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安本美典  

考古学における「論」と「証拠」

(季刊邪馬台国79号 巻頭言)



季刊邪馬台国79号
「論より証拠」ということばがある。

考古学は、「ことばだけ」の学問ではなく、実際に「もの」をあつかっている。そのため、とき に圧倒的な力をもつ。有無をいわせぬ「証拠」を出すことができる。

しかし、出土した「もの」について、十分な検証が必要なのに、十分な検証のないまま、つま り、証拠不十分なのに、あたかも、決定的な証拠がでたかのように、断言し、特定の結論を、マ スコミに大々的に報道させれば、それで勝ちという風潮があるようにみえる。

学問の他の分野では、ある学問的成果をだしたからといって、マスコミで大々的にとりあげら れることは、めったにない。そのため、十分な学問的検証や論議が行なわれることとなる。

考古学のさきにのべたような風潮に、冷や水をあびせたのが、旧石器捏造事件であった。

考古学のさまざまな分野の、さまざまな見解についても、このさい、よく検証してみる必要が ある。

他の分野の人間から見たばあい、考古学の分野では、社会的に権威をもつ人の見解をそのまま うのみにして、それでこと終れりとする傾向が、すこし強すぎはしまいか。
あるいは、発掘、保存のために巨額の費用を必要とし、その費用の配分権、決定権などを、 権威をもつ人々が握っているために、このような傾向が強くなったのであろうか。

しかし、考古学の分野で、権威をもつ人々の見解が、しばしばあまりにも非論理的である。 示されている資料からだけでは、とてもそのような結論はでてこないはずの結論が、まかり通 る傾向が、どうも強すぎる。

本誌のように、独立独歩、しがらみのほとんどない雑誌が、はっきりと声をあげる必要性が大 きくなっているようにみえる。

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