閣出版、1987年刊)においては、「蒨絳」を説明し、「『蒨』はアカネ(茜)。これからとった赤色の染料で染めた鮮かな大赤色の布地」とする(同書495ページ)。
井上秀雄他訳注の『東アジア民族史Ⅰ 正史東夷伝』(東洋文庫、平凡社、1974年刊)も、「蒨絳」を、「茜染(あかねぞめ)の赤色の織物」とする。
藤堂明保監修の『倭国伝』(学習研究社、1985年刊)も、「蒨[茜(あかね)]絳(のきぬ)」と記す。
和田清他編訳『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫)や、石原道博著『訳注中国正史日本伝』(国書刊行会刊)なども、「蒨絳」の「蒨」について、「あかね」という説明をつけている。また、紀元前二世紀ごろに、中国で成立した辞書『爾雅(じが)』の「釈草」に、「蒨は、もって絳に染めるべし。」とある。

中国で出されている世界最大級の漢字の辞書『漢語大詞典』(漢語大詞典出版社刊)の「蒨」の説明には、「茜草。根は、絳色の染料とすべし。」とある。現在、世界最大の漢字の辞書『漢韓大辞典』(韓国・檀国大学校出版部刊)も、「茜草」の項で、『集解』という文献を引いて、「今、絳を染める。」と記す。
そして、『漢語大詞典』は、西暦500年ごろに成立した中国最初の体系的な文学評論書の、『文心雕竜(ぶんしんちょうりゅう)』の、つぎの文を引く。
「絳は、蒨(あかね)において生ず(絳生於蒨)。」
『魏志倭人伝』にみえる「蒨絳(せんこう)」は、「茜絳(せんこう)」と同じである。このことばの存在じたいが、「あかね」と「絳」との結びつきを語っている。

『魏志倭人伝』じたいに、「蒨絳(せんこう)[茜(あかね)染(ぞ)めの絳(こう)[あか色])」という語がでてくるのに、それを「紅花(べにばな)で染めた絳」とするのは、とても自然な理解ではない。

・・・もしかしたら、・・・。桜井市の教育委員会の諸先生は、『魏志倭人伝』の注釈書を読んだり、「蒨」の字を、漢和辞書で引いて調べることなど、しなかっただけなのかもしれない。
とすれば、・・・。ごく基礎的な勉強を、なにもしない人たちが、みずからの不勉強に気がつかないまま、「短絡的な解釈」を行ない、マスコミでの発表を行なっているのかもしれない。そのような人たちに、マスコミ発表の権限が与えられているのかもしれない。

茜草は、アカネ科の植物である。ベニバナは、キク科の植物である。この二つの花は、別物である。

(2)『漢語大詞典』で、「絳」の字を引くと、「草名。紅に染めるのによい」として、『文選(もんぜん)』の左思の「呉都(ごと)の賦(ふ)」での使用例を示す。さらに、劉逵(りゅうき)の注の「絳は、絳草である。臨賀郡に出(いだ)す。染めるのによい。」という文を記す(引用文の原文は、中国文)。『文選』は、梁の昭明(しょうめい)太子の編集した詩文の選集である。
「呉都の賦」の作者は、左思(さし)[250?~300?]である。卑弥呼の時代に近いころに活躍した人である。「呉都の賦」は、『三都の賦』の一つで、三国時代の呉の建業のことを詠んだ賦(韻をふんだ美文)である。

『三都の賦』を書き写すために、多くの貴人たちが紙を買いあさった。それによって、「洛陽の紙価を高めることになった」ことで知られる。現在でも、「洛陽の紙価を高める」という表現は、ベストセラーを意味するために用いられる。
『三都の賦』を書いたころ、左思は無名であった。そのため、評判にならなかった。そこで、当時の名土たちに働きかけ、劉逵(りゅうき)に注をつけてもらうなどした。そのために、世に知られるようになった。
「呉都の賦」のなかには、「紫絳」という形で、「絳」の字がでてくる。劉逵は、この「絳」にさきほどの、「絳は、絳草である。臨賀郡に出す。染めるのによい。」という注をつけている。
そして、わが国の明治書院刊の「新釈漢文大系79」の『文選(賦篇)上』は、語句にくわしい説明をほどこしているが、その中の中島千秋氏の注では、「絳」を「紅色の染色として用いる茜草」としている(同書、265ページ)。茜草は、「紅色」を出すのである。

(3)「纁(くん)[そび]」という字がある。『説文』(せつもん)に、「浅絳なり。」とある。そして、諸橋轍次著の『大漢和辞典』や、台湾で出されている『中文大辞典』に、『説文通訓定声』という文献を引いて、つぎのような説明がある。
「韋(い)[なめし皮]を、茜(あかね)草で染めるのに、一度染めるのを韎(ばつ)という。これは、みながいうところの紅である。二度染めるのを、赬(てい)という。赤黄色である。三度染めると赤になる。
ただ、四度染める絑(しゅ)にくらべると、やや浅い。それで浅絳という。」
ここでも、浅絳色を「茜草」で染める、とある。
そして、わが国の養老令(令は、行政法など)の注釈書『令義解』の「衣服令」には、
「纁(くん)[そび]」を説明して、「三度染めるのが絳である(三染絳也)」と記されている。『漢韓大辞典』で、「纁」を引くと、「李巡いう。三染してその色すでに絳となる。纁と絳とは同じである。」とある。
私は、諸種の文献にあたってしらべたが、「絳」を「ベニバナ」とする文献に、ゆきあたらなかった。
桜井市の教育委員会においては、「絳」を「ベニバナ」とするような文献資料があるのであれば、それを提示してほしい。

(4)佐賀県の吉野ヶ里遺跡から出土した絹織物は、一部の素絹(しろぎぬ)を除いては、すべて、日本茜(あかね)で染色されたものであった。(『吉野ケ里遺跡』[佐賀県教育委員会編集・発行、吉川弘文館、1994年刊]522ページ。)[茜で染めた絹の出土例]

(5)『万葉集』の第336番に、沙弥満誓(さみまんぜい)[笠朝臣麻呂(かさのあそんまろ)。722年に、筑紫観世音寺別当]の、つぎの歌がある。
「しらぬひ 筑紫(つくし)の綿(わた)は 身に着けて いまだ着(き)ねど 暖(あたた)けく見ゆ
(しらぬひ[枕詞(まくらことば)]筑紫の綿は、肌(はだ)にじかに着けたわけではないが、暖かそうに見える)」

ここで、「綿(わた)」といっているのは、蚕(かいこ)からとった絹綿(きぬわた)[真綿(まわた)]のことである。植物の木綿のワタではない。木綿の伝来の初出記録は、799(延暦18)7月のことである。[『日本後紀』に、崑崙(こんろん)[マレーシア]人、または天竺(てんじく)[インド]人のもたらした「草の実」「綿の種子」の記述がある。] 380-02

『続日本紀(しょくにほんぎ)』の神護景雲三年(769)3月に大宰府の綿20万屯を京(みやこ)に納めたという記事がみえる。絹綿は九州の名産品であった。
『続日本紀』によれば、天平元年(729)9月に、10万屯を毎年現物納租税面として、京(みやこ)に納めることを定めている。
神護景雲三年(769)3月にはそれを20万屯にふやし、延暦二年(783)3月には、またもとの10万屯に減らしている。(『続日本紀』および、『三代格(さんだいきゃく)』の「太政官符」)。
いずれににしても、諸地域中、最大の絹の貢納量である。
他の地域については、このような記述はみられない。
これらは、邪馬台国の時代よりものちの、奈良時代の話であるが、そのころ、絹生産の圧倒的中心は、九州であった。

(6)『延喜式(えんぎしき)』は、律令(りつりょう)の施行(しこう)細則である。927年に成立した。この『延喜式』の「民部省」のところをみると、九州の大宰府からは、「絹七千疋」「茜(あかね)二千斤」(民部省下、55)が、中央政府に毎年貢納されることになっている。この貢納量は、各国、各地域の「絹」「茜」の貢納量の中では、とびぬけて多い。
そのため、虎尾俊哉(とらおとしや)編の『延喜式 中』(集英社、2007年刊)では、「補注」において、わざわざ、「梅村喬(うめむらたかし)[日本史学者、大阪大学名誉教授]は、中央財政において大宰府から貢進される絹へ依存する割合が高かったことを指摘している。」と記しているほどである。
ここでは、「絹」と「茜」とが結びついているようにみえる。「絹」を染めるのに、「茜」が用いられたとみられる。
インターネットで「茜(あかね)」を引くと、『コトバンク』に、「主として絹を染めるのに用いる。」とある。
また、正倉院の古裂(こぎれ)の中に、茜(あかね)で染めた緋(ひ)[目のさめるようなあざやかな赤]の綾(あや)[模様を織り出している絹織物]があるという(虎尾俊哉編『延喜式 中』「集英社刊」257ページ頭注)。[茜で染めた絹の事例]

