ひと昔前、縄文時代の一般的なイメージは、「みすぼらしくて、なにか不潔であわれな縄文人が、森や林の片隅で、あるいは海や河の狭い岸辺で、ほそぼそと暗くじめじめした原始生活を続けていた(戸沢充則『道具と人類史』新泉社、2012年刊)」だったという。それは現在の縄文の平均的なイメージとさほど変わっていないのかもしれない。
岡本太郎が縄文土器を東京国立博物館で「発見」するまで、縄文土器は工芸品として、考古学的な意味でしか視線をあびてこなかった。火焔土器に代表されるように、ゴテゴテと装飾された土器は日常的に使いやすいものではなかったかもしれない。
それでも縄文人たちは、派手な装飾の縄文土器を作った。それを無駄と考えるのは甚だ見当違いに思える。装飾しない土器のほうが、簡単に作れるし、使い勝手もよいことを知らないはずはない。それでも縄文人たちは縄文土器を作ったのである。そこに縄文人たちの豊かな心性を感じずにはいられない。
岡本太郎が縄文土器をはじめとする縄文文化を美術・芸術として再発見して以来、少しずつ縄文のイメージは変わっていったのかもしれない。そして今、これまでの縄文史観をさらに覆すような、新たな実像が次々と浮かび上がりつつある。
我々の祖先は、旧石器時代に「意図的な航海」によって3方向から日本列島にやってきた海洋民であったこと。縄文といえば関東・東北の印象が強かったところに発見された東名遺跡から見えてきた、農耕民に負けない豊かな定住生活を営んでいた縄文人の生活様式。さらには、狩猟採集民だと思われていた縄文人が農耕を行っていたことも示唆されている。
そんな最新研究を伺えば伺うほど見えてくるのは、縄文人たちの文化度の高さであり、縄文「文明」論がささやかれるほど豊かだった縄文社会の姿である。
豊かな心性と生活様式を持った縄文人が、その後に大陸からやってきた渡来系の人々と交わり、独自の文化文明を発達させていった。それが邪馬台国前史とも言える、新たな縄文史観なのではないだろうか。