Ⅰ 崇神天皇陵古墳の被葬者
現在、奈良県天理市柳本町字アンドに、崇神天皇陵(墳丘全長242メートル)とされている古墳がある。
この崇神天皇陵古墳について、東京大学の考古学者、斎藤忠氏は、つぎのようにのべている。
「今日、この古墳の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することを考えてよい。」
「崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇神天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える……」(以上、斎藤忠「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)
また、考古学者の森浩一氏・大塚初重氏も、「四世紀の中ごろ、または、それをやや降るころのもの。」とされている(『シンポジウム 古墳時代の考古学』学生社刊)。
文献学的、統計学的な崇神天皇の推定活躍年代と、考古学的な崇神天皇陵古墳の築造推定年代とが、ほぼ正確に合致している。
なお、当時は、寿陵(じゅりょう)、つまり天皇の墓を生前につくっておくことも、行なわれていたとみられる。天皇陵は天皇の没後につくられるとはかぎらない。
崇神天皇陵古墳には、崇神天皇が葬られているとみて、問題がないようにみえる。
しかし、問題が、まったくないわけではない。
崇神天皇陵について、『陵墓要覧』や『延喜式』に書かれている。
・[『陵墓要覧』宮内省(1915年)大正四年]
【10】崇神天皇 山辺道勾岡上陵(ヤマノベノミチノマガリヲカノヘノミササギ)
山辺 奈良県磯城(シキ)郡柳本村大字柳本字アンドウ
陵 前方後円、周囲 堀、土手、カラタチ生垣、陪冢
そして、『延喜式』では崇神天皇も景行天皇も同じ山辺(やまのへ)の道(みち)の上(へ)の陵(みさざき)として、同じ大きさとしている。
・[『延喜式』(927年成立)]
【13】山辺(やまのへ)の道(みち)の上(へ)の陵(みさざき)
磯城(しき)の瑞籬(みつかき)の宮(みや)に御宇(あめのしたしろしめ)しし[第十代]崇神(しうしん)天皇。大和(やまと)の国城上(しきのかみ)郡にあり。
兆域東西二町、南北二町。守戸一姻。
【15】山辺(やまのへ)の道(みち)の上(へ)の陵(みさざき)
纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮(みや)に御宇(あめのしたしろしめ)しし[第十二代]景行(けいかう)天皇。
大和(やまと)の国城上(しきのかみ)郡にあり。
兆域東西二町、南北二町。陵戸一姻。
■江戸時代には、崇神陵と景行陵とが、逆に考えられていたことがあった
崇神天皇陵について、『古事記』『日本書紀』は、つぎのように記す。
「御陵(みはか)は山辺(やまのべ)の道(みち)の勾(まがり)の岡の上にあり。」(『古事記』)
「山辺(やまのへ)の道(みち)の上(へ)の陵(みさざき)に葬(はぶ)りまつる。」(『日本書紀』)
現在、崇神天皇陵古墳は、たしかに、奈良県の山辺(やまのべ)の道のほとりの、岡のうえにある。自然の丘陵地形をよく利用してつくられている。
現在の崇神天皇陵古墳の存在する場所は、『古事記』『日本書紀』の記述とよくあっている。
しかし、江戸時代には、現在の崇神天皇陵古墳[行燈(あんどん)山古墳、ニサンザイ古墳ともいう。ニサンザイは、ミサザキがなまったものとみられる]が「景行天皇陵」とされ、現在の景行天皇陵古墳[渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳]が「崇神天皇陵」とされたことがあった。
つまり、崇神天皇陵と景行天皇陵とが、いれかえて認識されていたことがあった。
景行天皇陵について、『古事記』『日本書紀』は、つぎのように記す。
「御陵(みはか)は山辺(やまのべ)の道の上にあり。」(『古事記』)
「大足彦天皇(おおたらしひこのすめらみこと)[景行天皇]を倭国(やまとのくに)の山辺(やまのへ)の道(みち)の上(へ)の陵(みさざき)に葬(はぶ)りまつる。」(『日本書紀』)
つまり、文献上は崇神天皇陵についての記述も、景行天皇陵についての記述も、ほとんど同じであって、区別がつかない。
「崇神天皇陵古墳」は、奈良県の柳本古墳群の北のほうに位置している。「景行天皇陵古墳」は、柳本古墳群の南のほうに位置している。二つの古墳のあいだの距離は、約六〇〇メートルである。
崇神天皇陵古墳も景行天皇陵古墳も、ともに谷をせきとめたいくつかの溜池を墳丘のふもとにめぐらせている。定形化する以前の初源的な周濠をもつ。
さて、私は、現在の崇神天皇陵古墳は、ほぼ確実に、崇神天皇陵とみてよいと考える。その理由は、つぎのとおりである。
(1)下図の「前方後円墳の築造年代推定図をみれば、崇神天皇陵古墳は、景行天皇陵古墳よりも、あきらかに、古い形式をしている。崇神天皇陵古墳を景行天皇陵にし、景行天皇陵古墳を崇神天皇陵にすれば、第十代の天皇で古い時代の崇神天皇の古墳が新しい形式をもち、第十二代の天皇で新しい時代の景行天皇の古墳が古い形式をもつことになってしまう。このことは、図をみれば一目瞭然である。
また、この年代の推定は円筒埴輪の形式から年代を推定したものと一致する。
(下図はクリックすると大きくなります)
(2)『日本書紀』は、崇神天皇の時代に、吉備津彦を西の道(のちの山陽道)につかわし、丹波(たには)の道主(みちぬし)を、丹波(後の丹波・丹後。大部分は現京都府)につかわしたと記している。いわゆる「四道将軍」派遣の話の一部である。
そして、第391回の講演で述べたが、岡山県の「吉備(きび)の中山」に、大吉備津彦の墓と伝えられる中山茶臼山古墳がある。この中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳と平面図がほとんど相似形である。つまり、古墳の形式は、その古墳のつくられた時期によってかなり異なるが、古墳の形式からいって、崇神天皇陵古墳は、中山茶臼山古墳と、同時期のものであることが推定される。
また、京都府の竹野郡丹後町には、黒部銚子山古墳といわれる前方後円墳がある。この古墳も、崇神天皇陵古墳や中山茶臼山古墳とほとんど相似形である。私は黒部銚子山古墳は、丹波の道主の命の墓である可能性もあると思う。このことについてはあとでのべる。