虎尾俊哉氏は、この正倉院の古裂の緋について、「染め色としては堅牢で、旧色をよく保っている。」と記している。茜で染めると、長く色があせないようである。

『延喜式』の記載は、九州の大宰府から、中央政府への貢納品を記しているのである。 『魏志倭人伝』の「絳青縑」は、倭王から魏への上献品を記しているのである。
とすれば、『魏志倭人伝』の「倭」は、九州方面を指しているようにもみえる。
『延喜式』の「民部省」の大宰府のところでは「紫(むらさき)草五千六百斤」も記されている。これも各国、各地域のなかで、最大の量である。しかし、「紅花(べにばな)」のことは記されていない。
「紅花」の貢納は、伊賀の国のみ七斤八両とされ、その他、尾張、甲斐、信濃、紀伊、越前、越中、加賀、伯耆などの二十三国については、貢納国名のみが記されている。貢納量がすくなかったことを思わせる。
なお「民部省」は、律令時代において、戸籍・租税・賦役など、全国の民政・財政を担当した省である。

『延喜式』は、のちの時代の資料ではあるが、邪馬台国が九州であるとすると、絹[縑(けん)など]」の生産も、「絳(茜)」の生産も、昔からそろっていた可能性が大きいことをうかがわせる。
これに対し、邪馬台国を畿内とすると、「絹(縑など)」がとぼしい上に、「絳(茜)」についても、のちの時代においてさえ、大宰府から貢進される茜に依存する割合が高かったのであるから、昔から生産量がそれほどでもなかったことをうかがわせる。

このようにみてくると、桜井市の教育委員会は、ほとんど何の根拠ももたないようなことを思いこみ」、または、「コジツケ」によって結びつけて、マスコミ発表をしているようにみえる。
桜井市の教育委員会の方々は、絹を、ベニバナで染めたという文献的事例、考古学的遺物としての事例などを、具体的にあげてみて欲しい。すくなくとも、すでに示した茜(あかね)で絹を染めたという事例と同じていどにあげてみて欲しい。

世界的にみたばあい、何巻にもわたる大部の漢字の辞書には、つぎのようなものがある。(以下、この五つの辞書を「大辞書」とよぶ。また、巻数は索引が一巻をなしているばあい、その巻数も含む)

①『漢韓大辞典』(韓国・壇国大学校東京学研究所刊。全15巻)
②『漢語大詞典』(中国・漢語大詞典出版社刊。全23巻のもの、全13巻のもの、全3巻の縮刷本がある)
③『大漢和辞典』(日本・諸橋轍次著、大修館書店刊。全15巻)
④『中文大辞典』(台湾・中国文化研究所刊。全10巻)
⑤『漢語大字典』(中国・四川辞書出版社。四川省新華店刊。全9巻本と、全2巻の縮刷本とがある)

これらののうち①の『漢韓大辞典』と②『漢語大詞典』では、中国古典における使用例も豊富に示されている。
それらのなかに、「絳」を「ベニバナ」によって染めたものとする例は、一つもみられない。
いっぽう、「茜草(蒨)」で「絳」を染めるとは、たびたび記されている。
まず、「蒨」と「茜」とは同じであることは、さきの五つの「大辞書」のすべてが、そう記している。
『爾雅』の「蒨(茜)はもって絳を染めるべし」の文は、『漢語大詞典』をのぞく四つの「大辞書」が紹介している。
『文心雕竜(ちょうりゅう)』の「絳は蒨(茜)において生ず」の文は、『漢韓大辞典』『漢語大詞典』『漢語大字典』の三つが紹介している。『漢語大詞典』は「蒨は茜草のことで、根は絳色の染料にすべし」と記す。
また、五つの「大辞書」のすべてが、「紅」または「紅草」は、わが国の「おおけたで」であると記している。
「おおけたで」は、「タデ科」の植物で。淡紅色の花を咲かせる。

380-03

■ベニバナは、何に用いられたのか
「ベニバナ」は、かならず衣類を染めるために用いられたとはかぎらない。むしろ、はじめは、おもに、女性の化粧用のものなどであったのではないか。
「ベニバナ」は、女性の化粧用のべ二や顔料として用いられた。また、絵具や薬としてももちいられた。

コラム
『源氏物語』にでてくる「末摘花(すえつむはな)」--紅花(べにばな)と紅鼻(べにばな)--
ベニバナのことを、古語では、「末摘花」ともいった。380-04

紫式部の書いた『源氏名物語』のはじめのほうの巻六に、「末摘花」の巻がある。
この「末摘花」は、女性の名である。
主人公の光源氏は、さる女性の手引きで、「末摘花」という名の女性とあう。
一夜をともにすごす。昔のことで、明りがない。末摘花が、どのような顔をしているのかわからない。
あくる朝、末摘花を見る。鼻が驚くほど高く長い。鼻の先が垂れていて、赤い。
紫式部の筆によれば、その鼻は、「普賢菩薩(ふげんぼさつ)の乗り物」のようであったという。
「普賢菩薩の乗り物」といえば、白い象である。
『観普賢経』という文献によれば、その白象の鼻は「紅蓮華(べにれんげ)[赤いハスの花」の色のごとし」という。

平安時代の紫式部は、動物の象の実物を見たことは、ないはずである。
おそらくは、絵か、彫り物などを見たのであろう。
光源氏は、自分の御殿(ごてん)に帰る。
御殿には、将来、自分の正妻にする予定の紫(むらさき)の君(きみ)がいる。紫の君は、まだ、十歳ほどの少女である。
光源氏は、紫の君と、絵をかいて遊ぶ。

そのとき、光源氏は、自分の鼻に、紅(べに)をぬり、紫の君にみせる。
「私の顔が、こんなになったら、どうでしょう。」
紫の君は、「いみじく笑ひ給(たま)ふ。」
「うたてこそあらめ(いやだあ)。」
「紅花(べにばな)」と「紅鼻(べにばな)」とをかけた紫式部のユーモアである。
「末摘花」という女性の名も、「最後にえらぼれる女性」、「先(さき)っちょが赤い鼻」などの意味をもたせているようにみえる。

 

■出土数では奈良県は貧弱数字しかない
弥生(庄内期を含む)時代の出土数・出土地点について、全都道府県で、出土量トップを示した県とその項目を示すと下記なる。
(下図はクリックすると大きくなります)380-05

弥生時代の鉄の鏃の出土数は福岡県が一番多く398個、それに対し、奈良県は4個である。同じように鏡の数も30個に対し、3個である。これをグラフにしたものが下記である。
(下図はクリックすると大きくなります)
380-06

これをベイズの統計学で計算すると下記のようになる。

380-07

このように、福岡県と、奈良県では全く大きな差になっている。このように数字で表した議論をしなければならないが、畿内説は数字の話をしない。

2.年代論の検討

■直系相続の問題
笠井新也は、つぎのようにのべている。これは、世代数に対する疑間をのべたものである。
「わが国の古代における皇位継承の状態を観察すると、神武天皇から仁徳天皇にいたるまでの十六代の間は、ほとんど全部父から子へ、子から孫へと垂直的に継承されたことになっている。しかし、このようなことは、私の大いに疑問とするところである。なぜならば、わが国において史実が正確に記載し始められた仁徳以後の歴史、とくに奈良朝以前の時代においては、皇位は、多くのばあい、兄から弟へ、弟からつぎの弟へと、水平的に伝えられているからである。かの仁徳天皇の三皇子が、履中(りちゅう)・反正(はんぜい)・允恭(いんぎょう)と順次水平に皇位を伝え、継体天皇の三皇子が、安閑(あんかん)・宣化(せんか)・欽明(きんめい)と同じく水平に伝え、欽明天皇の三皇子・一皇女の四兄弟妹が、敏達(びたつ)・用明・崇悛(すしゅん)・推古と同じく水平に伝えたがごときは、その著しい例である。
したがって、この事実を基礎として考えるときは、仁徳天皇以前における継承が、単純に、ほとんど一直線に垂下したものとは、容易に信じがたいのである。380-08

