フランスの文化人類学者、レヴィ・ストロースは、オーストラリアやアジアに住む人々の親族関係についての研究を行なった。
その社会の構成員にとって、結婚可能な人と、結婚の禁じられた人との区別は、どのような規準、約束ごとによっているのか。
親族関係についての約束ごとは、一家の「構造」をなしており、その「構造」のしくみは、論理的に、あるいは、数学的に説明できるような形をなしている。
このようなことなどから、レヴィ・ストロースは「未開」と呼ばれる社会に見られる思考の仕方と、「文明」と呼ばれる社会での思考の仕方には、本質的な違いはないことをのべた。
「未開」と「文明」とを、単純に分けるような見方は、正しくないことを示した。
それぞれの文化がもっている固有の「構造」をあきらかにすることが重要なのであって、「優劣」の観点から見るべきではないことを説いた。
文化は相対的に見るべきであって、もっとも未開な文化ですら、それなりの「構造」を発展させた大人の文化であるという。
「未開」と呼ばれる社会が、しばしば、「科学的」認識に劣らない、首尾一貫した精緻な自然認識や、植物分類などを発展させているという。
レヴィ・ストロースの述べるところは、理解できる。
しかし、「邪馬台国問題」や「日本語の起源問題」を考えるさい、「事実」や「論理」にもとづく合理的・科学的思考と、「観念」や「思いこみ」、さらには、「空想」や「幻想」にもとづく思考とは、あきらかに違いがある。
それらを区別しなければ、客観的で、妥当な結論に到達しえない。
仏教の発展させた宇宙観がいかに精緻であればとて、近代科学のうちたてた宇宙観と対等であるとは思えない。
「数字」や「数学」なども、対象を記述する「言語」の一種であると考えられる。「数字」や「数学」などもふくめた、私たちの用いる「言語」じたいを反省・検討する必要がある。
フランスの哲学者・アルチュセールは、マルクスの『資本論』のもつ「構造」をあきらかにしようとした。フランスの精神分析家・ラカンは、フロイトのとく「精神分析学」の「構造」をあきらかにしようとした。
「科学的・合理的思考」の「構造」じたいも、それがどのようなものであるのか、構造主義的に、検討・探究してみる必要があるように思える。
私たちは、日本古代史の探究において、合理的・科学的な考え方を、やはり重んじたいと思う。
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