現在の崇神天皇陵古墳を、崇神天皇の墓とするとき、『日本書紀』に、崇神天皇と同時代に活躍していたとされている人びとの墓と推定される古墳と形式がほぼ同じものとなる。現在の景行天皇陵古墳を崇神天皇の墓としたのでは、中山茶臼山古墳などと、形式がちがってくる。
このような「相似形古墳」の概念を導入するとき、崇神天皇陵古墳、中山茶臼山古墳、黒部銚子山古墳の三つは、古墳の形式でも、『日本書紀』の記述でも、たがいにつながることとなる。
(3)崇神天皇陵の候補としては、崇神天皇陵古墳(行燈山古墳、ニサンザイ古墳)と、景行天皇陵古墳(渋谷向山古墳)の二つ以外には考えられないことについては、斎藤忠氏のくわしい考察がある(「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)。
すなわち、斎藤忠氏は、つぎのようにのべる。
「現存する大和の古墳の上から見ると、古の城下(しきのしも)郡になり、山辺道の上にあって壮大な墳丘をもち、しかも最も古い時期におかれるものは、ミサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)と向山古墳(景行天皇陵古墳)との二つしかないのであり、この二つの古墳の被葬者をもって、記紀や『延喜式』に見られる葬地と照合することによって、崇神天皇陵・景行天皇陵とすることは最も適当とするところなのである。」
なお、崇神天皇陵古墳では、墳丘全長(242メートル)、後円部径(160メートル)、前方部長(82メートル)の比率が、大略、3対2対1になっている。
墳丘全長を、魏・晋朝の尺度で、一千尺にとり、それを三等分して設計した形になっている。
そして、纏向遺跡の纏向古墳群(ホケノ山古墳、石塚古墳、矢塚古墳、東田大塚古墳など)の多くの古墳では、墳丘全長と後円部径と前方部長との比率が、3対2対1となっている。基本設計が、崇神天皇陵古墳とほぼ同じである。
このことは、纏向古墳群に属する古墳の多くが、崇神天皇の時代から、それほどへだたらない時代につくられたことを思わせる。
■「青竜三年(235)銘鏡」の謎
1994年3月18日の朝刊各紙は、京都府の丹後半島の、大田南5号墳から、中国の魏の年号 である青竜三年(235)の銘文のはいった青銅鏡「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」一面が、完全な形で出土したことを報じている。一面に、大きく報じた新聞も多かった。
この鏡についての、いくつかの論考が、新聞紙上にのせられた。しかし、『古事記』『日本書紀』などの日本の古典に照らしあわせて考察したものは、ほとんどなかった。
『古事記』『日本書紀』などの、古い時代の記事を信用できないとする津田左右吉氏流の考えが、あいかわらず、古代史を探究する人びとの判断を支配しているようである。
しかし、『古事記』『日本書紀』をはじめとするわが国の古典は、この「青竜三年銘方格規矩鏡」に関しても、重要な情報を伝えているとみられる。
「青竜三年銘鏡」が出土したのは、丹後半島の、竹野(たけの)郡弥栄(やさか)町と中郡峰山町にまたがる大田南5号墳である(弥栄町字和田野小字大田13・14と、峰山町字矢田小字振尾466-1にまたがる)。
四世紀後半のものとみられる方墳である。
ここは、むかしの丹後の国に属する。
しかし、「丹後の国」は、もとは、「丹波(たんば)の国」と、一つの国であった。そして、全域が、「丹波の国」とよばれていた。
古い「丹波の国」が、「丹後の国(現在の京都府の北部)」と「丹波の国(大部分は、現在の京都府、一部は、兵庫県に属する)」とに分かれたのは、和銅六年(713)のことである。
したがって、大田南5号墳のある場所は、古代の「丹波の国」に属する。
そして、大田南5号墳のある場所は、古代の「丹波の国」の「丹波郡」と「竹野(たかの)郡」との境になる(右上の地図参照)。
この地に関連する伝承としては、つぎの三つがあげられる。
①丹波(たには)の道主(みちぬし)の命(みこと)に関する伝承。
②旦波(たには)の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)に関する伝承。
③海部(あま)の直(あたえ)に関する伝承。
以下、この三つの伝承を順次検討していく。
■丹波の道主の命に関する伝承(一)
-丹波の道主の命の系譜-
『日本書紀』の崇神天皇紀の十年九月の条の、四道将軍派遣記事の一節に、いわゆる四道将軍の一人として、「丹波の道主の命を、丹波につかわした。」と記している。
この丹波の道主の命は、『日本書紀』では、第九代開化天皇の皇子、彦坐(ひこいます)の王(みこ)の子とされている。
第十代崇神天皇のおいである。また、第十一代垂仁天皇の皇后、日葉酢媛(ひばすひめ)の命は、丹波の道主の命の娘である。そして、日葉酢媛の命は、第十二代の景行天皇の毋である。
ただ、『日本書紀』の垂仁天皇の五年十月の条には、つぎのような記事がある。
「(丹波の)道主(ちぬし)の王(おほきみ)は、開化天皇の子孫(みまご)であり、彦坐(ひこいます)の王(みこ)の子(みこ)である。一書にいう。彦湯産隅(ひこゆむすみ)の王(みこ)の子(みこ)であると[道主王(ちぬしおほきみ)は、稚日本根子太日日天皇(わかやまとねこふとひひのすめらみこと)〔開化天皇〕の子孫(みまご)、彦坐王の子なり。一(ある)に云(い)はく、彦湯産隅王の子なりといふ]。」
彦湯産隅の王は、第九代開化天皇が、丹波の竹野媛(たかのひめ)を妃(みめ)として生んだ子である。『古事記』には、竹野比売(竹野媛)は、旦波の大県主、由碁理の娘である、と記されている。
『古事記』も、『日本書紀』とほぼ同様の系譜を記している。
いま、主として『古事記』により、丹波の道主の命の系譜を示せば、下の系図のようになる。なお、『古事記』の崇神天皇の段には、彦坐の王を、丹波の国につかわして、玖賀耳(くがみみ)の御笠(みかさ)を殺させた、と記されている。
応神天皇の毋の神功皇后なども、彦坐の王の子孫とされている。
そして、竹野比売(たかのひめ)が開化天皇妃と垂仁天皇妃の両方に出てくる。(後で説明)
(下図はクリックすると大きくなります)
1915年(大正四年)刊の『陵墓要覧』(宮内省諸陵寮の職員の執務の便のために編纂されたもの。宮内省諸陵寮刊)によれば、日子坐の命の墓は、「岐阜県稲葉郡岩村大字岩田字北山」にあることになっている。墓は「山形」で、周囲は「木柵」でかこまれているという。