山路愛山(やまじあいざん)は、その力作『日本国史草稿』において、このことに論及し、『直系の親子が縱の線のごとく相次いで世をうけるのは、中国式であって、古(いにしえ)の日本式ではない』。それは、『信ずべき歴史が日本に始った履中天皇以後の皇位継承の例を見ればすぐわかる』『仁徳天皇から天武天皇まで通計二十三例のあいだに、父から子、子から孫と三代のあいだ、直系で縦線に皇位の伝った中国式のものは一つもなく、たいてい同母の兄弟、時としては異母の兄弟のあいだに横線に伝って行く』『もし父子あいつづいて縦に世系の伝って行く中国式が古(いにしえ)の皇位継承の例ならば、信ずべき歴史が始ってからの二十三帝が、ことごとくその様式に従わないのは、誠に異常なことと言わなければならない。ゆえに私達は、信ずべき歴史の始まらないまえの諸帝も、やはり歴史後と同じく、多くは同母兄弟をもって皇位を継承してであろうと信ずる』と喝破(かっぱ)しているのは傾聴すべきである。」(「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命」『考古学雑誌』第十四巻、第七号、1924年「大正13年」4月、所収)
また、慶応大学の教授であった橋本増吉は、大著『東洋史上よりみたる日本上古史研究』(東洋文庫、1956年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「父子直系のばあいの一世平均年数が、ほぼ二十五、六年ないし三十年前後であることは、那珂博士の論じられたとおりであろうけれども、わが上代のおよその紀年を知るために必要なのは、父子直系の一世平均年数ではなく、歴代天皇のご在位年数なのであるから、那珂博士算出の平均一世年数をもって、ただちに上代の諸天皇の御在位平均年数として利用すべきでないことは、明白なところである。」
中国の文献の記す天皇の系図と、わが国の史書の記す系図とを、かなりなていど対照できるのは、『新唐書』である。
『新唐書』も、『宋書』『梁書』と同じく奏勅撰書であるが、『新唐書』の記す天皇の系譜は、誤りだらけといってよい。
『新唐書』は、「天智死して、子の天武立つ。」と記す。誤りである。天武天皇は、天智天皇の弟である。『新唐書』は、推古天皇を、「欽明の孫娘(まごむすめ)」と記す。誤りである。推古天皇は、欽明天皇の子である。
『新唐書』は、神功皇后を、開化天皇の「曾孫女(ひまごむすめ)」とする。誤りである。神功皇后は、開化天皇の五世の孫である。
『新唐書』は、文武天皇が死ぬと、「子の阿用立つ。」と記す。まったくの誤りである。文武天皇のつぎに立ったのは、天智天皇の子の元明天皇[名は、阿閉(あべ)]である。
『新唐書』は、元明天皇が死ぬと、「子の聖武立つ。」とある。誤りである。元明天皇のつぎは、「子の元正天皇」である。聖武天皇は、元明天皇の孫である。

さらに、つぎのような事例もある。
『三国志』の『魏志』の「三少帝紀」に、つぎのようなことが書かれている。
卑弥呼が外交関係をもった魏の明帝がなくなり、そのあと、斉王(せいおう)の芳(ほう)が、帝王の位につく。
そこに、つぎのような文がある。
「明帝は子がなかったため、斉王と秦(しん)王の詢(じゅん)とを養育していた。宮中の事がらは、秘密に属するから、だれも、彼らの経歴を知るものはなかった。」
ここには、はっきり、「明帝は子がなかった」「彼らの経歴を知るものはなかった」と記されている。
しかし、たとえば、『新編東洋史辞典』(東京創元社刊)の巻末に示されている「中国歴代世系表」に見られる系図では、斉王芳は、明帝の子である形になっている。なお、裴松之の注では、『魏志春秋』を引き、「(斉王芳は、)任城(じんじょう)王の曹楷(そうかい)の子であるという。」とある。曹楷は、明帝のいとこである。斉王芳は、明帝のいとこの子であることになる。明帝と曹楷のおじいさんは曹操で、おばあさんは、曹操の正夫人卞(べん)皇后である(『三国志』には、「曹楷」という名の人が、二人あらわれるが同名異人であることに留意)。明帝にとって、斉王芳は、心情的にはわが子に近いものであったかもしれない。しかし、直接血をわけた子ではない。
宮廷内でおきたことで、血縁関係がやや遠いばあい、その関係は、正確には、伝わりにくくなるとみられる。

たとえば、為政者である江戸幕府の将軍のばあいでも、五代将軍徳川綱吉が、家康を一代目として五代目であることは、(「五代将軍綱吉」といういい方をよくするので)すぐに答えられる人は多いであろう。しかし、家康から数えて、「何世目」であるかをたずねられれば、答えられない人が多くなるであろう(綱吉は、三代将軍家光の四男で、家康から数えて「三世目」)。
つまり「世数」は、「代数」にくらべ、情報が正確には、伝わりにくいとみられる。

 

■年代推定の構造上の問題
これは以前に話したが、重要なことなので再度話してみたい。
・パスカルの方法
まず、天照大御神の「実在性」「非実在性」について検討しよう。
ここでは、まず、「実在」「非実在」を、どのようにして決定すべきという問題の根本から問いなおす必要がでてくる。
そのためには、古代探求の方法の基礎から考えなければならない。
自然科学の発展とともに、科学方法論自体も、しだいに深くたずねられてきた。そして、どのような論理が学問にとって望ましい論理であるかということも、明らかになってきている。
そのような論理の基本的な基準は、すでに十七世紀に、フランスのパスカルが、その著『幾何学的精神』のなかでのべている。
パスカルの論理の基準については、埼玉大学の吉田洋一、立教大学の赤摂也(せきせつや)氏共著の『数学序説』(培風館刊)にきわめて要領よくまとめられている。以下、両氏の著書により、まずパスカルの規準を紹介しよう。
パスカルは、まず定義についての三つの規則をあげている。
(1)それよりもはっきりした用語がないくらい明らかなものは、それを定義しようとしないこと。
(2)いくぶんでも、不明もしくはあいまいなところのある用語は、定義しないままにしておかないこと。
(3)用語を定義するに際しては、完全に知られているか、または、既に説明されている言葉のみを用いること。

また、公理(議論の出発点、前提)について、二つの規則をあげている。
(1)必要な原理は、それがいかに明晰で明証的(論証や検証によらなくても、それじたいが、直接的に明らかで疑いえないもの)であっても、けっして承認されるか否かを、吟味しないままに残さないこと。
(2)それ自身で、完全に明証的なことがらのみを公理として要請すること。

さらに、論証について、三つの規則をあげている。
(1)それを証明するために、より明晰なものをさがしても無駄なほど、それだけで明証的なことがらは、これを論証しようとしないこと。
(2)すこしでも不明なところのある命題は、これを、ことごとく証明すること。そして、その証明にあたっては、きわめて明証的な公理、または、すでに承認せられたか、あるいは証明された命題のみを用いること。
(3)定義によって限定された用語のあいまいさによって誤らないために、つねに心の中に定義された名辞の代わりに、定義をおきかえてみること。

パスカルの方法をまとめれば、自明のものをのぞくすべての「言葉」を「定義」し、また、自明でないすべての「命題」を「証明」しつくすということになるであろう。

 

■現代の公理主義
パスカルの規準は、ギリシア人が幾何学を建設するのに用いた方法にほかならない。だからこそ、パスカルは、自分の書物を『幾何学的精神』と名づけたのである。
ところで、このような方法論は、自然科学のめざましい進展とともに、さらに洗練されてきている。
幾何学的精神の現代的な形式としては、「公理主義」がある。ある理論において、他の命題の前提となる基本命題の体系(公理系)を明らかにし、その公理系と、特定の類論規則とから、演繹的に理論をくみたてることを、公理的方法、または公理論という。ユークリッドの幾何学は、不完全ではあるにしても、その適例であると考えられる。またパスカルの方法は、公理主義の原初的な形といえよう。

現代の公理主義が、パスカルの説いた方法と異なる点は、主として「公理」についての考え方にある。パスカルにおいては、「公理」は「それ自身で完全に明証的なことがら」で、「万人に承認される明晰なことがら」でなければならないと考えられていた。ところが十九世紀のはじめに、「万人に承認される」とはいえない公理をもとにして、完全に無矛盾な非ユークリッド幾何学が建設されるにおよんで、この「公理」についての考え方は大きくゆらいだ。そしてドイツのヒルベルト(1862~1943)により、公理の考え方についての大転換が行なわれた。 一言でいえば、ヒルベルトは、「公理」はなんら自明の真理である必要はなく、たんに明確に定められた「仮定」で十分であるとしたのである。すなわち、いくつかの「仮定(公理)」をおき、そこから、形式的に結論をみちびいて、そこに矛盾を生じなければよいとしたのである。
ヒルベルトは、数学の基礎として、自分の考えをのべた。しかしその考え方は、やがて自然科学全体に、きわめて広汎な影響をおよぼすこととなった。
オーストリアに生まれ、のちアメリカにわたったルドルフ・カルナップ(Rudolf Carnap)[1891~1970]らは、この方法だけが科学的方法であり、すべての科学は公理論的に構成されるべきであるとして、「公理主義」をとなえた。さらにカルナップらは、それまで主として数学を基礎づける道具として発達してきた記号論理学を、広く諸科学を分析し基礎づける道具として用いることを説いた。

