むかし、重野安繹(しげのやすつぐ)という人がいた。幕末から明治時代にかけて活躍した歴史学者である。帝国大学(のちの東京大学)教授となり、国史科を設置した。
この人は、『太平記』にあらわれる児島高徳(こじまたかのり)をはじめ、史上の有名人の実在をつぎつぎと否定し、「抹殺博士」の異名をとった。
現代も、「抹殺博士」たちの活躍はさかんである。
聖徳太子は存在しないとか、聖徳太子は、外国からやって来たとか、見方によっては、噴飯ものといえる議論が、一流出版社から、つぎつぎと刊行されている。
出版不況のおりから、変った学説?のほうが、人目をひき、売れるということがあるのであろう。
「聖徳太子は実在した!」では、あたりまえすぎる。注意をひかない。買う人を期待できない。
編集子は、「聖徳太子非実在説」の論理的欠陥は、容易に指摘しうると思うし、聖徳太子実在の根拠をあげることも、それほどまでにむずかしいとは思わない。
しかし、「聖徳太子非実在説」を、まともにとりあげるのは、大人げない感じがするし、時間のむだという思いもある。
それに、『般若心経』的にいえば、いっさいは、「空」であって、自分自身の実在すら否定することも可能である。「実在」とはなにか、という哲学的問題にも、とりくまなければならなくなる。
かくて、奇妙な議論、アナーキーな理論、独断的な学説などが、つぎつぎに誕生する。
このような世界においては、「実在」とはなにか、を探究するのも、本誌の使命の一つとなる。
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