最近、日本神話関係の本が、つぎつぎと出版されている。よろこばしいことである。
そもそも、学問的理論というものは、より統一的な理論が、望ましいものである。
日本古代史の分野でいえば、『魏志倭人伝』をはじめとする外国文献も、『古事記』『日本書紀』などをはじめとする日本文献も、考古学的な事実も、神社などの由来も、民俗学的な事実も、あるいは、自然科学的な研究成果も、総合的・統一的に説明できる理論が望ましい。
たとえば、『魏志倭人伝』の範囲内だけで、自説は「矛盾がない」と強く主張したとしても、『魏志倭人伝』は、そもそも情報が不足しており、他にも同程度に「矛盾がない」説を構築できる可能性がある。
あるいは、考古学の説明だけに終始し、日本文献などを、一切かえりみない理論なども、疑問がある。考古学の分野での年代観が、きわめて不安定で、容易に揺れ動く性質をもっているからである。遺跡・遺物などの、新聞.テレビなどで発表されている年代に、異論が存在したり、反証のあげられるものがすくなくない。
自分の部屋のなかだけの観測にもとづいて、「地球は、確実な観測にもとづいて平らだ。これをみとめてほしい」などと強く主張してはならない。
学問というものは、ある分野だけで孤立すると、かならず独断におちいる。
旧石器捏造事件なども、その分野だけで孤立し、その分野のなかだけで、学問的権威のヒエラルキーが成立していたために生じた事件のように思える。
毛沢東はのべている。
「揚子江は、あるところでは北に流れ、あるところでは南に流れ、あるところでは西にすら流れている。しか
し、大きくみると、かならず西から東へ流れている。」
ある岸辺に立ったばあい、揚子江が東から西に流れている。それは、確実な観測にもとづいている。しか
し、全体的な真実を示すものではない。
学説や研究の良否を判断する一つの重要な基準として、
「古代史全体へのより大きな目くばりが行なわれているか。」
をあげることができるだろう。他の情報を排除し、ある分野のなかだけで矛盾のない理論などはあぶない。
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