以上のべてきたことについて、いますこし補足をしておこう。
ポーランドに生まれ、アメリカに帰化し、意味論を提唱し、一般意味論研究所の所長となった論理学者、コージプスキー(1879~1950)は、ことばを二種類にわけた。すなわち、専門用語と非専門用語とである。
コージプスキーは、専門用語においては、たとえば、90℃とかH₂Oとか書けば、誤解なくコミュニケートできるが、そうでない非専門用語は、誤解をまねくことばであるとのべている。
90℃とかH₂Oとかにおいて、ことばの意味が一義的である。学問を進めるにあたっては、そこで用いられることばは、明確な定義によって限定され、可能なかぎり一義的であることが望ましい。このことは、パスカルの規則のなかにも含まれていることであるが、とくに重要なことであると私は考える。
科学のことばとして、しばしば数学や数理が用いられる。数学や数理は、意味や論理の展開が、一義的であるからである。

京都大学人文科学研究所の教授であり、西洋史学者であった会田雄次(あいだゆうじ)は、その著『合理主義』(講談社現代新書)のなかで、つぎのようにのべている。
「合理主義的なものの考え方をつきつめると、いっさいを量の変化において考え抜こうという精神です。」

 

■公理的方法についての私の立場
ここで、公理主義についての私の考えをのべておこう。
私は、「公理」は、たしかに「それ自身で完全に明証的なことがら」で、「万人に承認される明晰なことがら」でなければならないとは考えない。その意味では、パスカルよりも、ゆるやかな立場をとりたいと思う。
しかし、明確に定められた「仮定」であれば、どのようなものであってもよいとは思わない。あるていど、経験的事実や直感に合致したものが望ましいと考える。この点ヒルベルトほどゆるやかな立場はとらない。
ヒルベルトは、「テーブルと椅子とコップとを、点と直線と平面との代わりに使っても、やはり幾何学はできるはずだ」とのべたと伝えられている。

私が、「公理」は、あるていど、経験的事実や直感に合致したものが望ましい、と考えるのは、そのような立場の方が説得力があると考えるからであって、そのような立場をとらなければならないという論理上の根拠は存在しない。

十七世紀の末に、アイザックーニュートンは『プリンキピア』(原題『自然哲学数学的原理』)をあらわし、万有引力の法則をはじめて世に知らせた。これにより、天体の力学と地上の力学とは統一的に把握されることとなった。

『プリンキピア』は、ユークリッドの『ストイケイア』(幾何学言論)にならって書かれたものであった。

たとえば、ニュートンはその第1部で、「質量」や「運動量」などを定義したのち、公理をのべている。

【公理Ⅰ】
「すべての物体は、力が働かないかぎりは、静止しているものは、いつまでも静止し、一様な直線運動をしているものは、その運動をつづける。」

【公理Ⅱ】
「運動の変化は、作用する力に比例し、かつ力が働く方向に起こる。」

【公理Ⅲ】
「作用は、常に反作用に等しい。 いいかえると、二つの物体の相互間の作用は、つねに等しいが、方向は反対である。」

ニュートン力学の三法則も、ここで提唱されている。また、力の合成に関する「平行四辺形の公理」も、補足的に示されている。これらの公理から、力学の基本原理、たとえば「万有引力の法則」が演繹されている。

ユークリッドの幾何学とニュートンの力学とは、数学的なものと物理学的なものとして、現代では別々に把握されている。しかし、もともとは同質のものといえる。ともに、はじめに定義を示し、さまざまな定理・命題を導き出すという形をとっている。そして、導き出された定理・命題が、経験的事実と一致する。
すなわち、これらは、一つの論理的な整合性をもった理論体系であるとともに、日常の経験世界の忠実な記述でもある。
ユークリッド幾何学もニュートン力学も、ともに観察によって認識されうるようないくつかの「事実」的なものを公理とし、それらを出発点としたうえで、多くのことがらを説明したところに、その強みがあったといえる。ユークリッド幾何学が、非ユークリッド幾何学があらわれるまでの、およそ二千年の歳月に耐えることがで、ニュートン力学が、今世紀のはじめに量子論があらわれるまでの、二百年の歳月に耐えることができたのは、観察可能な「事実」的なものを基礎としていたことがあげられうるであろう。

私は、ユークリッドの『ストイケイア』やニュートンの『プリンキピア』は、経験科学のあるべき叙述の姿の、ある意味での典型をなしていると思うものである。

以上をまとめるならば、私は、わが国の古代の探求のために、基本的には、公理的方法にしたがう立場をとる。ただしこの公理は、「万人に承認される明晰なことがら」でなければならないとは考えないが、どのようなものであってもよいとはしない。ある程度、経験的な「事実」や直感に合致したものが望ましいとする。

また、用語は、可能なかぎり明確な定義により限定された一義的なものであることが望ましいとする。なお、「公理」の数は、できるだけ少なく、相互に独立のものが望ましいとする。

 

■私の邪馬台国論の論理構造
わが国の古代史全体を統一的、構造的に把握しようとするばあいには、私は、公理(仮説、仮定、前提、出発点)としてつぎの二つを設定したいと思う。

【公理I】
「『古事記』『日本書紀』に記されている天照大御神以下の五代、および諸天皇の代の数は、信じられるものとする。」(これは、代の数のことをのべているのであって、ある天皇と、つぎの天皇との関係は、親子関係であるとはかぎらない。)

【公理Ⅱ】
「西暦何年ごろに活躍していたか、実年代が不明の天照大御神以下の五代、および古い時代の諸天皇の活躍の時期は、活躍の時期がはっきりしている諸天皇の一代平均の在位年数をもとに、推定しうるものとする。

この二つの公理を設定するとき、つぎのようなことがらが、定理的に導出される。
(1)天照大御神は、卑弥呼とほぼ同時代の人となる。(そしてこの二人が、ともに女王的な存在で、宗教的な権威をもち、夫をもたなかったこと、天照大御神が、のちにわが国最大の政治勢力となった大和朝廷の系譜上の人物であること、などは、この二人が同一の人物であることを指向する。)

(2)神武天皇は、西暦280年~290年ごろの人となる。(このころからあとに、大和に古墳がおこり、刀剣、矛、鏃、鉄、鏡、玉などの分布の中心が、九州から大和に移っている。すなわち、記紀に記されている神武天皇の東征によって説明しうると思われる事実が存在する。)

(3)崇神天皇は、西暦350~360年前後の人となる。(奈良県天理市大字柳本に存在する崇神天皇の陵を、東大の考古学者、歴史学者である斉藤忠博士は、四世紀の中ごろ、またはそれをやや降るころのものとしておられる。)

そしてさらに(1)の「系」として、記紀によれば、天照大御神(卑弥呼)の活躍していた場所が、北九州であると考えられ、また大和朝廷が九州に興ったと考えられる少なからぬ根拠が存在するところから、
(1)邪馬台国は、北九州である。
ということがみちびかれる。

以上の議論は、【公理Ⅰ】【公理Ⅱ】をもうけ、そこから、統計学、確率論などの数学の論理をかけて、「定理」、あるいは「系」をみちびきだすという形をしている。

ヒルベルト的な公理設定の自由性をみとめる立場にたてば、【公理Ⅲ】として、「天照大御神=卑弥呼」をたてることも考えられる。そのほうが、全体の説明は簡単になるようにもみえる。

ただ、そのようにすると、【公理Ⅲ】の「天照大御神=卑弥呼」は、あるていど、【公理Ⅰ】と【公理Ⅱ】からみちびかれるので、【公理Ⅰ】【公理Ⅱ】【公理Ⅲ】の三つの公理における相互の独立性がやや失なわれる。
やはり、「卑弥呼=天照大御神」(正確には「卑弥呼のことが神話化し、伝承化したものが天照大御神」、あるいは「天照大御神伝承には、史実の核があるということ」)は、定理的なものと考えたほうがよいであろう。

