正倉院の宝物の文様やデザインのルーツは、しばしば、西アジア、とくに、ササン朝のペルシャに行きつく。
琵琶、漆胡瓶、ガラスの容器…….文化は、しばしば、駱駝にのり、馬にのり、船にのって、日本にたどりついた。
獅子舞は、中国から日本へ来たとみられるが、その中国へは、西域から伝わった。
唐の詩人、白居易(白楽天)は、「西涼伎」(西涼は、400〜421年のあいだ、敦煌を都として存在した国。敦煌は、西域との交通の要衝。西涼の存在した時期は、本誌本号でとりあつかった鳩摩羅什の活躍時期に、かなり重なる)のなかで獅子舞のことを歌っている。
「仮面の胡人、仮りの獅子。
木を刻んで頭とし、糸を尾とす。
金を眼晴(ひとみ)に鍍し(めっきし)、
銀を歯に貼る。……
流沙(タクラマカン砂漠)より万里を来れるがごとし、
紫髯(赤茶けたほおひげ)深目の(目のくぼんだ)両胡児(ふたりの西方民族の人)鼓舞(鼓を打ち、舞いをまい)跳梁す。……」
そして、この「西涼伎」は、西涼のさらに西方の、鳩摩羅什の祖国の亀弦国から来たものであるという。
唐の杜佑が、八〇一年にあらわした『通典』の、前代雅楽の条に、つぎのように記されている。
「西涼伎なるものは、符堅のたてた前秦時代のすえに、呂光、沮渠蒙遜などが、涼州を拠有し、亀弦(楽)を変じて、之をなすによりて起る。」
つまり、涼州に依拠して、後涼の国(三八六〜四〇三年)をたてた呂光(チベット系)などが、亀弦楽を変えて、西涼伎とした、というのである。ちなみに、呂光は、亀弦国を中心とする西域連合軍を破り、鳩摩羅什を捕えている。
なお、沮渠蒙遜は、匈奴系で、五胡十六国のうちの北涼(三九七〜四三九年)の始祖である。はじめ呂光につかえたが、のち叛した。
私たちは、ときには、古代へむかってあげたひとみを、遠く西域にまで転じてみよう。
|