根本的に対立する二つの立場の、一方に組する宣伝番組になっている。
公共放送としての中立性が保たれていない。
大本営発表は勇ましいが、戦果は、あがっていない。
国民に、どこまで追銭(おいせん)を支払わせるつもりなのか。
■第Ⅰ部
告発・三兆円は高すぎる!!
旧石器捏造事件の告発者、竹岡俊樹氏は、その著『考古学崩壊』(勉誠出版、2014年刊)の中で、緊急発掘に関連してのべる。
注:緊急調査(きんきゅうちょうさ)とは
今日の発掘の大部分を占めるもので、開発に伴う工事などにより遺跡が破壊されるおそれがあるとき、こうした工事などに先立って緊急に実施される発掘調査。これには、周知の遺跡に工事などがかかるために実施されるもの(文化財保護法第57条の2,3)と、工事中などに新たに遺跡・遺物が発見されたことによって実施される不時発見に伴うものとがある(この場合は文化財保護法第57条の5、6にしたがい遺跡発見届を提出したのち、第57条の2,3による発掘調査となる)。いずれにせよ、後続する開発行為によって遺跡が失われてしまうために、最低限記録保存だけは行おうというもの。
[大塚初重・戸沢充則編『最新日本考古学用語辞典』(柏書房、1996年刊)]
「二兆円の税金をかけて発掘し死蔵されている山なす資料・・・。」
「二兆円と職員たちの努力をどぶに捨てるか・・・。」
ここに「二兆円」という数字が出てくる。
ただ、これは、竹岡俊樹氏の本が刊行された2014年の頃までの金額である。インターネットで、文化庁文化財第二課がまとめている『埋蔵文化財関係統計資料』[令和五年(2023年度)]をみると、緊急発掘調査費の。推移は下図のようになっている。
(下図はクリックすると大きくなります)
緊急発掘調査費用の合計で、考古学関係に流れ込んでいる金額の合計は、令和五年までに、ゆうに三兆円を超えている。
平成九年(1997)度の1321億円をピークとして減ってきているが、それでも令和四年(2022)で、602億円である。
参考までに科学研究費(科研費)の予算額の推移を、インターネットによってみると、下図のようになっている。
(下図はクリックすると大きくなります)
科学研究費は、自然科学から社会科学までの全分野にわたる学術研究を発展させることを目的とするものである。
上の二つのグラフの金額そのものを、直接比較することの意味には問題があるが、推移の状況を比較することにはある程度の意味があるのであろう。
平成十年(1998)においては、緊急発掘調査費は、1258億円、科研費は1179億円で、緊急発掘調査費が科研費を上回っている。その後、緊急発掘調査費用は減少し、科研費は増大する。
令和四年(2020)は、緊急発掘調査費は602億円、科研費は2533億円で、緊急発掘費は、科研費の1/4以下となっている。いずれにせよ、相当な金額が考古学の分野に流れ込んでいる。
考古学者の細谷葵(ほそやあおい)氏(女性、1967年~2019)は、お茶の水女子大学の特任准教授をされていた方で、若くしてなくなられた。
細野葵氏は竹岡俊樹氏と同じく外国留学の経験のある方で、1996年当時に、ケンブリッジ大学留学中に「理論なき考古学-日本考古学を理解するために」という報告文を発表されている。
この報告文は、1997年に岡山大学名誉教授の考古学者の、新納泉(にいろいずみ)氏がインターネットで紹介されている。容易に見えることができる。
細谷葵氏は、この報告文において、「日本考古学における『理論』の欠如」を指定し、「提示されているものは、説明も議論も伴わないバラバラのデータの山積み」で、これは「日本考古学の独特のあり方」であり、欧米と日本とが、「根本的に異なる原理において進められているということ」を指摘しておられる。
細野葵氏のこの指摘は、竹岡俊樹氏の二兆円の税金をかけて発掘し死蔵されている山なす資料」という指摘と共通するところがある。
東京大学名誉教授の上野千鶴子氏は、その著『情報生産者になる』(筑摩書房新書、2018年刊)の中で、つぎのようにのべておられる。
「社会科学は経験科学です。信念や心情に基づいて主張を唱えるのではなく、検証可能な事実にもとづいて根拠ある発見をしなければなりません。私はゼミの学生にしょっちゅう『あんたの信念を聴いていない』と言ってきました。『それは何を根拠にいうの?』とも、しつこいぐらいに聞きました。根拠のない信念はただの思い込み、『偏見』ともいいます。」