さて、まえにものべたように、「天動説」も一つの仮説であり、「地動説」も一つの仮説である。どちらの説が妥当であるかは、どちらの説のほうが、多くの観測事実にあっているとみられるかによって決定される。
それと同じように、「天照大御神」を「実在性」をもった神と考えるのも、一つの仮説であり、「非実在」の神と考えるのも、また一つの仮説である。
どちらの説の方が妥当であるかは、古代の多くの諸事実を、よりうまく説明できるかによって決定される。
提出された「仮説系」は、「豊富性」をもっているものがよい。

これについては、東京大学の教授であった数学者、小平邦彦(こだいらくにひこ)が『数学のすすめ』(筑摩書房刊)のなかで、おもしろい例をあげている。
「碁盤の上に碁石を並べて行なうゲームに、五目並べがある。四目並べを考えれば、先手必勝でたちまち勝負がついてしまうので全然つまらない。六目並べにすると、いくら続けても永久に勝負かつかないので、やはりつまらない。すなわち、四目並べも六目並べも、五目並べほど面白くない」
仮説系は、ゲームの規則に相当する。仮説系が豊富であるということは、ゲームがおもしろいものであることを意味する。ある仮説を設けたならば、ひじょうにたくさんのことが説明できる、というようなことは、結局、新しい、おもしろいゲームを発見するのと同じである。しかし、そのような新しい、おもしろいゲームを発見するのは容易ではない。仮説系は単なる仮説であって、矛盾を含まないかぎりなんでもよい、とされている。しかし、ひじょうにたくさんのことを説明できるような仮説形を設定することは、きわめてむずかしい。仮説系の選択の自由は、実際上はそれほど多くはない。
そして、私は、「卑弥呼=天照大御神」仮説系が、「豊富性」をもち、おもしろい仮説系で、古代の多くの諸事実が、かなりよく、統一的、構造的、整合的に説明できることをのべようとしているのである。

もろもろの観測事実をうまく説明できる仮説は、妥当なものとみとめるべきである。
「仮説」の妥当性は、それじたいの「妥当性」の検討によって決定されるのではない。もろもろの観測諸事実を説明できることによって決定されるのである。
「卑弥呼=天照大御神」仮説は、現在の常識や、多数意見などに合致するか否かではなく、それが、どのような矛盾、不都合をもたらすかによって、たずねられなければならない。

 

■年代論における「類ハッブル定律現象」について----第378回参照

 

■父子継承の問題
学習研究社発行の『新世紀大辞典』の「天皇」の項には、「天皇の系図」が、じつに要領よくまとめられている。
前に示した 系図をみると、第一代神武(じんむ)天皇から第一六代仁徳(にんとく)天皇までのあいだでは、父から子に皇位を伝えるという形の継承が、いちじるしく多いことに気がつく。第一七代履中(りちゅう)天皇以後では、これほど多くの父子継承がつづく時代はない。
これらの系図は、『古事記』『日本書紀』によるものである。これら古代の父子関係の継承がつづく期間のなかには、崇神天皇、応神天皇、仁徳天皇など、今日多くの史家が、その存在をほぼみとめている天皇もふくまれている。したがって、天皇の存在、非存在の問題とは別に、この古代の父子継承の問題については、一応、ややくわしく検討してみる必要がある。

私は、基本的には、じっさいには父子関係にないものが、『古事記』『日本書紀』には、父子関係と記されていることがあると思うものである。
すなわち、じっさいは、兄弟あるいは甥(おい)などが、皇位を継承したにもかかわらず、それをまえの天皇の御子であると、記述されていることがあるであろうと考えるものである。
たとえば、徳川八代将軍吉宗は、紀州家からはいっている。しかし、明確な記録が残されていないばあいには、たんに、七代将軍家継のあとを継いだ将軍であるという事実のみが記されるであろう。そして、時がたつとともに、吉宗は、家継の子であるとするようなことがおこりうると思われる。
そのようなことが、日本の古代の天皇の皇位の継承を記述するさいにも、おきているであろうと、私は考える。
しかし、『古事記』『日本書紀』の、父から子へ皇位が継承されたとする記事に、私などよりも、信をおこうとする立場の方々も存在する(『日本紀年の研究』を書いた森清人、『倭日の国』をあらわされた藤芳義男氏など)。
そこで、なぜ私が、『古事記』『日本書紀』の父子継承の記事は、それほど信頼ができないであろうとするのか、その根拠を、以下に、ややくわしく述べてみよう。

 

■父子継承の率は時代をさかのぼるにつれて低くなる
系図の「天皇の系図」をみれば、江戸時代末期の、第119代光格(こうかく)天皇から、第122代明治天皇を経て、第124代今上天皇(当時昭和天皇)にいたる五代にわたって、父子継承がおこなわれている。
したがって、古代においても、このような、何代かにわたる父子継承がみられても、よさそうにも思われる。
しかし、現代の状況から、一足とびに古代の状況を推測するのは、かなり危険である。
そのことは、現代においては、それほどめずらしくない、天皇の二十年以上の在位が、五~八世紀ごろにおいては、かなりめずらしいものであったことなどからもうかがわれよう(今上天皇の在位年数六十三年は、わが国の、確実に知られている歴史上、最大のものである。これまでは、明治の四十五年が、最大であった。私たちは、現在、わが国の長い歴史上でみるとき、はじまったばかりの、かなり特殊な時代に位置している)。

古代の状況をより確実に椎測するためには、時代によって、平均在位年数がどう変わっているか、時代によって父子継承の率がどう変わっているかなどの、全体的な「傾向」あるいは「趨勢(すうせい)」をみることが必要である。

さて、五~八世紀、九~十二世紀、十三~十六世紀、十七~二十世紀の各時代ごとに、父子継承の率を計算すれば、下図のようになる。下図はつぎのようなことを意味する。380-09

たとえば、十七~二十世紀においては、十六人の天皇が即位しており、そのうち、自分の子に皇位をゆずった天皇は十人である。その父子継承率は、62.5パーセント(10/16×100)となる。
図には、参考までに、『古事記』『日本書紀』による第一代神武天皇から、第一六代仁徳天皇までの父子継承率も記しておいた。

図をみると、即位、退位の時期がはっきりしている第三一代用明天皇以後の時代においては、父子継承率は、時代をさかのぼるにつれ、低くなる傾向が、かなりはっきりとみとめられる。
これにたいし、第一代神武天皇から、第一六代仁徳天皇にいたる十六代の天皇のうち、十五代までが、その子に皇位をゆずっているとする『古事記』『日本書紀』の記事にしたがうとき、その父子継承率は、93.8パーセント(15/16×100)にも達する。

(1)このように高い父子継承率は、時代をさかのぼるにつれ、父子継承率が低くなるという全体的・傾向」とはてきり相反する。

(2)父子継承率がもっとも高い、17~20世紀においてさえ、その父子継承率は、62.5パーセントである。93.8パーセントという値は、異常に高い。

したがって、『古事記』『日本書紀』のこのような記事は、かなり、信頼がおきがたいように思われる。『古事記』『日本書紀』の記事を信用するばあいには、なぜ、上古において、このように高い父子継承率がみられるのか、その理由が、特別に説明されなければならない。

上代になるにしたがい、父子継承率が低くなる原因としては、つぎのようなことが考えられよう。
(1)おもに生物学的な原因
上代においては、平均寿命が短めであると思われる。したがって、父帝が没したとき、皇子たちが、皇位につくのにふさわしくないほど幼いばあいもあるであろう。そのようなばあい、兄弟による継承などがおこなわれうるであろう。

(2)おもに政治的な原因
現代に近づくにつれ、天皇は、直接的な政治権力からはなれていった。すなわち、政権担当者というよりも、ふつうの家系の当主という位置に近づいていった。ふつうの家系では、父から子へという継承が一般的であるが、責任をともなう政権の担当は、天皇一族のなかで、その位置にふさわしい人によっておこなわれるという傾向がある。

 

■確率的にはきわめておきにくいことがら
さて、図によるとき、即位、退位の時期がはっきりしている第三一代用明天皇以後、現代まで全体の、父子継承率は、45.9パーセントである。
『古事記』『日本書紀』は、たとえば、第一代神武天皇から、第一〇代崇神天皇まで、すべて、父子継承であるように記している。このように、十代つづけて父子継承がつづいた例は、確実な歴史時代にはいってからは存在しない。
いま、さきの45.9パーセントを、一般的な父子継承率であるとするならば、十代つづけて父子継承のおきる確率は、0.459の10乗で、0.000415となる(0.459↑10=0.000415)。
すなわち、そのようなことがおきる確率は、千回に一回以下である。
私は、確実な歴史時代にはいってからは、おきなかったようなことがら、あるいは、歴史時代にはいってからの全体的な「傾向」からは読みとれないようなことがらが、とくに古代においてである。そのような仮説をみとめると、どのように不自然な議論も、みとめなければならないことになり、議論の客観性が、たもてなくなるからである。