この墓は、現在、宮内庁が管轄しており、彦坐の王を祭神とする式内社、伊波乃西神社の境内地にある。山のふもとにある。埋蔵文化財にはなっていない。横穴式石室があるともいわれる。横穴式石室があるとすれば、五世紀代以後のものとなり、開化天皇の皇子の彦坐の王(四世紀代)と、時代があわない。
■丹波の道主の命に関する伝承(二)
-「青竜三年銘鏡」の出土地は、丹波の道主の命のいた場所の近くだ-
「青竜三年銘鏡」の出土した大田南5号墳のある場所は、現在の中郡峰山町にかかっている(右の地図参照)。
峰山町は、丹波の道主の命の居地という伝承をもつ場所である。
吉田東伍氏の『大日本地名辞書』は、丹波郡「新治郷」の項で、つぎのように記す(原文は文語文)。
「峰山町も、新治郷の境域内である。稲代谷というところがある。ここは、豊宇気の大神を、むかしまつったところであるという。大神の田の稲種をひたしたところであるといって井戸がある。苗代田というところがいまもあって、南のほうはよく打ちひらけている。比治山(菱山)を西に負い、見わたしのよいところである。まえに、府の岡というところがある。四道将軍(丹波の道主の命)の館跡であると言い伝えている。
『倭姫命(やまとひめのみこと)世記』に、『雄略天皇の二十一年十月、倭姫の命は、教えさとされた。丹波の国の与佐の小見比沼(おみいぬま)の魚井(まない)原に鎮座する、道主の王の子八乎止女(やおとめ)のまつる、御饌都(みけつ)神、止由気(とゆけ)の大神(豊宇気の大神)(の神社の地)を、私のすむ国にしたい、と。』とある。
これを見れば、丹波の道主の王は、この地に住まれて、豊宇気の大神をあがめ、斎女を定めたのである。」
また、大田南5号墳のすぐ近くに、峰山町字丹波がある(上の地図参照)。
この地は、かつて、丹波郡の郡役所のあったところである。
吉田東伍氏の『大日本地名辞書』の、「丹波郷」の項に、つぎのように記されている。
「おもうに、いにしえの、丹波の道主の命の故墟で、中古の郡家である[蓋(けだし)古の丹波道主貴の故墟にして、中古の郡家とす]。」
■これまでに出土した紀年銘鏡
これまでに、わが国で出土した紀年銘鏡をまとめてみよう。すると、下の表のようになる。
また、その分布を、地図上に示せば、下の地図のようになる。
表と地図をみると、つぎのようなことに気がつく。
(1)北は、関東の群馬県から、南は、九州の宮崎県にまで散らばっている。したがって、紀年銘鏡の出土を、ただちに、邪馬台国問題に結びつけることはむずかしい。直接結びつければ、すでに三世紀に、邪馬台国の影響は、関東から九州までにおよぶことになる。範囲が広大すぎるようにみえる。
(2)京都府から三面、兵庫県から二面、大阪府から二面の計七面が、近畿地方から出土している。分布の広域と、近畿地方に中心があるようにみえることから、紀年銘鏡は、やはり、畿内を中心とする政権から各地にもたらされたとみるべきである。
(3)同型鏡が、京都府と宮崎県とから出土したり、群馬県と兵庫県と山口県とから出土したりしている。すなわち、鏡は、そうとう広域に移動分布している。同型鏡がわが国の国内でのみ見いだされ、中国からは、出土していない。このことは、これらの紀年銘鏡が、おもに国内でつくられていること、広い範囲が、一つの文化の影響下にあることを示しているように思える。
(4)年号が、魏、呉、晋など、ほぼ邪馬台国時代にあたるものに集中している。
あとでものべるように、四世紀ごろとみられる諸天皇の時代に活躍したと伝えられる人物に関連した地から、三角縁神獣鏡や方格規矩鏡などが出土することが多い。
天皇の一代平均在位年数を、約十年とする立場にたてば、卑弥呼の時代と伝説上の天照大御神の時代とが重なりあう。卑弥呼のことが神話化したのが、天照大御神であるとみられる。
大和政権は、卑弥呼すなわち天照大御神以来の伝統をうけつぐものであることを示すために、歴史上の記念すべき年号である「景初」「正始」などの魏の年号を、四世紀ごろに製作した鏡にもいれたのであろう。
三角縁神獣鏡や、紀年銘鏡は、大和朝廷の文化と権力とを象徴する事物であるとみられ、皇族将軍たちは、この鏡をもって、征服戦にのぞんだとみられる。
■「青竜三年銘鏡」の解釈
1994年10月22日の『読売新聞』『産経新聞』『京都新聞』などに、京都府の大田南5号墳から出土の「『青竜三年の銅鏡』は華南産」という記事がのっている。
たとえば、『読売新聞』は、つぎのように記す。
「青竜三年鏡の鉛の同位体比は、魏鏡とされる『景初三年(239)』の銘が入った三角縁神獣鏡(島根・神原神社古墳)や『正始元年(240)』の銘入りの三角縁神獣鏡(山口・竹島古墳)と似た数値だった。」
この記事は、「景初三年」の銘の入った三角縁神獣鏡を、「魏鏡」ときめたうえで、記事がまとめられている。
しかし、記事をよくよめば、「青竜三年銘鏡」が、四世紀型古墳から多数見いだされる三角縁神獣鏡と、鉛の同位体比において近いということをいっているだけである。
私は、三角縁神獣鏡は、おもに四世紀の古墳時代に、江南の東晋の工人たち、またはその指導をうけた人たちによって、江南の銅をもちい、日本で製作されたものと考える(拙稿「邪馬台国九州説からみた鉛同位体比研究-三角縁神獣鏡は、江南の東晋の工人が日本にきて作ったものだ-」『季刊邪馬台国』60号)。
「青竜三年銘鏡」も、鉛の同位体比からみて、四世紀にわが国でつくられたものと考える。
もし、これらを、中国から輸入した鏡とするならば、日本国内で多数見いだされる三角縁神獣鏡の、ほとんどすべてを、中国から輸入したものとみなければならなくなる。
三角縁神獣鏡が、大量に、畿内でつくられているようにみえることから、おそらく、「青竜三年銘鏡」も、畿内でつくられたものであろう。そして、それが、丹波の道主の命などにより、丹波へもたらされたものであろう。
四世紀代の皇族将軍が派遣されたと、『古事記』『日本書紀』などに記されている地域からは、だいたい三角縁神獣鏡が出土しているのである。
「青竜」「景初」「正始」がいずれも、魏の明帝の時代の年号である。これらの魏の明帝の時代の年号鏡については、つぎのようなことがいえる。
(1)わが国では「青竜三年鏡」も、「景初年号鏡」も、「正始元年号鏡」も、いずれも同型鏡が存在している。数多くつくられたもののようにみえる。
(2)しかるに、魏の明帝の時代の年号鏡は、中国の魏の領域からはもちろんのこと、中国全土から、これまで一面も出土していない。
(3)鉛の同位体比の測定されているものは、いずれも銅原料が、長江流域系(呉の領域系)、とくに鄂州市ふきんのものである。
