古代史は、多面体である。正面図、平面図、側面図などが
浮かびあがるように、さまざまな方面から光をあてて、はじ
めて全体像がはっきりする。
文献学、考古学、民俗学、自然科学など、さまざまな方面
から光をあてて、はじめて、古代史の全体像は、はっきりと
浮かびあがってくる。
学の純粋性をめざすと称して、他の分野を、まったくかえ
りみない探究は、かならず独断におちいる。せまい家にとじ
こもって、私たちの立っている床は、どこまで行っても平ら
である、などと主張してはいけない。
ときとして、古代史関係の研究者やマスコミ関係の方が、
『古事記』『日本書紀』などの日本文献を、「あれは、大和朝廷
の役人たちが、天皇家の権威を高めるために作ったものであ
るから、」として、頭から、まったく読んでみようともしな
いのは、大きな問題である。
津田左右吉流の十九世紀的文献批判学のもたらした弊害と
いえる。
たとえば、巨大な古墳は、大きな権力の存在をうかがわせ
る。そして、古墳関係の記事は、『古事記』『日本書紀』に多
い。記紀を除外したのでは、だれが、何の目的で巨大な古墳
をつくったのか、などを、正確に把握することは困難とな
る。
とは、いうものの、正面図、平面図、側面図などが、うま
く、統一的な像を結ばないことがある。
法隆寺再建・非再建論争などは、その例であった。文献的
には、『日本書紀』の天智天皇九年(670)の条に、「あか
つきに、法隆寺に炎(ひつ)けり。一屋(ひとつのへい)も、余るところなし」とあ
る。しかし、建築史学者の関野貞などが、建築様式論など
にもとづいて、非再建論の論陣をはった。これは、どうや
ら、再建論のほうに軍配があがる形でおちつきそうである。
本誌本号でとりあげた隅田(すだ)八幡神社人物画像鏡問題などで
も、文献学的な最適解(文献的諸事実にもっともよくあては
まる解)では、かなり時代が下って、天智天皇の時代の683
年ごろの製作ということになる。しかし、考古学的な最尤
解(さいゆうかい:最も、もっともとみえる解)は、西暦500年前後
50年間ということになろうか。180年ほどもの、大きな
へだたりがある。
ただし、最適解のほうは、主要な文献を網羅的にとりあつ
かっているので、今後、解が変動する余地は小さいが、最尤
解のほうは、今後の出土物によって動く可能性がある。
統一的な像の、形成される日がくるのであろうか。
また、本誌本号で論じられている「箸の起源」などは、文
献学的には、『古事記』の神話の、須佐の男の命の八俣の
大蛇の話のところに、「箸」がでてくる。しかし、考古学的に
は、たとえば、弥生時代の遺物として「箸」が出土する可能
性は、すくなくとも現在のところ、かなり小さそうである。
あるいは、新しい時代の情報が、古いところにまぎれこんだ
のであろうか。それとも、特殊な事例などで、古い時代の箸
が、今後出土することがあるであろうか。
いずれか一方の判断だけを正しいとするのではなく、でき
るだけ公平にものを見る練習をする必要がありそうである。
本誌本号は、その練習帳である。
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