このようなことから、私は、やはり、『古事記』『日本書紀』の古代の父子継承記事は、信頼しがたいと判断するものである。
なお、さきのような確率計算をおこなうことは、『古事記』『日本書紀』に記されている神武天皇以下何代かの天皇の父子継承率と、歴史的に確かな時代における父子継承率との、推計学的な有意性の検定をおこなうことに等しい。
じじつ、『古事記』『日本書紀』による神武天皇から仁徳天皇までにいたる十六代の父子継承率93.8パーセントと、用明天皇以後の父子継承率45.9パーセントとを比較すれば、1パーセント水準で有意差がみとめられる。

 

■皇子出生率も高すぎる
古代の父子継承記事が、信頼しがたいと思われる理由は、以上述べたことのほかにも、いくつかあげることができる。あと二つほど、その理由をあげておこう。(後略)

3.出雲神話と邪馬台国

伊邪那岐の命のおとずれた黄泉(よみ)の国とは?
-黄泉の国とは、横穴式石室の内部なのか、喪屋のなかなのか、あるいは、洞窟のなかなのか-
■『古事記』『日本書紀』の記述
『古事記』『日本書紀』には、伊邪那岐の命(いざなぎのみこと)[伊弉諾の尊]が、死んだ妻の伊邪那美の命(いざなみのみこと)[伊弉冉の尊]を追って、黄泉の国を訪れる話がのっている。
まず、『古事記』には、つぎのように記されている。

「ここに、伊邪那岐の命は、その妻の伊邪那美の命にあいたいと思って、黄泉(よみ)の国に追っていった。伊邪那美の命が殿の騰戸(あげど)[縢戸(くみど)(さしど、とざしど、ちぎりど)とするテキストもある]から出てむかえた。
伊邪那岐の命がいう。
『いとしい私の妻よ。私とお前とで作った国は、まだ作りおえていない。帰ってきて欲しい。』
伊邪那美の命が答えていう。
『もっとはやく来ていただけなくて、残念だわ。私は、黄泉戸喫(よもつへぐい)[黄泉の国で煮たきしたものをたべること]をしてしまったの。だけど、いとしいあなたが、おいでになったのですから、かえりたいと思います。しばらく黄泉の神と議論いたしましょう。私をみないで下さい。』

こう言って、その殿のうちにかえり入った。伊邪那岐の命は、大変長いあいだ待った。しかし、待ちかねて、左のみずらに剌していた湯津津間櫛(ゆつつまぐし)[神聖な櫛]の男柱(おばしら)[櫛の両端の太い部分。古代の櫛は、爪形のたて長の櫛で、男柱は長い]をひとつ取り欠いて、一つ火をともして、入って見たところ、蛆(うじ)が寄り集って音をたててうごめき、頭(かしら)には大雷がおり、胸には火雷(ほのいかずち)がおり、腹には黒雷がおり、陰(ほと)には柝雷(さきいかずち)がおり、左の手には若雷(わかいかずち)がおり、右の手には土雷(つちいかずち)がおり、左の足には鳴雷(なりいかずち)がおり、右の足には伏雷(ふしいかずち)がおり、あわせて八種(やくさ)の雷神(いかずちがみ)がいた。」380-10

伊邪那岐の命は、驚きおそれて逃げかえった。
                          
はじをかかされた伊邪那美の命は、はじめ、泉津醜女(よもつしこめ)に追わせるが、ついには、自分で追ってきた。

伊邪那岐の命は、黄泉の国と現世とのさかいの黄泉比良坂(よもつひらさか)に、千引(ちびき)の岩(いわ)[千人で引くほどの大きな岩]をおき、伊邪那美の命に、事戸(ことど)[夫婦のなかを絶つことば]を言いわたした、という。
『日本書紀』にも、ほぼ同じ話が記されているが、一書に、
「伊弉諾の尊(いざなぎのみこと)は、その妻にあおうとして、殯歛(もがり)のところに行った。」
とある。

平安時代の初期にできた『旧事本紀』には、
「伊弉諾の尊は、その妻伊弉冉の尊(いざなみのみこと)にあいたく思って、黄泉の国に追っていった。すなわち殯歛(もがり)のところにいたった」[「陰陽(めお)本紀」]とある。

この説話の要点をまとめると、つぎのようになる。
(1)伊邪那岐の命が、黄泉の国をおとずれた。
(2)伊邪那美の命は、殿の騰戸(あげど)からでてきた。
(3)内部は暗いので、櫛の男柱をとって、一つ火をともした。
(4)伊邪那美の命に、蛆が寄り集まり、うごめいていた。
(5)伊邪那岐の命は、伊邪那美の命のつかわした醜女(しこめ)たちや、伊邪那美の命じしんによって追いかけられた。
(6)最後に、伊邪那岐の命は、千引の岩で黄泉比良坂を引きふさいで、夫婦のなかを絶つことばを言いわたした。
(7)伊弉諾の尊は、妻にあおうとして、殯歛(もがり)のところに行った、としている文献がある。

この、黄泉の国訪問の話は、なにを意味するかについてのおもな説は、つぎの三つがある。
(1)横穴式石室をおとずれたことをさす、とする説(高橋健自、後藤守一らの説)。
(2)喪屋のなかを見たことをさす、とする説(斎藤忠氏の説)。
(3)洞窟をおとずれたことをさす、とする説(森浩一氏の説)。
  この三つの説を、いますこしくわしくみてみよう。

 

■高橋健自、後藤守一らの横穴式石室説
考古学の立場から、伊邪那岐の命の黄泉の国訪問の話を、最初にとりあげたのは、高橋健自(1871~1929)であった。
高橋健自は、明治・大正期の考古学者である。東京高師(のちの東京教育大、現在の筑波大)を卒業後、東京帝室博物館の鑑査官歴史部次長、歴史部長などを歴任した。また、考古学会を主宰し、当時は、学界をリードする存在であった。

高橋健自は、1914年(大正3)に、「喜田(貞吉)博士の上古の陵墓を読む」(『考古学雑誌』四~七)という論文を発表した。
高橋健自は、その論文のなかで、伊邪那岐の命の黄泉の国訪問の話は、横穴式石室についての描写であろうとした。

高橋健自は、およそ、つぎのようにのべる。
「……人の屍体が暗いところに横たわっているのを、点火によってその惨憺(さんたん)たる腐爛状態を認め、潔癖な日本人の常としてたまらなくなって逃げ出すという状を表わしたもので、その屍体の横たわってあった暗いところは言うまでもなく古墳の内部で、しかも出入りすることができ、口を大磐石をもって閉鎖するという構造は、まさに横穴式石槨に相当する。逃げ出す。追いかける。やっとある場所に達するという、時間および空間の観念は、竪穴式石槨には、どうしてもあてはまらない。玄室の奥から羨道(せんどう)[通路部分]の口まで水平的距離があってこそ、この伝説が成立する。」
現在、横穴式石室は、竪穴式石室よりも、後出のものとされている。しかし、高橋健自が、その論文を発表したところは、竪穴式石室と横穴式石室との前後関係は、定説を得ていなかった。高橋健自は、横穴式石室は、神話にあらわれている以上、古いものであると考え、横穴式石室は、竪穴式石室よりも古いとした。
しかし、その後、竪穴式石室よりも、横穴式石室のほうが新しいことがあきらかになった。