(4)長江流域系(呉の領域系)の銅が、北中国の洛陽や、さらには、わが国にはいるのは、280年に、魏のあとをついだ西晋の国が、呉の国を滅ぼしたあとになっておきた現象のようにみえる。
(5)これらの諸特徴は、「三角縁神獣鏡」が示す諸特徴と、ほぼ一致する。
大和朝廷のなかには、卑弥呼(天照大御神)が、魏の明帝の時代に、魏に使をつかわし、「親魏倭王」に任じられたなどの記憶が残っており、その功業をたたえる意味で、四世紀ごろに畿内でつくられた鏡に、魏の明帝の時代の年号をいれたものであろう。
■丹波の道主の命の墓といわれている古墳
地元で、丹波の道主の命の墓といわれているものに、つぎの三つがある。
(1)神明山古墳『日本の神々7山陰』(谷川健一編、白水社刊)の「竹野(たかの)神社」の項に、「神明山古墳について土地の人は、丹波道主(たにはちぬし)の命(みこと)の墓とも竹野媛(たかのひめ)ともいう。」とある。竹野媛は竹野の里を国府としたという伝承をもつ丹波の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)の娘で、開化天皇の妃となったと『古事記』は記す。
神明山古墳は、京都市竹野郡丹後(たんご)町字宮にある。日本海に注ぐ竹野(たけの)川の河口に位置する。
『日本書紀』の垂仁天皇十五年の二月の条に、つぎのような記事がある。
垂仁天皇は、日葉酢媛の命をはじめ、丹波の道主の命の五人の娘を、後宮にめしいれた。ただ、そのうちの、竹野媛(たかのひめ)だけは、容貌がみにくかったので、「本土(もとのくに)」にかえした。
ところで、「竹野(たかの)」は、『和名抄』にもみえる丹後の国の郡名で、まさに、神明山古墳のあるところである。
第九代開化天皇の妃の一人も、丹波(たには)の竹野媛(たかのひめ)で同名である。それを参考にすれば、竹野は、地名とみてよさそうである。(前に示した系図参照)
神明山古墳は、前方部を北東に向け、全長190メートルの大型前方後円墳である。後円部径129メートル、高さ26メートル。前方部幅78メートル、高さ15メートル。円筒埴輪のほかに、家形埴輪・盾形埴輪・きぬがさ形埴輪などをもつ。後円部中央に散乱している板石の存在により、埋葬主体として、竪穴式石室の存在が考えられている。
日本海側では、同じ丹後地域の網野銚子山古墳とともに、一、二の規模を誇る。京都府の指定文化財となっている。
(2)黒部銚子山(くろべちょうしやま)古墳
京都府竹野郡弥栄町字黒部小字弓木にある。竹野川に面する丘陵に築造されている。前方部を南東に向けた二段築成の前方後円墳で、全長100メートル。後円部径68メートル、高さ15メートル。前方部幅42メートル、高さ10メートル。外部施設は、埴輪・葺石が確認されているが、埋葬施設は明らかでない。丹後地域第五位の規模をもつ。京都府指定史跡。
(3)雲部(くもべ)車塚古墳
兵庫県多紀郡篠山(ささやま)町東本庄にある前方後円墳。宮内庁の陵墓参考地に指定されている。(宮内庁名・雲部陵墓参考地)全長140メートル。後円部径80メートル、高さ12.7メートル。前方部の長さ74メートル、幅89メートル、高さ5.8メートル。墳丘上に円筒埴輪片が散在する。1896年に、地元民によって発掘がされた。主体部が五枚の天井石をもつ竪穴式石室で、内部に組合式長持形石棺が安置されている。石室は後円部中心よりも、やや南側に位置しているため、もう一つの主体部の存在も推定されている。石棺内の副葬品は、未掘のため不明であるが、側壁と石棺の空間からは鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄鏃・小札鋲留衝角付胄・三角板変形衝角付冑・横矧板革綴短甲(よこはぎいたかわとじたんこう)・馬具類が出土している。副葬品のなかでは、全長2.09メートル弱のすべて鉄製の矛と、衝角部分が変形の胄が注目されている。五世紀代の築造と推定されている古墳である。(以上、『日本古墳大辞典』による。)
1896年に発掘が行なわれ、そのさい考古学者の八木奘三郎(やぎそうざぶろう)氏らが、丹波の道主の命の墳墓と考えて、宮内省に陵墓として確認をもとめ、1900年に陵墓参考地となった経緯がある。
ちなみに、宮内庁が、天皇家にかかわる墳墓として管理しているのは、天皇陵・皇后陵・皇太后陵・皇子墓・皇女墓とともに、陵墓参考地・陪塚などである。
このうち、陵と墓とについては、皇室典範第二七条に規定されているが、陵墓参考地と陪塚については規定がない。皇室財産として管理されたという慣行があり、皇室財産法に法律上の根拠をもつ。
雲部車塚古墳は、もと、東本庄村共有の草刈り場で、洪水のための修復費用捻出のため、売却・開墾の危険性があったが、陵墓参考地に指定され、皇室財産として保護されることとなった。
■神明山古墳、黒部銚子山古墳、雲部車塚古墳の築造時期の推定
これら三つの古墳を、前の方で説明した図の「前方後円墳築造時期推定図」のうえにプロットしてみると、下図のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)
まず、「雲部車塚古墳」は、五世紀型古墳群に属し、問題外のようである。『日本古墳大辞典』にも、「五世紀代の築造と推定される」と記されている。竪穴式石室のあることなど、一部四世紀型古墳の特徴ももつが、古墳の型式、馬具類の出土していることなどから、やはり、五世紀代の古墳とみるべきであろう。また、場所も、兵庫県多紀郡篠山町で、丹波の道主の命がつかわされたとみられるところからややはなれるようである。
問題は、神明山古墳と黒部銚子山古墳である。この二つは、規模こそ違え、上の図からうかがえるように、ほとんど相似形といってよい古墳である。また、崇神天皇陵古墳や、岡山県の中山茶臼山古墳とも、ほぼ相似形といってよい。
このことは、これらの古墳のあいだに、同時代性、あるいは、なんらかの関係があることをうかがわせる。
そして、崇神天皇は、丹波の道主の命に、四道将軍の一人になることを命じた人であり、中山茶臼山古墳の被葬者と考えられる大吉備津彦の命は、丹波の道主の命と同じく、四道将軍の一人である。
黒部銚子山古墳の位置は、「青竜三年銘鏡」のでた大田南5号墳とも近い。
中古の郡家(こおりのみやけ)[郡役所]で、丹波の道主の命の故墟かとみられる峰山町の字丹波にも近いところからみて、黒部銚子山古墳が、丹波の道主の命の墓なのであろうか。