科学としての歴史学や考古学もまた、そうでなければならない。
日本の考古学は、いろいろな意味で、世界の考古学の中で、かなり特殊な考古学になっている。個々の遺跡・遺物の詳細な記録に熱心であるが、個々のデータは、みずからの思いつきや、思い込みにあう情報をとりだすための材料となっている。自らの先入観や思いこみにあうデータをさがしだすことに熱心であって、不都合なデータは無視する傾向がある。
データの示す情報によって「歴史」を「客観的に」「総合的に」構成して行く方法と理論とを発展させていない。客観的な実在である「過去」を、客観的に探求する形になっていない。客観的に探求する方法を開発していない。主観的に「解釈」するものとなっている。
これは上野千鶴子氏のいう「検証可能な事実にもとづく根拠のある発見」を行うのとは別のものである。
他の分野の科学者たちの批判の声や、留学経験のある考古学者、竹岡俊樹氏や細谷葵氏の見解などに、考古学のリーダー諸氏は、もうすこし耳をかたむけてほしい。
考古学は、厖大な資金を費消しながら、社会への見返りがあまりにもすくない。
むしろ、誤った方向と認識とに基づき、迷路にはいりこみ、大本営発表をくりかえすようになっている。勝っていない戦争で、勝った勝ったと、大本営発表をくりかえし、さらなる戦費を国民に要求したかつての軍部に似てきている。
旧石器捏造事件を告発した考古学者の竹岡俊樹氏は、その著『考古学崩壊』(勉誠出版、2014年刊)のなかでのべる。
「八〇年代に始まるソフトウェア経済(軽薄短小)のなかで、町おこしとマスコミにすり寄って、考古学は学問としての考古学を失った。今はもう、学問としての考古学に期待してくれる『国民』など、どこにもいないのかもしれない。そして捏造事件にもみられた『インチキ性』は考古学全体を覆う現象であるという。」
考古学界(会)は、緊急発掘費用などは、当然与えられるものという一種の既得権にもとづいて、過去に行ってきたことをくりかえすのではなく、外部の有識者などの意見も取りい入れ、AIなどを生かし、主要な情報記録の自動化や、有効な情報抽出の効率化などにとりくみ、経費削減をはかって欲しい。
報告書などは、一定の様式というか、パターンを定めることができるはずである。
あるていどの自動化は可能なはずである。人員の削減なども検討してみてほしい。
報告書作成後、たととえば、十年間、他の論文、研究書などに、一度も引用、参考されることの無かった報告書は、どの程度あるのか。そのような報告書の内容分析などを行ない、その種の報告書の作成の簡略化を進めることはできないのか。
「緊急発掘費的なものの調査費用などの国際比較」も行ってみるなど、外部から見たワクグミみや基準も、検討してみてはどうか。
イタリアなどの古い歴史を持つ国において、緊急発掘の状況や費用はどうなっているのであろうか。
このような改革は、人員の削減や経費の削減をもたらす。費用や人員の差配権の縮小という痛みをともなう。しかし日本の考古学は、これまで、費用にふさわしい結果を出していない。
莫大な資金を費消しつづけながら日本の古代を知るための正確で有効な情報をもたらさない。
むしろ根拠のない誤った情報を、現在も、やたらにマスコミに発信し続けているようにみえる。
ミスリードするものであり、社会に被害を与えるものである。日本考古学はいったい何なのか。
21世紀のAIやデータサイエンスの時代に、19世紀ごろの感覚や方法で取り組んでいるようにみえる。
現状では、既得権益の上に安住しているとみられてもしかたないところがある。
改革を、考古学界(会)で行うことが難しければ、監督官庁の文化庁が、国費を用いて国家プロジェクトとして行ってはどうか。外部有識者の力を借りて行えば。数億円ていどの経費で百億円単位の経費削減をもたらす可能性がある様に見えるが。
NHKをはじめとするマスコミにも、大いに問題がある。
われわれ庶民のばあい、百円、千円、一万円ていどまでのことはよくわかる。日々節約に節約を重ねながら、百万円、一千万円、一億円ていどになるとよく分からなくなり、詐欺話にまきこまれ、退職金や親の遺産を、一挙に失なう、というような話をよくきく。