横穴式石室が、竪穴式石室よりも新しいことをうけいれたうえで、高橋健自の説を踏襲し、黄泉の国訪問の話は、横穴式石室についての描写であろうとしたのは、後藤守一(しゅいち)である。
後藤守一(1880~1960)は、明治・大正・昭和にわたって活躍した考古学者である。東京高師を卒業後、東京帝室博物館に入り、鑑査官をつとめたのち、明治大学の教授となり、明治大学の考古学研究室の基礎をつくった。とくに、静岡市の登呂遺跡の発掘を指導したことは、よくしられている。
この後藤守一に、「古事記に見えた生活文化」(『古事記大成』第四巻所収、平凡社、1956年刊)という論文がある。
この論文のなかで、後藤守一は、伊邪那岐の命が、伊邪那美の命を、黄泉の国にたずねたという説話ができあがったのは、西暦六、七世紀のことであろうとする。
横穴式石室では、石棺や木棺などの、遺骸をおさめた棺は、壁を石で築いたかなり広い室のなかに安置されている。その石室に入って行く道(羨道)は、トンネルのように横にほられている。
横穴式石室の行なわれるまえの四世紀代は、竪穴式石室が行なわれていた。
竪穴式石室の中は狭い。わずかに、棺をおさめうるだけの広さがある。つまり、棺の周辺に石の璧を築いて棺をまもる。羨道はなく、棺を納めると、上からふたをする。
後藤守一は、伊邪那岐の命の黄泉の国訪問の話は、横穴式石室のなかに入りこみ、棺のなかにねむる愛妻の死骸の腐乱して行く物凄い姿をのぞきみて、そのトンネル状の出入口(羨道)を逃げ帰ったと解釈するのが、一番穏当であるとする。
したがって、この説話が形をなしたのは、横穴式石室の築造が盛行していた時代のことであろうとする。
そして、その話を、神代のことであるとして、すこしの躊躇もしていないのであるから、『古事記』の話が体をなすようになったのは、横穴式石室が盛んに行なわれていた西暦六、七世紀のことであろう、とする。

 

■斎藤忠氏の横穴式石室説批判
高橋健自や、後藤守一らの説は、一時は、黄泉の国訪問の話の解釈として、もっとも有力なものとみなされていた。
しかし、『日本書紀』の一書や、『旧事本紀』などは、「伊弉諾の尊は、その妻にあおうとして、殯歛(もがり)のところにいった。」と記している。
このような点などから、黄泉の国訪問の描写を、横穴式石室のこととする説に、疑問を呈したのは、斎藤忠氏であった。
東京大学の教授であった考古学者の斎藤忠氏(1908~)は、黄泉の国訪問の話は、遺骸をかりに安置した喪屋をあらわすとする(『古典と考古学』学生社、1988年刊)。

斎藤忠氏は、まず。高橋健自らの、黄泉の国は、横穴式石室を反映しているとする説の根拠を、つぎの四点に整理する。
(1)遺骸の腐爛状態を示す表現は、横穴式石室の玄室内に遺骸を安置した状態を示している。
(2)「一つ火」を燃やして見たというのは、玄室内の暗い内部にふさわしい。
(3)伊邪那岐の命が、醜女(しこめ)たちや、伊邪那美の命に追われた状景は、横穴式石室の長い羨道を思わせる。
(4)黄泉平坂にいたり、千引の岩をさかいとして対話したという神話は、横穴式石室の。羨道を閉塞する石を反映しているとみられる。

つぎに、斎藤忠氏は、この一つ一つの根拠を、あらためて検討し、この説話は、かならずしも、横穴式石室を反映しているとのみはいえないとする。
すなわち、つぎのとおりである。

(A)さきの(1)の腐爛状態を示す遺骸は、喪屋の内部とみることも可能である。
喪屋は、遺骸をかりに安置し、そこで「もがり」の儀式を行なったものである。
『魏志倭人伝』 のなかに、
「はじめ死するや、停喪(『喪』には、『なきがら』『ひつぎ』の意味がある。『停葬』は、『なきがら』『ひつぎ』をとどめ、最後の埋葬をしない状態にしておくこと)十余日」という記事がある。この記事は、弥生時代に、「もがり」の風習があったことを示している。『古事記』『日本書紀』に、天の若彦が死んださい、「喪屋を造りて、日八日夜八夜(ひやかよやか)遊びき」とある神話も、古代における喪屋と、喪葬のさいに、歌舞の行動があったことを語っている。大化二年(646)の詔のなかに、「およそ王以下庶民にいたるまで、殯(もがり)を営(つく)ること得ざれ」とあるのも、そのころ、殯、すなわち、もがりの行為を禁止させたものであろう。「もがり」の諸行為、たとえば、歌舞とか供膳とか燎火(かどび)を燃やすとかがなされたのは、死を確認するまでは、墓にほうむることをやめたためであり、あわせて、鎮魂的な意図も含まれ、複雑なものがあったと思われるが。日本の原始・古代の社会にあって、葬制上の重要な行為であった。この喪屋の内部に、遺骸を安置したとき、遺骸が、ある期間をへて蛆(うじ)がわき、どろどろした状態になったこともありうる。

(B)さきの(2)の、「一つ火」を燃やして見たことは、遺骸を安置した内部の、暗い状態を示すものであるが、このような暗い内部は、かならずしも、横穴式石室の内部にかぎらない。喪屋は、小さな簡粗な建物であったろうが、それには、出入口があるとともに密閉されており、しかも、布帛の類でおおわれていたことも考えられる。したがって「一つ火」を燃やして見るような状態にあったものとみなされ、喪屋の内部とすることも、不自然ではない。

(C)さきの(3)の、伊邪那岐の命が追われたという箇所も、伊邪那岐の命は、その途中、櫛や桃の実などを投げ、難をのがれたという内容で、神話を興味深く潤色している。これが、横穴式石室のながい羨道の光景あらわしているという根拠にはならない。

(D)さきの(4)の、千引の岩は、巨大な磐石を思わせる。古代において、この種のものに、呪力が内容されるとし、巨巌崇拝の思想が発達していることは明らかである。千引の岩は、このような思想のもとに、死者の住む汚穢(おわい)の国である黄泉の国と、現国(うつしくに)とを。呪的にさえぎることのできた磐石であって、これが、この坤話のなかに反映されているのである。ことに、遺跡の実際からみると、横穴式石室の入口にせよ閉塞の石材に用いられたとしても、それは、千引の岩というような表現の自然の大磐石ではなく、板石のようなものや、あるいは、石塊を充填させたにすぎない。この千引の岩をもって横穴式石室の閉塞石とする考えは、少し無理なこじつけのようなところがある。むしろ、邪をさける呪性を含む大磐石をもって、黄泉平坂という黄泉の国の境界をへだてたのである。

 

■斎藤忠氏の喪屋説
斎藤忠氏は、さらに、黄泉の国訪問の説話は、横穴式石室を反映していると考えるよりも、喪屋を反映していると考えるほうが、より適切とみられる根拠をあげる。すなわち、つぎのとおりである。

(1)横穴式石室よりも、喪屋のほうが、遺骸をのぞきみる機会がしばしばあったとみられる。遺骸を最終的に安置し、入口を閉塞した横穴式石室に、その後近親の人びとが、閉塞石を開いて入るという機会は、かならずしも度重なったものではなかったにちがいない。遺骸を安置した内部は汚れに満ちており、いったんはいった近親者は、外にでて汚れを払うことにも、容易ならないものがあったであろう。したがって、この機会は、追葬などのばあいに多く、供膳の儀式などは、内部でなく、入口の外においてなされたであろう。これにくらべて、喪屋の内部をのぞき見ることは、喪屋が、本来死の確認ということに根本の意味がある以上、頻繁になされたと思われる。この点、「蛆たかれとろろきて」という遺骸に接する機会は、むしろ喪屋に多く、喪屋であってこそ、このような神話の発生に都合がよかったのである。
ここで、参考になるのは、伊波普猷(いはふゆう)(1876~1947。沖縄民俗学者)が、「南島古代の葬儀」(『民族』二~五、六、1927年刊)のなかで、沖永良部(おきのえらぶ)島の葬儀に関し、1877年(明治10)9月21日に、鹿児島県庁が、つぎのような諭達を出しているむねを紹介していることである。(以下、安本が現代語に訳してみた)。

「死人の葬式の儀は、随意に任されているが、まず、地(土)葬・火葬の二つがある。この島では、近年、神葬式に改めている。以来、地葬すべきは当然であるが、あるところでは、その棺を墓所に送り、モヤととなえる小屋内に備えておき、親子兄弟などが、このモヤに到り、その棺を開いて見ること数回、ついに数日をへ、屍が腐敗しても、臭気をいとわずおもむくときく。これは、人情が厚いのに似ているが、 その臭気をかぐものは、はなはだ健康を害する。また、近所を通行するものも、その臭気に触れれば、病気を伝染し、あるいは、一種の病気を醸(かも)すものである。衛生上はなはだよろしくない。今後このような弊習は、かならず改め、死んだものは、すみやかに埋葬すべきである。云々。諭達する。」
この諭達は、腐敗し、臭気が発生しているにもかかわらず、喪屋内の遺骸をのぞいていた慣習のあったことを示している。なお、『古事記』『日本書紀』に記されている「殿内」とか、「殿(との)の縢戸(ちぎりど)」も、横穴式石室よりも、喪屋であることによってはじめて理解される名称である。「殿の縢戸」は、「殿の騰戸(あがりど)」とみる解釈がある。昇り降りするところの、あがり戸であるとすれば、高床とみなされる喪屋の建築上の一形式をたくみに表現しているとみることができる。