そして、神明山古墳のほうは、古い竹野郡にある竹野神社のそばにあるところからみて、ほぼ同時代の、開化天皇の妃となった竹野比売(たかのひめ)の墓であろうか。
四道将軍の墓は、おおむね100メートル前後、天皇の后妃の陵は、200メートル前後、天皇陵は220メートル以上という傾向がみとめられるようである。
(注:四道将軍の墓より当時の天皇妃の墓の方が大きい傾向がある)
とすれば、やはり、墳長100メートルの黒部銚子山古墳を、四道将軍のひとりの丹波の道主の命の墓にあて、墳長190メートルの神明山古墳を竹野媛(たかのひめ)にあてるべきか。
いずれにせよ、文献に記されているしかるべき地に、しかるべき古墳が存在している。
『日本の神々7 山陰』の、「竹野神社」の項には、およそ、つぎのように記されている。
「(竹野神社は、)日子坐王の命(ひこいますのみこのみこと)・建豊波豆良和気命(たけとよはづらわけのみこと)・竹野媛命(たかのひめのみこと)の三神を祀っている(
前の方で示した系図をみればわかるように、この三者ともに、崇神天皇のころの人である)。
竹野媛命(たかのひめのみこと)は、竹野(たかの)の里を国府としたという伝承をもつ丹波(たには)の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)の女(むすめ)で、開化天皇の妃となり、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)を産んだと『古事記』にみえる。竹野神社はこの媛が年老いて郷里に帰り、天照大神を奉祀したのにはじまると伝えられる。大県主由碁理の本貫(本籍地)は、竹野村とみられている(『丹後旧事記』)。
神明山古墳は全長182メートルを測る大前方後円墳で、竹野神社の傍に築かれている。未発掘ながらかなりの数の出土品があり、多数発見された形象埴輪の破片のうちに、船首のそり上ったゴンドラ型の舟と櫂(かい)を持つ人物をへら書きしたものがある。
神明山古墳について土地の人は、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)の墓とも竹野媛の墓ともいう。この古墳は、日本海沿海部では丹波にだけある巨大前方後円墳三基の一つである。こうした古墳の存在は、きわめて大きな権力を有した豪族のいたことを物語るとともに、大和を中心に展開した古墳文化をいちはやく摂取したことを推測させる。皇室との関係を語る所伝には、相当の背景があったといってよい。」
■崇神天皇陵古墳、中山茶臼山古墳、神明山古墳、黒部銚子山古墳などの形の比較
崇神天皇陵古墳、中山茶臼山古墳、神明山古墳、黒部銚子山古墳の各部位の測定値を、表の形にまとめれば、下の表のようになる。
後円部を等しい大きさにしたばあいの、これらの古墳の形は、下図のようになる。
この図には、参考のために、これら三つの古墳と相似形とはいえず、前方部を発展させたような形をしている奈良の日葉酢媛(ひばすひめ)古墳[佐紀陵山(さきみさざきやま)古墳ともいう。日葉酢媛は、崇神天皇のつぎの垂仁天皇の皇后とされる)や、景行天皇陵古墳などの形も示しておいた。
この図をみれば、崇神天皇とほぼ同時代とみられる人たちの墓が、きわめて似た形をしていることがわかる。
そして、第十代崇神天皇から、日葉酢媛(第十一代垂仁天皇皇后)、第十二代景行天皇へとうつるにつれ、しだいに、前方部が発展していっていることがうかがえる。
日葉酢媛陵古墳は、崇神天皇陵古墳などを縦に(前方部をさらに前に)発展させるような形になっている。景行天皇陵古墳では、前方部の幅も発展させている。
なお、墳丘全長を、晋尺ではかるとき、崇神天皇陵古墳がほぼ正確に一千尺、中山茶臼山古墳が約四百尺、神明山古墳が約八百尺になる。
黒部銚子山古墳と網野銚子山古墳とは、墳丘全長が正確に測定されているのかどうかという問題もあるが、それぞれおよそ、四百尺および八百尺に近い。
■巨大古墳のいくつかは、天皇の后妃の墓であろう
ここで、一つのテーゼを導入しよう。それは、つぎのようなものである。
「天皇の妃(みめ)となった女性の本貫地(本籍地、出身地)と伝えられる場所には、しばしば、天皇陵にも匹敵するような、全長200メートル前後以上の、巨大な前方後円墳が存在する。これは、地元の人たちの力で、天皇の妃の墓をつくったのではないか」
丹波地方の出身で、天皇の后妃となり、かつ皇子をもうけたと『古事記』や『日本書紀』に記されている女性には、つぎのような人たちがいる。
(1)竹野姫(たかのひめ)
丹波の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)の娘。開化天皇の妃。比古由牟須美の命(ひこゆむすみのみこと)を生む。
(2)比婆須比売(ひばすひめ)の命(みこと)[日葉酢媛(ひばすひめ)]
丹波(たにわ)の道主(ちぬし)の命[丹波(たにわ)比古多多須美智(ひこたたすみち)の宇斯(うし)の王(おおきみ)]の娘。景行天皇の毋。
(3)沼羽田(ぬばた)の入毗売(いりひめ)の命(みこと)[渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりびめ)]
丹波の道主の命の娘。垂仁天皇の妃。沼帯別(ぬたらしわけ)の命(みこと)、伊賀帯日子(いがたらしひこ)の命(みこと)などの皇子を生む。
(4)阿邪美(あざみ)の伊理毗売(いりびめ)の命(みこと)[薊瓊入媛(あざみにいりびめ)]
丹波の道主の命の娘。垂仁天皇の妃。伊許婆夜和気(いこばやわけ)の命(みこと)、阿邪美都比売(あざみつひめ)の命(みこと)などの皇子、皇女を生む。
このうち、皇后の比婆須比売の命の墓は、奈良県奈良市山陵町御陵前にあるから、一応丹波にある大前方後円墳にあてなくてもよいだろう(丹波にも、比婆須比売の命の墓が、つくられた可能性も、ないわけではないが)。
地元の伝承なども、あるていど考慮するならば、たとえば、つぎのようなあてはめも考えられよう。
(1)黒部銚子山古墳を、丹波の道主の命の墓と考える。
【理由】地元に、丹波の道主の命の墓とする伝承がある。崇神天皇陵古墳や、中山茶臼山古墳と、ほぼ相似形である。墳丘全長は100メートルで、大吉備津彦の命の墓と伝えられる中山茶臼山古墳(105メートル)に、規模が近い。丹波の道主の命の館跡と伝えられるところや、中古の丹波郡の郡家(こおりのみやけ)[郡役所]の近くである。
(2)神明山古墳を、竹野媛の墓と考える。