マスコミ人も一千万円、一億円ていどのことはよくわかり、自民党の政治資金パーティのことは、連日大騒ぎして報道する。しかし、数百億円、数千億円、数兆円というような話になると、何のことか、よくわからなくなっているのではないか。
日本国民よしっかりせよ。
日本考古学には、すでに、旧石器捏造事件でだまされた経験があるではないか。
政治家と異なり、わが国の考古学者は、だれ一人責任をとっていない。
マスコミも、藤村新一氏の捏造石器による50万年前、70万年前という年代くり上げ報道で売上をのばし、それが捏造であったとの報道で売上をのばし、マッチポンプで売上を伸ばし、被害を受けていない。
かかった費用のつけは、全部国民にまわされている。
同じような話しに、何回ものるな。追銭(ついせん)を払うな。
思いつき、思い込みにもとづく空想話に、これ以上のるな。
ことの軽重の判断を誤るな。微(び)[細部]にとらわれて著(ちょ)[顕著なもの]を見失うな。「木を見て森を見ず」ということばもあるではないか。
NHKの番組『チコちゃんに叱られる!』で、チコちゃんはいっている。
「ボーっと生きてんじゃねーよ!」
革命家、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)は、『二十世紀の怪物帝国主義』をあらわした。現代の私たちは、『二十一世紀の怪物日本考古学主義』に対抗する必要にせまられている。
マスコミで大きくとりあげられたところには、大きな予算がつく傾向が生じた。考古学研究者は、マスコミにとりあげられてもらうことに熱心となり、話題性を求めて、年代などは古い方へ、古い方へひとり歩きする傾向を生じた。
データをまとめて行く数理統計学の方法などが考古学の分野では、基礎教育として、きちんと導入されていない。そのため、データは、細谷葵氏のいう「とらえどころのない膨大なデータの氾濫」状態となる。
とらえどころのないものは、なんとでも解釈できる。
膨大なデータの中から、あらかじめみずからがもっている自説に、都合のよいものだけをとりだすことになる。それで自説が「検証」されたと考える。
ここでは、自説に好都合なものがどのていどあり、不都合なものがどのていどあるかが、客観的に評価されていない。かくて、強い主張、ためにする言説、「空気」に流されやすくなる。これでは「検証」にならない。
かくてデータから思いつく感想、あるいは空想が、肥大化して行く。古代史が、現代人の創作する作り話、あらたな「神話」に近づくことになる。
話題性の提供によって得られた多大の予算は、「多くは死蔵される報告書」の作成のために費消されることとなる。
ポイントをきりかえ、もっときちんと検討せよという科学者などの声は、かき消されがちとなる。
かくて考古学は科学的な根拠にもとづく探求よりも、マスコミ対策の方に熱心となる。
考古学がマスコミと密着して、科学ばなれをおこしている。きちんとした根拠を提出しなくてもよいものとなっている。
かくて、質の高い考古学者たちの声は、喧噪の中でかき消されがちとなる。水が低きにつくように低俗化し、しだいに怪物めいた様相をおびてくる。
しかし、考古学関係の人も、マスコミ関係の人も、旧石器捏造事件のときにそうであったように、科学や、学問や、真実を求めることに無関心な人ばかりではない。そのために、以上に述べたような方法は、必ず破綻する。
マスコミによって立つものが、マスコミによって滅びることとなる。
■第Ⅱ部
「倭王讃=応神天皇説」について
倭の五王とそれに関した日本の天皇を記した文献は下記のようになっている。
また、倭の五王を歴代の天皇に比定する説は下記の表を参照
(下図はクリックすると大きくなります)
2022年2月21日『毎日新聞』夕刊の「今どきの歴史」に下記の記事がある。
「倭の五王」の謎に迫る新説
古代史の難題、「倭の五王」を巡る刺激的な論考が出た。新納(にいろ)泉・岡山大名誉教授(日本考古学)の「『日本書紀』紀年の再検討~応神記紀・雄略紀を中心に」。昨秋、「考古学研究」誌270号(2021年8月)で発表した。従来にない論法で『倭王讃(さん)』を応神天皇と推定するなど、古代史の大幅見直しを促す可能性がある。
・倭王讃を応神天皇に比定することによる矛盾
