この雑誌の、読者層の大半はアマチュアの歴史マニアである。アマ達は、歴史の勉強以外に生業を持っている、或いは持っていた。そしてその生業を通じて報酬を得て、税金を払い、社会に貢献してきた。その余暇にプロの学者先生達が築き上げた学問の成果を受けて、その蓄積を学び、想像力を駆使して歴史を理解し自説を展開しているのである。アマであるから多少奇想天外な説を唱えても許される。自らの故郷に邪馬台国を比定し、我田引水の論を立ててもある程度は大目に見て貰える。しかし学者の先生達はそうはいかない。なぜならプロだからである。
プロが学問の対象に主観を注ぎ込み、データを曲解し、読者を自説へ導くなどは決して許される行為では無い。勿論、公表されたデータに基づく学問上の推論や自説の展開はその限りでは無い。しかし、最近の歴史・考古学学者達の中には、郷土史家と見間違うような人達がいる。
自分の生まれ育った故郷に愛着心を持つのはいい。しかしその為にデータを客観視できず、都合の悪い指摘には目をつむり、主観と、時にはイデオロギーで論客を葬り去ろうとする。これは、巨人戦となると見境無く球場で相手を罵倒する阪神ファンの心理に似ている。歴史学者や考古学者は郷土史家であってはならない。それをすると、自らが学ぶ学問の意義も、崇高な学究心をも地にまみれさせる事になってしまう。
私事だが、奈良の知人達の中に典型的な二人がいる。二人とも、奈良県生まれ奈良県育ち、奈良で教職にあり一人は化学の先生もう一人は物理の先生という理科系の人間である。二人とも郷土愛は強い。しかし一人は邪馬台国九州説、一人は奈良説である。ある時奈良説の物理の先生と私の間で議論になった。彼は古代文化が西から来たということを認めないのである。「じゃ先生、先生は稲作や青銅器や古墳はどっから来たと思うの?」という私の問に、彼は堂々と「奈良に湧いて出たんです」と言うのである。私は二の句が継げなかった。冗談交じりかも知れないが、それにしても彼はそう思いたいのである。物理の先生だ。ここまで来るともう議論は出来ない。信じこんでいる、或いは信じたい人を相手に説得するのは至難のわざである。
二人は歴史に関してはアマチュアだから百歩譲ってまあ容認しても良い。しかし最近近畿圏の、特に考古学者達の中にこの物理の先生と同じ様な印象を受ける学者がいる。それはまるで、ダーウィンが進化論を唱えた時に、「人間が猿から進化したなど絶対あり得ない」と主張した宗教者のようだ。
学問においては客観性は命である。これをより高める事こそ学問の目的である筈だ。万民が納得できるステップを踏んで自論を展開しなければならない。求められるのは良識だ。歴史学者は郷土史家であってはならないのである。
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