【理由】地元に、竹野媛の墓とする伝承がある。崇神天皇陵古墳や黒部銚子山古墳などと、ほぼ相似形である。竹野郡の竹野川の河口に位置し、竹野神社のそばにある。「竹野媛」と地名とが合致する。竹野神社の祭神の一人が、竹野媛である。全長190メートルで、規模が大きい。竹野媛の父の大県主由碁理の本貫地(本籍地)は、この地(竹野村)とみられている。
(3)網野銚子山古墳を、阿邪美の伊理毗売の墓と考える。
【理由】「網野(あみの)」と「阿邪美(あざみの)の」とは、やや音が近い。「網野神社」の名は、『延喜式』にみえる。この地に、「浅茂(あさも)川」が流れるが、「浅茂」も、「阿邪美の」に音が近い。ただし、網野神社の祭神は、彦坐(ひこいます)の命(みこと)[日子坐(ひこいます)の王(おほきみ)]である。『古事記』の崇神天皇記に、日子坐の王は、丹波の国につかわされ、玖賀耳(くがみみ)の御笠(みかさ)を殺したとある。なお、日子坐の命の墓は、『陵墓要覧』(宮内省、1915年刊)によれば、岐阜県稲葉郡岩村にある。
網野銚子山古墳は、全長198メートルで、日本海側第一位の規模をもつ。図をみればわかるように、前方部が、日葉酢媛陵古墳よりは発達しているが、景行天皇陵古墳よりは、発達していない。おそらく、日葉酢媛陵古墳よりもあとでつくられ、景行天皇陵よりもまえにつくられたものであろう。とすれば、丹波の道主の命の娘で、垂仁天皇の妃となり、皇子、皇女を生んだ人のうちで、もっとも年の若い人をあてるのが妥当か。
なお、神明山古墳は、葺石(ふきいし)と埴輪をもち、家形埴輪、盾形(たてがた)埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪、円筒埴輪などが出土しているが、これらの形象埴輪は、丹波の道主の命の娘で、垂仁天皇の皇后となった日葉酢媛(ひばすひめ)の命(みこと)の陵墓(奈良県奈良市山陵町にある)からも出土している。
古墳の造形といい、出土物といい、奈良の日葉酢媛陵古墳と、丹波の神明山古墳とが、同一の文化のもとに成立していることは、あきらかなようにみえる。
そして、ともに、天皇の后妃の墓という点でも、つながるようにもみえるのである。
Ⅱ 垂仁天皇皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)の陵の盗掘
■垂仁天皇皇后・日葉酢媛の命
第十代崇神(すじん)天皇のことを『日本書紀』は、「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と記している。この名には、はじめて広い国土をおさめた天皇、という意味がふくまれているようにもみえる。
崇神天皇は「四道将軍(しどうしょうぐん)」といわれる四人の将軍を、北陸、東海、吉備、丹波に派遣する。
大和朝廷の支配領域をひろめ、王権の基盤を強くしたとみられる。
崇神天皇の陵のころから、巨大な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が築かれるようになる。
そして第十一代垂仁天皇が、崇神天皇の皇子である。
『古事記』に垂仁(すいにん)天皇の時代の事件として、つぎのような話がのっている。
皇后の沙本毗売(さほびめ)は、兄の沙本毗古(さほびこ)にそそのかされて、反乱をくわだてる。
垂仁天皇が皇后の膝を枕にして寝ているときに、皇后の沙本毗売は、天皇の首に小刀(ナイフ)をふりおろそうとする。しかし、心やさしい沙本毗売はそれができない。
目ざめた垂仁天皇に問いただされて、沙本毗売は反乱の計画を白状する。
垂仁天皇は、ため息をつくが、沙本毗古討伐のために軍隊をさしむける。
ところが、やさしい沙本毗売は、兄の沙本毗古を見すてることもできない。沙本毗売は宮殿からぬけだし、兄の沙本毗古のところへ逃げこんでしまう。
垂仁天皇は、沙本毗古も、沙本毗売も、ともに反乱者として討ちはたさなければならない。しかし、垂仁天皇は、沙本毗売を深く愛していた。沙本毗売を取り戻そうと必死の努力をするが、ついに失敗する。
沙本毗古と沙本毗売のこもっている城に、火をかける前に、天皇は沙本毗売に最後の問いかけをする。
「お前が、かわいく結んでくれた下紐(したひも)は、だれに解かしたらよいだろうか。」もはやお前を失わなければならないのなら、お前の推薦してくれた女性に、お前の役をしてもらおう、というのである。滅んでいく沙本毗売への思いやりである。
沙本毗売は、自分の姪(めい)の二人の女性を推薦する。
このときに推薦された女性のひとりが、四道将軍のひとり丹波道主(たにはのちぬし)の命の娘の、日葉酢媛(ひばすひめ)の命である。
日葉酢媛の命は、のちに垂仁天皇の皇后となる。
この日葉酢媛の命は、第十二代景行天皇の母である。
日葉酢媛の命は、垂仁天皇より若かったとみられる。しかし、垂仁天皇より先になくなる。
『日本書紀』によれば、日葉酢媛の命の葬儀のさい、垂仁天皇は野見宿禰(のみのすくね)の進言にもとづき、殉死の風習を禁じ、日葉酢媛の命の陵墓に、土製の人馬などをうずめさせた。これが埴輪の起源であるという。
この日葉酢媛の命の陵墓については、盗掘され、出土品などのくわしい記録が残ってい
る。
■1916年の盗掘
1917年(大正6)3月8日(木)の『大阪朝日新聞』および、3月9日(金)の『大阪毎日新聞』は、1916年(大正5)6月に、5名からなる盗賊団が、「垂仁(すいにん)天皇皇后の日葉酢媛(ひばすひめ)の命(みこと)の陵と応神天皇皇子大山守(おおやまもり)の命(みこと)の墓」とを盗掘し、結局、総数で10名(最終的には18名が有罪判決)の犯人が逮捕されたことを報じている。
その新聞記事を、まず活字でおこしてみよう。ただし読みやすさを考慮し、旧漢字、旧かなづかいを常用漢字、現代かなづかいなどにあらためた(他に、現在、かな書きがふつうの漢字はかなにあらため、句読点をおくり、カッコ内に西暦年数など補足した。また、一部省略した)。
なお、『大阪時事新報』にも、同様の記事がのっている。
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☆『大阪朝日新聞』1917年(大正6)3月8日(木)の記事
皇陵発掘の陰謀団
垂仁天皇皇后陵および応神天皇皇子大山守(おおやまもり)の命(みこと)の御墓(おんはか)を訐発(かんはつ)[「訐」は、あばくこと]す。