NHKの放映第2集において、倭王讃に、応神天皇をあてているのはよい。賛成である。しかし、この説をとると、古墳の築造年代など、古代の年代を、NHKの放映の全体的ストーリーの年代よりも、下げなければならなくなる。箸墓古墳の築造年代を、三世紀に持っていったり、箸墓古墳を卑弥呼の墓にあてたりすることは困難となる。つまり、今回のNHKの放映の第1集目の内容と第2集目の内容とで、年代が合わなくなる。相互に、矛盾したものとなる。
『日本書紀』は箸墓古墳は第十代崇神天皇の時代に、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓として築造されたものであると記す。
徳島文理大学の教授や香芝市二上山博物館の館長をされた考古学者の石野博信氏は述べる。
「箸墓というのは倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)という女性の墓といって、日本国の最初の天皇、御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)という初めて国を治めたスメラミコト、天皇と呼ばれる崇神天皇のときに箸墓はつくられたということが『日本書紀』に書いてあります。『日本書紀』は奈良時代につくられた日本の最初の歴史の本ですが、古墳築造のことが書いてある非常に珍しい部分です。
そこに書かれている伝説によると、箸墓は、『昼は人作り、夜は神つくる』と書いてあり、それほど突貫工事だったのだろうと思います。そして、古墳の上に敷き並べた石は逢坂山の石を手越(たご)しにして運んだ。これも有名な話ですが、逢坂山の石をリレー式にして運んだ。逢坂山とは二上山である。
二上山と三輪山の間は十四、五キロあります。その間に人がずらっと並んで、一人一メートルだとすると何人になるでしょうか、ずらりと並んでリレー式に逢坂山の石を運んだんだと書かれています。
今、箸中山古墳(箸墓)は宮内庁が、崇神天皇のおばさんの墓だからということで、管理しています。宮内庁が時々埴輪などの資料を採集して発表している記録によると、箸中山の上に乗っている石は逢坂山、二上山周辺の石であることが十数年前に岩石学的にも証明されました。
そうすると、『日本書紀』に書かれた伝説はうそではない。ほんとのことが奈良時代まで伝わっていて、『日本書紀』に記録されたということがわかります」[以上、石野博信著『三輪山と日本古代史』(学生社、2008年刊)による。]
石野氏は大塚初重他編の『日本古代遺跡事典』(吉川弘文館、1995年刊)の中で、やはり次のように記す。この文で、「伝承と一致する」というのは、『日本書紀』の記述と一致する、という意味である。
「箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市(おおち)墓に比定されており、宮内庁が管理している。
同墓について『日本書紀』崇神天皇十年九月の条には『日(ひる)は人が作り、夜は神が作った。大坂山から人々が並んで手送りで石を運んだ』という古墳築造説話が記録されている。
箸墓古墳の葺石は黒雲母花崗岩と斑糲岩(はんれいがん)で近くの初瀬川から採取されたらしいが、石室材はカンラン石輝石玄武岩で大阪府柏原市国分の芝山産と推定され、伝承と一致する」
また、考古学者の森浩一氏も、『考古学と古代日本』(中央公論社、1994年刊)で、述べている。
「芝山の石 近畿地方の古墳の用材や古代寺院の用材について、産地の研究をしている人に奥田尚(ひさし)氏がいる。これほど山野を歩きまわっている人は少なく、”この石は各地にあるが、畳一枚大の用材としてきりだせるのはどこそこしかない”と、ずばり答えてくれる研究者である。奥田氏は、箸墓について、陵墓という制約で直接の検討はできないまでも、指定地外になっている墳丘裾の観察をしている。それによると、墳丘をおおっている大量の葺石(ふきいし)は古墳の所在地付近の土中に多数含まれているのにたいし、後円部頂上の石室の用材の一部も散乱している。それは、奈良県から大阪府へすこし入った大和(やまと)川左岸にある芝山(大阪府柏原市)の頂上部にしか産出しない芝山火山岩(カンラン石玄武岩)であることをつきとめた。芝山の所産地は、大坂の古称のあった地域に含まれるから、箸墓説話は、用材の産地について正しくいい伝えていたのである」