(2)『日本書紀』の一書などは、「殯歛(もがり)のところ」と、明確に記している。これは、喪屋そのものをあらわしている。伊邪那美の命の遺骸のあった場所を、もがりの場とする伝承の一部も、『日本書紀』の編纂のときに、残されていたもののようである。
このように考えるとき、この神話は、高橋健自以来、横穴式石室を反映しているとする考えに定着されている傾向があるが、なお再考すべきである。むしろ、喪屋の内部の状態を反映しているとすべきである。

このような考えが正しいとすれば、この神話が、横穴式石室の発達した五、六世紀以降に成立したとする説も、首肯されにくくなる。喪屋の慣習が古くから行なわれていた以上、もっと古くから、すくなくともその原型は存在していたとみとめるべきである。

なお、『日本書紀』や『旧事本紀』では、「もがり」に、「殯歛」という文字を用いている。
「葬」には、「襲(しゅう)」(死者に左前の上着をきせる)、「歛(れん)」(棺におさめる)、「殯(ひん)」(その棺を式殿に安置する)という順序がある。それを経て墓穴に埋める。
したがって、「殯歛」は、棺におさめて、式殿に安置されており、墓穴に埋められていない状態をさす。

なお、『日本書紀』の、天の稚彦(あめのわかひこ)の死をのべた条に、「喪屋(もや)をつくりて殯(もがり)す」とある。

 

■私の喪屋説
私は斎藤忠氏の喪屋説に、基本的には賛成である。ただし、「殿(との)の騰戸(あげど)」は、高床式の喪屋の戸ではなく、竪穴式の喪屋の戸であると考える。
このことについては、このシリーズのなかの一冊の『古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎』のなかで、ややくわしく検討した。ここでは、その要点のみを記しておく。

奈良県北葛城郡河合町の佐味田(さみた)宝塚古墳から出土した有名な「家屋文鏡」に、上のような絵が書かれている。380-11

この絵は、竪穴式の建物の絵である[『古事記』などにあらわれる室屋(むろや)か]。竪穴式の建物では、地表から数十センチ垂直に掘りくぼめて、床面をもうけ、その上に屋根をつくる。
したがって、この竪穴式住居から外に出るときは、下から上におしひらく「上げ戸」を用いる。
「家屋文鏡」の絵には、「上げ戸」を開き、そこにつっかい棒をしている状況が描かれている。
中部工業大学の建築史家、池浩三(いけこうぞう)氏は、その著『家屋文鏡の世界』(1982年、相模書房刊)のなかで、「家屋文鏡」の竪穴式建物の絵について、「建物の左手には入口の戸を押し上げているような状況を描き」と記している。

吉野ヶ里遺跡の竪穴式住居などの戸も、このような形で復元されている。
「家屋文鏡」の竪穴式の建物は、長い柄(え)の蓋(きぬがさ)か菅蓋(すげがさ)がさしかけられていること、二本の短い柱に横木を渡した門か鳥居のようなものが描かれていること、屋根の左右に千木(ちぎ)のようなものが描かれていること、などから、一般庶民の家ではなく、身分の高い人の住む家であることをうかがわせる。
「家屋文鏡」の絵のように、喪屋(もや)が、竪穴式の建物にもうけられていたばあい、そこからは、「上げ戸(騰口)をあげて出てくるのである。
『日本国語大辞典』(小学館刊)は、「あげど(揚戸)」について、つぎのように説明している。
「上部が蝶番などで取りつけてあり、上の方に釣りあげるようにして開く戸。」
なお、「自殿騰戸出向」は、つぎの二つの読みがなりたつであろう。
(1)「殿の騰戸(あげど)より出で向ふ。」
(2)「殿より、戸を騰(あ)げ、出で向ふ。」

 

■「騰戸(あげど)」か「縢戸(ちぎりど)」か 森浩一氏の洞窟説(講演資料で省略)

まとめ
以上、伊邪那岐の命が訪れた黄泉の国についてのいくつかの説を整理して紹介した。
神話は、さまざまな解釈がなりたつ。
しかし、私は、斎藤忠氏の述べる喪屋説が、もっとも穏当であろうと考える。
その理由は、つぎのとおりである。
(1)『日本書紀』に、「殯歛(もがり)のところ」と、明確に記されている。これは、墓にほうむられたあとの状態を記しているのではない。そのまえの、棺におさめ安置されている状態を記しているとみられる。

(2)『古事記』『日本書紀』を、成心をもって読むのではなく、すなおに読むかぎり、四世紀や五世紀などよりも、もっとまえのこととして、記されているはずである。

 

■停喪十日---喪(も)を停(とど)むること十日(とをか)
『魏志倭人伝』の「停喪十日」を、『新訂・魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』[石原道博編訳、岩波文庫。(以下、『魏志倭人伝、他』岩波文庫、と略す)]は、「喪に服するのを停めて仕事にしたがうこと十余日」(81ページ)と訳している。これは、誤訳というべきものである。誤訳とみられることについては、すでに、『季刊邪馬台国』25号の、板野建爾氏の「白鳥・内藤卑弥呼論争起源疑」のなかでものべられている。
藤堂明保の『倭国伝』(学習研究社刊)には、
「喪(なきがら)を停(とど)むること十余日」
と訳されている。これが正しい。「喪」には、「なきがら」「ひつぎ」の意味がある。「停喪」は、「かりもがり(死んだ人、あるいは、ひつぎを、喪屋においてとぶらうこと)をいっているのである。
だからこそ、『魏志倭人伝』では、この文のあとに、「(その)時に当りては、肉をくらわず、喪主(そうしゅ)は哭泣(こくきゅう)すれど、他人は就(つ)きて(そばにいて)歌舞飲酒す。」「已(すで)に葬れば、家を挙(こぞ)りて水中に詣(いた)りて澡浴(そうよく)し、もって練沐(れんもく)の如くにす。」とつづくのである。

岩波文庫本のように解釈すると、「仕事にしたがいながら哭泣し」、「他人は就(つ)いて歌舞飲酒す。」ということになってしまう。
また、「かりもがり」を行なったあと、「已(すで)に葬ったならば、みそぎをして身を清める」のは、文脈として自然である。
けがれたままで「仕事にしたがい」、そのあと葬るというのは、不自然である。

養老令(よろうりょう)[「令」は、おもに行政法]の註釈書『令義解(りょうのぎげ)』の「喪葬令(そうそうりょう)」の昌頭に、つぎのようにある。
「喪(そう)は、死屍の称なり。葬は蔵(おさ)むるなり(喪者。死屍称也。葬者。蔵也)。」
ここでも「喪」は「屍」のことであるとされている。
「喪屋」なども、本葬(屍を墓に蔵めること)までのあいだ、なきがらを置いておく屋という意昧とみられる。

『日本書紀』をみてみよう。
「采女大海(うねのおおしあま)、小弓宿禰(こゆみのすくね)の喪(も)に従(よ)りて、日本(やまと)に到来(まうけ)り。」(「雄略天皇紀」『日本書紀上』483ぺージ)
これは、妻の采女大海が、夫の小弓の宿禰の遺骸にしたがって、朝鮮半島から日本に帰ったことをいっている。

「皇太子(ひつぎのみこ)[中大兄(なかのおおえ)の皇子、(斉明)天皇の喪(みも)を奉徒(ゐまつ)る。」
「天皇(すめらみこと)の喪(みも)、帰(かへ)りて海に就(ゆ)く。」
これらも、「遺骸」、あるいは、「ひつぎ」のことをのべているのである。

諸橋轍次氏の『大漢和辞典』(大修館書店刊)の「喪」の項を引けば、つぎのような意味ものっている。
「ひつぎ。〔『広韻』〕喪は、喪器なり。いま、これを柩(ひつぎ)という。〔『礼記』、曲礼上〕喪を送るに、径(みち)に由(よ)らず。」

『日本書紀』の「孝徳天皇紀」の薄葬令(はくそうれい)のなかに、「庶民(おおみたから)亡(し)なむ時には、地(つち)に収(おさ)め埋(うづ)めよ。一日も停(とど)むること莫(な)かれ。殯(もがりや)営(つく)ること得(え)ざれ。」とのべられている。これは、「停喪(ていそう)[しかばねをととめること)]を一日もするなとのべているのである。

日本語の古語辞典の「喪(も)」の頃に、「しかばね」「なきがら」「ひつぎ」の意味がのっていないのは、不十分といえる。

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