大正五年(1916)六月奈良県下において、おそれ多くも、皇陵を発掘して埋蔵品を獲得せんとしたる暴逆不軌の賊現われ、ただちに逮捕せられたるも、事態すこぶる重大なるより、これを詳道(しょうどう)するの自由を有(ゆう)せず。今日においてようやくその機を得たれば、当時の事情を縷述(るじゅ)して、読者とともに逆賊輩の所業を憎(にく)まん。
▼訐発(かんはつ)されたるは、奈良県生駒郡平城村字山陵(へいじょうむらあざみささぎ)垂仁天皇皇后日葉酢媛(ひばすひめ)の「狭木(さき)の寺間(てらま)の陵(みささぎ)」および応神天皇皇子大山守(おおやまもり)の命(みこと)那羅山御墓(ならやまおはか)なり。垂仁皇后陵は前方後円式にして、南面し、後円の絶山顛(ぜつさんてん)に石棺を奉埋(ほうまい)せり。五名よりなる犯人団は、大正五年(1916)五月十五日より(あるいは二十日ごろ二十二、三日ごろの説あれど確かならず)夜な夜な山陵の背後すなわち北方より自然薯(じねんじょ)掘り用の鋤(すき)あるいは鍬(くわ)・鶴嘴(つるはし)の類をもって深さ五尺(約1.5メートル)以上八尺(約2.4メートル)くらいの
▼隧道(とんねる)式の坑道をうがち、約一週間にして坑道作業の全部を終わり、目的の石棺に達したるにぞ。爾来(じらい)幾回となく忍び入りて、棺中および棺外を探りて埋蔵せる宝玉を掻浚(かっさら)えおりしが、さる六月七日午前十時という真昼間(まひるま)、大胆(だいたん)にも五名が寄(よ)せ来(きた)りしを、かねて感付(かんづ)き居(い)たる御陵守(ごりょうもり)が郡山署(こおりやましょ)に急報するとともに、村民の応援を求め、警鐘(けいしょう)および梵鐘(ぼんしょう)を乱打したるより、消防組青年(せいねん)会員ら六百余名馳(は)せ来(きた)り御陵(ごよう)を包囲したるが、かくと知りたる犯人らは、
▼死者狂(しにものぐる)いとなりて血路を開き、中(うち)三名は、ついに逃走したれど、後(おく)れたる二名は警察隊の手に逮捕したり。犯人逃亡のさい、一青年は鎌(かま)にて斬りつけられ重傷を負いたりと。
▼付近の皇陵は同山陵の所在地平城(へいじょう)村字尼ヶ辻(あざあまがつじ)には、垂仁天皇の菅原(すがわら)の伏見の東(ひがし)の陵(みささぎ)があるあり。また孝謙、称徳(しょうとく)両天皇{安本注。孝謙天皇と称徳天皇とは同じ人。孝謙天皇は一度退位し、その後もう一度即位して〔重祚(ちょうそ)して〕、称徳天皇となった}の高野(たかの)の陵(みささぎ)、成務天皇の狭城(さき)の盾列池後(たたなみいけじり)の陵(みささぎ)、神功皇后同池上(いけがみ)の陵(みささぎ)ありて、いずれも兆域に立入(たちい)りたるに非(あら)ずやと疑(うたが)われしも、当時急遽(きゅうきょ)出張し来(きた)れる山口諸陵頭(しょりょうのかみ)は、なんらの懸念(けねん)なく、まず安堵(あんど)したるむね洩(も)らしたりという。以上の諸陵は種々の伝説に富(と)みたるが中(なか)に、兆域を冒瀆(ぼうとく)せるかどにより謀大逆(ぼうたいぎゃく)[大逆を謀(はか)る]をもって、八虐の大罪(たいざい)を擬(ぎ)せられ磔殺(たくさつ)されたる伝説は、今なお人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)せり。もっとも凌辱(りょうじょく)せられたる「狭木(さき)の寺間(てらま)の陵(みささぎ)」は、往年棺床(かんしょう)露出したることありてさらに八尺(約2.4メートル)ばかり掘りさげ安置せられしというも伝説の一つなり。
▼発掘の勾玉(まがたま)・古鏡
「狭木(さき)の寺間山陵(てらまさんりょう)」より発掘せし宝玉は、勾玉七箇を始めとし、管玉(くだたま)、玉、古鏡および堆朱(たいしゅ)など四十六点に上(のぼ)れりという。古鏡は四箇ありしが、その中(うち)大型の一箇よりはしなく手蔓(てづる)つきたるため、贓品(ぞうひん)全部を発見することを得たりしなり。犯人の自白によれば、同山陵の石棺外に稀代の金冠ありたるを発見し、これを取りださんとて忍び入りしところを捕縛(ほぼく)されたるは、残念至極(しごく)なりと喋(しゃべ)りたるよし。
▼犯人総数数十名
▼山陵において捕えたる二名の自白により犯人は獰猛(どうもう)をもって聞こえたる京都府下相楽郡(そうらくぐん)のものと知れたるをもって京都、奈良両警察部保安課木津郡山(きつこおりやま)の各署員三十余名の一隊は潜伏中の連累(れんるい)を片っ端(かたっぱし)より検挙したるが、さきに現場を逃亡したる三名も去(さ)る六月十日までに逮捕されたるが、その姓名は中村、中谷(なかたに)、松川、山本ほか一名なり。
▼本紙に記載したるごとく家宅捜査の結果、森田および井出村(いでむら)の二名も連累(れんるい)たること明白なり、ついで相楽郡(そうらくぐん)上狛村(かみこまむら)の骨董商山本、同村、城野(じょうの)をも縛(ばく)したれば、犯人はすべて十名と算(さん)せらる。
▼宝玉全部吐きだす
奈良地方裁判所の大塚予審(おおつかよしん)判事・検事および警察隊の一行は犯人の検挙についで贓品(ぞうひん)の発見に全力を注ぎたるが、大部分は山本らの手をへて、
▼他に散逸せることを突(つ)き留(と)めたり。山本は本紙所報のごとく上狛村(かみこまむら)における輸出茶商・七条氏(しちじょうし)の実弟にて、七条より資金の融通を仰ぎ、手広く骨董商を営みおれり。また七条も同村新在家(しんざいけ)に宏大なる製茶工場を設けて、男女職工三百七、八十名を使用し、松原部落よりも多く通勤しおれるが自身初(はじ)め山本(やまもと)ら十族(じゅうぞく)を挙(あ)げて古物骨董を漁(あさ)り
▼暴利を射(い)るとの評判隠(かく)れなし。げんに山本方(かた)の家宅捜索をなしたるさい大型古鏡(こきょう)一箇(いっこ)出(い)でたるが、同人は平素出入りの同村城野(じょうの)が持参したるにより、なんの事情も知らずこれを即金にて、五百七十円に買い取りたるむね弁解したるも、城野(じょうの)その他の陳述(ちんじゅつ)によれば、御陵(ごりょう)より発掘せし顛末(てんまつ)は熟知しおりしこと判明せり。それのみならず右の古鏡を城野の宅より発見せる。
▼希代(きだい)の勾玉(まがたま)と鏡を神戸(こうべ)の取引先へ売約を取り結びおり、古鏡は約三千円にて調談の成(な)りたる顛末(てんまつ)暴露したり。
▼図々しき尻(しり)押し