この引用文の傍線部で、箸墓古墳の後円部頂上の石室の用材は、二上山周辺から採られている、大坂の古称のあった地域に含まれる芝山から採られているから、『日本書紀』は正しく言い伝えているということを、森氏は述べている。すると『日本書紀』に記述された伝承には、ある程度本当らしさがあることになる。
石野・森両氏の語るように、『日本書紀』の記述と一致する岩石学的事実もあることから、箸墓は伝承どおり、崇神天皇の時代前後に築造されたと考えるのが自然である。
箸墓古墳を卑弥呼の墓に比定した最初の人は、徳島県の旧制脇町中学校(現脇町高等学校)の国漢地歴の教諭であった笠井新也氏であった。
笠井新也氏は、卑弥呼の墓に箸墓古墳をあて、卑弥呼の時代は、わが国の崇神天皇の時代にあたると考えた。
・笠井新也「卑弥呼即(すなわ)ち倭迹迹日百襲姫命(一)」[『考古学雑誌』第十四巻第七号、大正十三年(1924)4月]
笠井新也「卑弥呼の塚墓と箸墓」[『考古学雑誌』第三十二巻第七号昭和十七年(1942)七月]
倭王讃に、応神天皇をあてると、崇神天皇の時代を卑弥呼の時代にあてることは困難となる。
(下図はクリックすると大きくなります)
2013年に、百四歳でなくなった東京大学教授であった考古学者、斎藤忠氏は、つぎのようにのべている。
「今日、この古墳(崇神天皇陵古墳)の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃あるいはこれよりやや下降することを考えてよい。」
「崇神天皇陵が四世紀中頃またはやや下降するものであり、したがって崇抻天皇の実在は四世紀の中頃を中心とした頃と考える……。」
斎藤忠氏は、またのべている。
「『箸墓』古墳は前方後円墳で、その主軸の長さ272メートルという壮大なものである。しかし、その立地は、丘陵突端ではなく、平地にある。古墳自体の上からいっても、ニサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)、向山(むかいやま)古墳(景行天皇陵古墳)よりも時期的に下降する。」
「この古墳(箸墓古墳)は、編年的にみると、崇神天皇陵とみとめてよいニサンザイ古墳よりもややおくれて築造されたものとしか考えられない。おそらく、崇神天皇陵の築造のあとに営まれ、しかも、平地に壮大な墳丘を築きあげたことにおいて、大工事として人々の目をそばだてたものであろう。」(以上、「崇神天皇に関する考古学上の一試論」『古代学』13巻1号、1966年刊)
斎藤忠氏が、ここでのべていることを整理すれば、つぎのようになる。
(1)崇神天皇は、四世紀の中ごろに実在した人と考えてよい。
(2)崇神天皇陵古墳は、崇神天皇の陵と考えてよい。
(3)崇神天皇陵古墳の築造の時期は、「四世紀の中頃または(それを)やや下降するもの」と考えられる。
(4)崇神天皇陵古墳は、丘陵地形を利用した丘尾切断形の古墳である。これに対し、箸墓古墳は、「丘陵の突端ではなく、平地にある」もので、「平地に壮大な墳丘を築きあげた」ものである。このことからみて、箸墓古墳の築造された時期は、崇神天皇陵古墳の築造の時期よりもあとである。つまり、箸墓古墳の築造の時期は、ほぼ四世紀の後半ということになる(この見解が正しいとすると、箸墓古墳の築造の時期と、卑弥呼の死亡の時期とは、百年以上の差があることになり、箸墓古墳を、卑弥呼の墓にあてる説などは、とうてい成立しないということになる)。
また、筑波大学の教授であった考古学者の川西宏幸氏は円筒埴輪の編年にもとづき、崇神天皇陵古墳の時期を、西暦360年~400年に位置づけておられる[川西宏幸著『古墳時代政治史序説』(塙書房、1988年刊)37ページ]。
考古学者の森浩一・大塚初重両氏も、崇神天皇陵古墳を、「四世紀の中ごろまたはそれをやや下るもの」としている(『シンポジウム 古墳時代の考古学』学生社、1970年刊)。
森浩一氏は、その著作集の第1巻『古墳時代を考える』(新泉社、2015年刊)の87ページで、つぎのように記す。
「崇神陵の構築年代は、四世紀中頃から後半とするのが妥当てある。」
