原稿用紙わずか五枚程度のガイドブックを頼りに、「九州口」と「近畿口」という大きな登山口のほか、さまざまな登山口から多くの人が登りはしめた。
みな自分の道こそが正しいとおもって登りつづけた。
しかしながら、もともとそのガイドブックは、中国人が中国人のためにつくったものであった。不備が多く、途中で道が消えたり、違う場所に出たりする。登山者たちは口角泡を飛ばして議論し、七〇年たっても頂上にたどり着けないでいる。
これが、戦後の邪馬台国論争の実態ではないか。
邪馬台国という山は、いったいどんな山なのか。邪馬台国と関係のない地域の人----北海道や東北の人びとが登ることが許されない山なのか。古代の天皇が登ることが許されない山なのか。そもそも、日本語のガイドブックを持参することが許されない山なのか。
もし、『魏志倭人伝』がなかったとしたらどうであったろうか。
おそらく、『古事記』『日本書紀』など日本固有の文献に対する研究が飛躍的に進み、全国津々浦々の地域史もまた目を見張るような進展を遂げていたであろう。
七〇年もあれば、列島各地のピースが集められ、それらを組み合わせた古代史のジグソーパズルがあらかた出来上がっていたかもしれない。そして、その中心部に邪馬台国の姿がくっきりと浮かび上がっていたかもしれない。各地域が相互に補完し合う、美しく豊かな古代史の世界が姿を見せ、それを日本全体が共有していたかもしれない。
邪馬台国という一つのボールの争奪をめぐって、これほど日本国民が分断されることもなかったろう。
われわれ日本人は、戦後の第一歩を間違えたのではないか。古代史の混迷は、『古事記』『日本書紀』を、歴史の世界から追放したそのことに起因しているのではないか。
わが家の歴史を書くのに、どうして隣の家の資料を優先するのか。祖父が問題を起こしたら、孫はわが家の資料を用いることができないのか。
「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」
という総理大臣談話は、古代史の世界にも向けられている。
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