昨年(2005年)の12月11日(日)に、東京の早稲
田大学の国際会議場で「法隆寺再建非再建論争百周年記念シ
ンポジウム・法隆寺研究の原点から最先端へ」が開かれた。
その記念講演・研究報告・総合討議などを聞いていて、思
ったことがある。
法隆寺の五重の塔の心柱は年輪年代法による算出の結
果、原木の伐採年は594年にごく近いという。いっぽう、
五重塔は、673年より少しあとに伐採された木材も、使用
されている。
五重塔の完成は、673年以降とみられるという。つま
り、『日本書紀』が天智天皇9年(670年)の条で、「夜半之後(あかつき)
に法隆寺に災(ひつ)けり。一屋も余ることなし」と記されて以後
のことになる。
とすれば法隆寺の心柱はつぎのいずれか、ということになる。
- 他の建築物に用いられていたものを再利用したか、
- 他の建築物(596年に、蘇我の馬子が創建した飛鳥寺など)の予備材であったものや、他日の建築にそなえた保存材を用いたか、
-
伐採したものをすぐ用いると柱にひびがはいりやすい
ので、かつて伐採し、寝かせられていたものを用いたか。
このうち(2)と(3)とは、意味内容としては、かなり近いもの
といえよう。いずれにしても、原木の伐採年は、建築物の建
造年代とイコールではない。
年輪年代法のもたらす重要な情報は、建造物の建造年代は、
使用木材の伐採年をさかのぼることはない、という事実である。
これと同じことは、木材についての炭素14年代測定法につ
いてもいえる。たとえば、纏向古墳群のホケノ山古墳出土の
木棺の炭素14年代測定法の結果、西暦100年前後を中心と
する値がでたからといって、ホケノ山古墳の築造年代をすぐ
古くもって行くのはいかがなものか。
そのようにするとつぎのような矛盾を生ずる。
「ふつう、庄内式土器のはじまりの年代は、はやく考える
人でも、三世紀の中ごろ前後と考えているのに、それを百
年以上さかのぼらせないといけなくなる。」
ホケノ山古墳築造の年代は、むしろ、そこから出士してい
る画文帯神獣鏡によって定まるのではないか。
九州で、画文帯神獣鏡は、祇園山古墳から出土している。
そして、祇園山古墳の築造年代を、白石太一郎氏は、三世紀
の中葉をくだるとしている(『古墳発生前後の古代日本』大和
書房刊)。
白石太一郎氏は、祇園山古墳の年代を、纒向4式
並行とするが、纒向4式は、西暦350年ごろとする考古学
者もすくなくない。
画文帯神獣鏡のわが国での初現の年代
は、魏晋鏡である位至三公鏡や蠕幅鉦座内行花文鏡よりあと
で、それほど古くはさかのぼれないとみられる。
国立歴史民俗博物館の館長であった、考古学者で、なくな
られた佐原真氏はのべている。
「弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州がにぎっている。
北九州地方の中国・朝鮮関連遺物・遺跡によって暦年代を
きめるのが常道である。」(「銅鐸と武器形青銅器」『三世紀
の考古学』中巻、学生社、1981年刊)
そして、北九州で出土している鏡の年代順は、画文帯神獣
鏡の初現の年代が、邪馬台国時代までさかのぼれないことを
示していると思う。
ということは、ホケノ山古墳の築造年代
も、邪馬台国時代に、とどかないとみられる。それに、「邪馬
台国=畿内説」の重要な欠陥は、『古事記』『日本書紀』など
の国内伝承を、まったく説明できないところにある。