橿原考古学研究所の所員であった考古学者、関川尚功(せきがわひさよし)氏も、崇神天皇陵古墳の築造年代を四世紀後半~五世紀初頭とする(「大型前方後円墳の出現は、四世紀である」『季刊邪馬台国』42号、1990年刊)。
また比較的最近では、天皇陵研究で著名な、成城大学教授の外池昇氏が、つぎのようにのべている。
「現代の考古学では、現崇神陵(行燈山古墳)の築造は現景行陵(渋谷向山古墳)よりやや古く、被葬者は崇神天皇だろうとする見解が優勢になりつつある。」
「崇神。景行陵天皇の治定だけでなく、崇神・景行両天皇の実在を肯定する流れになっているのだ。」[以上、「崇神天皇陵」(『歴史道』「古墳と古代天皇陵の謎」週刊朝日 MOOK VO1.32,2024年3月刊)]
このように、今回のNHKの放映は、森浩一氏や、斉藤忠氏など、日本を代表するといえる著名な考古学者たちの説を、まったく無視し、「邪馬台国畿内説派」の主張に一方的によりかかって番組制作が行われている。(森浩一氏や斎藤忠氏が「邪馬台国九州説」の立場なので、意図的に紹介しなかったように見えてしまう。)
しかし、すでにのべたように、箸墓古墳の築造年代を三世紀としたり、卑弥呼の墓に比定する説と、「応神天皇=倭王讃説」とを両立させるのは、年代的に無理がある。
こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらが立たない形になる。
このように、今回のNHK放映の古代ミステリーのストーリーにはいたるところに矛盾がある。
それは、年代論を誤り、日本がわの文献を無視することによって生じている。
NHKの放映では、四世紀については、記録がなく、「空白の世紀」になるというのが誤りである。「看板に偽りがある」ことになる。
『古事記』『日本書紀』の記録する崇神、垂仁、景行天皇のころが、四世紀についての記録である。箸墓古墳築造についての記録、大彦の命をはじめとする四道将軍派遣の記録(大彦の名は埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文の中に見えている)、日本武の尊(やまとたけるのみこと)の東国征討の記録などは、四世紀についての記録とみられる。崇神天皇、景行天皇の実在をみとめれば、四世紀は「空白の世紀」などにはならない。これらの天皇こそが、四世紀後半の諸天皇で、立派な古墳も存在しているのである。
そもそも「纏向」の名は『魏志倭人伝』にはいっさい見えない。いっぽう垂仁天皇の師木(しき)の玉垣(たまがき)の宮や、景行天皇の纏向の日代(ひしろ)の宮は、「纏向に都つくる」と記されている。
ホケノ山古墳や箸墓古墳をはじめ、纏向遺跡のほとんどは、四世紀を中心とするころの遺跡とみられる。
NHKの放映は、「邪馬台国畿内説」派の人々の誘導により、年代比定を、大きく誤っているために、四世紀が、「空白の世紀」となるのである。
纏向のあたりは、まだ数パーセントしか掘っていないから、もっと掘りましょうなどという言葉も聞く。
「オレオレ詐欺」という言葉がある。
「オレオレ」と「掘れ掘れ」は、言葉の響きが似ている。気をつけるに越したことはない。
日本考古学は、巨額の費用をかけて、迷路を掘り進めている。
得られた資料、データをきちんと整理して、客観的、科学的に「歴史」を構成する方法を知らないのである。
思いこみ、思いつきによって、あらかじめ定められた結論にもとづいて「解釈」することを、くりかえしている。
日本国民よ、目を覚ませ。しっかり見よ。
おごれる考古学は、久しからず。大本営発表を繰り返している考古学は久しからず。
■狗奴国=東海説に対する結言
同志社大学教授であった考古学者の森浩一氏は、その著『記紀の考古学』(朝日新聞社、2000年刊)の46ページ以下で、つぎのようにのべている。
「倭人条では、狗奴国は女王国の南に位置している。近ごろ、狗奴国を女王国の東にあるとして、狗奴国尾張(おわり)説がしきりに登場するが、これは邪馬台国をヤマトだということを不変の原則として、倭人条の文章を改変しているのである。」
「文献学の基礎にはいささかも関心を示さず、邪馬台国ヤマト説にだけ関心をもつ一部の研究者にはあきれるほかない。」
前回のNHKの放映では、狗奴国については、森浩一氏が「あきれるほかない」とのべている説をメインにすえて、番組が制作されているのである。まことに「あきれるほかない」。