なお進んで山本(やまもと)らの所為(しょい)を追窮(ついきゅう)するに彼らは皇陵発掘の尻押(しりお)しにて、すなわち金主(きんしゅ)たる関係ありしなり。彼は神戸および大阪方面へたくみに手を廻(まわ)し、朝鮮における稀代(きだい)の発掘物なりと称して世間体(せけんてい)を誤魔化(ごまか)し大胆にも片っ端(かたっぱし)より売(う)り放(はな)ちて暴富(ぼうふ)を得たるなりき。されば判・検事は、一々行き先をただして今(いま)は全部を取(と)り戻(もど)したるよしなるが、出張し来(きた)れる山口諸陵頭(しょりょうのかみ)は、収集せる宝玉の目録をもたらし、取りあえず帰東したりと。
▼一尺一寸の古鏡
山本の宅より発見せる大型の古鏡は直径一尺一寸(約三三センチ)あり。厚さ約八分(二・四センチ)、重量約一貫目(三・七五キログラム)もあらんかという。鏡の表面は新緑色を帯び晴れやかなること千年以上の時代を経たりしとも覚(おぼ)えぬくらいなりと。また裏面には古代模様の彫刻ありて、成分中の純金量は五割以上に達し、一万円以上の評価を付せられたりとの噂(うわさ)なり。そのほか、二、三万円くらいの価値ある勾玉、および玉(たま)などもあるよし。
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■日葉酢媛の陵墓
垂仁天皇皇后、日葉酢媛の陵墓狭木寺間陵(さきのてらまのみささぎ)は、元禄(げんろく)のころから幕末のころまでは、神功皇后(じんぐうこうごう)の陵とされ、幕府の保護をうけてきた。
1875年(明治八年)に、日葉酢媛の陵墓が狭木寺間陵であると定められた。
この陵は、1849年[嘉永(かえい)二年]ごろにも、盗掘をうけているとみられる。これについてはあとでふれる。
日葉酢媛の陵墓からの、1916年の盗掘のさいの盗掘品であると断定され、狭木の寺間陵に埋めもどされた品々がある。
その品々については、つぎの論文にくわしい。
石田茂輔「日葉酢媛命御陵の資料について」(『書陵部紀要』第19号、1967年)
1916年の盗掘復旧工事のさい、宮内省諸陵寮は、実測図や、副葬品の石膏模型・写真などを製作した。日葉酢媛の陵は、古代の前方後円墳式陵墓のなかでは資料がもっともととのっている。
狭木の寺間陵である前方後円墳は、前方部三段築成、後円部三段(または四段)築成。長さ207メートル、前方部の長さ85メートル、前方部の幅87メートル、後円部径131メートル。後円部に比し、前方部がそれほど発達していない。円筒埴輪もⅡ式といわれるもので、四世紀型の前方後円墳である。高さは、前方部が12メートル、後円部が19メートル。濠がめぐる。
竪穴式石室は、内法(うちのり)が南北8.55メートル、東西1.09メートル、高さ1.48メートル。蓋石(ふたいし)は五枚あり、そのうち三枚には、縄掛突起(なわかけとっき)[石棺の蓋(ふた)と身を結びつけるための突起]がある。上に屋根形石をおく。
石室をおおって方丘を築き、方丘上にきぬがさ形埴輪が七、八基あったという。
きぬがさ形埴輪は、日本古来のきぬがさを模したものといわれる。
副葬品のおもなものは、鏡が五面[内行花文鏡(ないこうかもんきょう)一面、方格規矩四神鏡(ほくかくきくししんきょう)二面、四獣鏡(しじゅうきょう)一面、不明一面]。うち、三面は、直径が三十センチをこえる大型のものであることが注目される。
また、碧玉(へきぎょく)、管玉(くだたま)一点、車輪石(しゃりんせき)三点、鍬形石(くわがたいし)三点、石釧(いしくしろ)一点、琴柱形(ことじがた)石製模造品二点、高坏(たかつき)形石製品二点、椅子形石製品一点、などが出土している。
なお、日葉酢媛の陵の所在地は、奈良市山陵町(みささぎちょう)である。佐紀盾列古墳群(さきたたなみこふんぐん)の一つである、佐紀陵山古墳である。その地図上の位置は、下の地図に示されている。
(下図はクリックすると大きくなります)
■「北和城南古墳」の出土品
垂仁天皇皇后の日葉酢媛の陵から盗掘されたものは、日葉酢媛の陵に埋めもどされた。 ところが、現在、「日葉酢媛陵盗掘団」が残した大量の盗掘遺物が、奈良国立博物館に残されている。
大量の盗掘遺物は、どれがどの古墳から出土したのか明らかでないので、一応、「北和城南古墳[北大和から山城(やましろ)南部にかけての地にあったとみられる古墳の意味]出土品」と名づけられている。
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「北和城南古墳」から出土した品物のリストと写真とが、『鹿園(ろくおん)雑集』第六号(『奈良国立博物館研究紀要』、2004年3月)所載の井口善晴(いのくちよしはる)氏の「資料紹介 北和城南古墳出土品(奈良国立博物館蔵)」におさめられている。
出土した品物を整理すれば、つぎのようになる。
「北和城南古墳」からの出土品
(1)三角縁四神四獣鏡……一面。直径25.9センチ(この鏡は奈良県の佐昧田宝塚古墳からの出土鏡、兵庫県の森尾古墳からの出土鏡、徳島県板野郡板野町吹田出土鏡などと同型鏡とみられている)。
(2)半円方形帯四乳鼉竜鏡(だりゅうきょう)……一面。直径24センチ。
(3)変形四獣鏡……一面。直径13.6センチ。
(4)半円方形帯神獣鏡……一面。直径14センチ。
(5)耳鐶(じかん)[イヤリング。開きのある環で耳たぶの両がわから圧してとめる]……黄金製。
(6)管玉(くだたま)[装身具の一種]……総計88個。うち、碧玉製87個、ガラス製1個。
(7)棗玉(なつめだま)[装身具の一種]……89個。滑石製。
(8)小玉(こだま)[装身具の一種]……約240個。ガラス製。
(9)紡錘車(ぼうすいしゃ)……4個。碧玉製。
(10)石突(いしづき)[槍・矛(ほこ)などの長い柄の下端につける金具]様(よう)石製品……1個。碧玉製。
(11)鍬形石(くわがたいし)[腕飾りの一種」……9個。碧玉製。
(12)車輪石(しゃりんせき)[腕輪の一種]……16個。碧玉製。
(13)石釧(いしくしろ)[石製腕輪の一種]……28個。うち、碧玉製27個。滑石製1個。
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これらの盗掘遺物のリストおよび下の写真(掲載写真は盗掘遺物写真の一部)を見ると、つぎのようなことがうかがえる。
(1)「北和城南古墳出土品」は、ある種のまとまりがある。一括遺物で、ほとんどが、一つの古墳から出土したもののようにみえる。
(2)「北和城南古墳」は、おもに、四世紀代に築造された古墳のようにみえる。
造出(つくりだ)しのある古墳は5世紀型古墳で、三角縁神獣鏡が出土する古墳は4世紀型古墳である。
(下図はクリックすると大きくなります)
このように、今回テーマにした4世紀に造られた古墳にはいろいろな特徴がある。