科学上、学問上の真実は、「証明」によってもたらされる。「宣伝」や「PR」によってもたらされることはない。
本誌本号では、今、騒動となっている「箸墓古墳は、卑弥呼の墓である」とする説が成立しないことについての「証明」を、科学的、統計学的要請を満たす形で行なう。
それにしても、今回の騒動はひどい。
今回の騒動の火つけ役は、朝日新聞社の渡辺廷志記者である。
本誌100号、101号では、国立歴史民俗博物館(以下、「歴博」と記す)の、炭素14年代測定論にまつわる数々の疑問を指摘した。このような基礎的、基本的検証をないがしろにした研究に、何億もの国税をそそぐことは、国税をドブに捨てているようなものであることを、根拠をあげてのべた。
本誌100号、101号は、渡辺延志記者にも送られている。そこには渡辺記者の記事のまとめ方の粗さを指摘した文があった。
かねてから、強固な「邪馬台国畿内説」の立場にたつ渡辺延志記者は、おそらく個人的な心情もあったのであろう。本誌が根拠をあげて示している学問上、科学上の疑問に答えることなく、「邪馬台国畿内説」の危機とばかり、歴博の「箸墓古墳は、卑弥呼の墓である」説を、宣伝・PRする挙にでた。
その結果、朝日新聞が報じているのなら、ということで、他の新聞がつづき、NHKのニュースとなり、今回の大騒動となった。
ただ、旧石器捏造事件をスクープした『毎日新聞』などは、冷静かつ確実に、歴訪の発表の問題点をくわしく報じている。
おそろしいことである。
炭素14年代が示す客観的データは、箸墓古墳は、卑弥呼の墓ではありえないことを、高い確率で示しているのに、朝日新聞の一記者が、卑弥呼の墓であるときめてしまうのである。結果的には、誤報に、かぎりなく近い。
日本の古代史が、一新聞社の一記者の、独断と恣意によってつくられて行く。
朝日新聞社は、その責任がわかっているのであろうか。
一記者の独走によって、このようなことが可能になる新聞社のシステム、社会構造じたいを、私たちは、強く認識すべきである。
ここには、三権分立のような、権力の濫用をふせぐ、なんのしくみもない。
無法が、まかり通る形になっている。
心ある学者なら、憤慨すべきである。
不勉強な一記者の判断・発表の権利が、一つの学界全体を壟断(ろうだん)できる形になっている。
一つの学問分野全体を、しきることができる形になっているのである。
かくて、学問や科学が新聞社という虎の威をかりる人々によって進められる形になっているのである。
『朝日新聞』は、「声」欄などに、たとえば、早速、次のような投稿をのせている。
「卑弥呼の墓の可能性があるという奈良地方の前方後円 墳が、卑弥呼と同一の年代のものであることがわかり、 国民的関心事となっている。」(2009年6月12日)
誤りである。
「同一年代のものであること」などは、わかっていない。
新聞は学術雑誌と異なり容易には反論を載せないという、言論上の不均衡性、暴力性を潜在的にもっている。
この暴力性を用いれば、反論を封殺できると、渡辺記者は、思っているのであろう。
しかし、このようなことで、科学者たちが沈黙することのないことは、科学の歴史をみれば、明らかなことである。
朝日新聞社には、有能な記者もすくなくないが、記者として必要な判断力、公平性、調査力、分析力を欠いた記者もいるのである。
信奉する自説を守らんとして、結果的には、社会的不正にきわめて近いものに、進んで加担していることになる。
ここには、論理も、証明も、証拠も、いっさい通じない世界がある。
「一たす一は二」であっても、マスコミでPRすれば、「一たす一」は三にでも五にでも、なりうるど思いこんでいる。
この記者は、どのような「証明」「検証」も、「証明」「検証」ぬきの数千字の新聞記事で簡単にふきとばせると信じている。
このような記者に、マスコミの暴力性や影響力を付与することは、子どもに、刃物をもたせるようなものである。
旧石器捏造事件では、一部の学者の思いこみと、それに最大限利用されたマスコミとの共同作業とによって、話がどんどん進んだ。 個々の学者は、一般的にはおとなしく、またマスコミほどは影響力をもちえないので、歯どめがきかなくなって、大惨事となった。
「検証」よりも、「報道」が先にたっておきた惨事であった。
「表現の自由」というが、個々の学者には、表現の機会や、反論の機会は、新聞記者の何百分の一以下しか与えられていない。
だからこそ、良識のある記者は、慎重の上にも慎重に、筆を運ぶのである。
民主主義の時代、私たちは、自由と平等を愛する。
記者は、容易に、言論の世界の暴君たりうる。
今、科学の、研究・発表の、自由なる権利、および平等なる権利は、大きく不当におかされている。
このような方法が通れば、学界で議論・検証するよりも、記者個人と結びつくほうが、自説の主張に都合がよいと考える学者もでてくる。
不勉強、かつ信じこみやすく、かつ独断的なタイプの記者に、いかにセンセーショナルな話を売りこむかの競争、ということになる。
危いかな。学の独立や。学の健全な発展は、保たれうるのか。真実は、守られるのか。「証明よりも宣伝」をふせぎうるか。
一匹の悍馬ありて奔る。御するものなし。ために、わが国の考古学界も古代史学界も、引きずりまわされている。
この悍馬は、自分が、なにをしているのか、わかっていないのである 多くの学者たちの、長年の研究によるさまざまな見解を無視してつっぱしっている
戦時中、だれも軍部をとめられなかった。今、日本考古学界、日本古代史学界では、だれもこの一匹の悍馬をとめることができない。
軍は武力をもっていたが、悍馬は、マスコミカをもっている。ともに、鼻いきは荒い。昔陸軍、今朝日。無理が通れば、道理ひっこむ。これでよいのか。
ニセメールを信じこんだ永田町の議員にも近い、思慮を欠いた悍馬がひきおここした馬鹿馬鹿しくもなげかわしい大騒動である。
今回の騒動に、だれがどのような形で責任をとるのか。
旧石器提造のような事件は、いくたびくりかえされることになるのか。学問の恥、科学の恥を、またもやさらすのか。
小誌は小なりといえども、みずからの存在の意味を、果たしつづけるであろう。
だれかが、悍馬の暴走のまえに、手をひろげなければならない。
学に忠なるもの、立つべし。
暴力追放のキャンペーンは、言論の世界においても必要である。
事実と真実とを伝えよ。記者が、記者魂を失っても、研究者は、研究者魂を失ってはならない。
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