「日本語=タミル語起源説」におもう
ドイツ語をならったことのある人で、英語の辞書さえあ
れば、ドイツ語文献は読めると思う人は、まずいない。ま
た、じっさいにやってみても、そんなことはできはしない。
しかし、ドイツ語と英語とは、同じインド・ヨーロッパ
語族のゲルマン語派に属し、同じ祖先語から分裂して、せ
いぜい二千年ていどしかたっていないとみられる言語対で
ある。たがいに姉妹語である。
客観的に測定してみれば、「南インドのタミル語と日本語
との言語的距離」は、「英語とドイツ語との言語的距離」の
三倍ていどはへだたっている。
「タミル語と日本語との言語的距離」は、「英語と日本語と
の言語的距離」とほぼ同じていどである。
「『万葉集』は、英語の辞書で読める」「『古事記』も、英語
の辞書で読める。」そんな主張をする本があらわれれば、だ
れしも、その荒唐無稽さにあきれるであろう。ばかばかし
い、悪い夢でも見ているんじゃないの、と思うであろう。
それでも、『万葉集』が、タミル語で読める、などとする本
が、いわゆる一流出版社から出版されて、大広告されている。
このような本が刊行されるのは、「国語学の大家」の大野
晋氏が、「日本語=タミル語起源説」を熱心に説いたからで
ある。
しかし、大野晋氏の著書の『日本語の形成』を読んでも、
そこには、日本語とタミル語との、意味と形の似ている単
語が、ただならべられているだけである。日本語とタミル
語とが、同系であるという「証明」はない。大野氏は、「羅列」が
「証明」になると、思いこんでしまっている。
どうしてこれが、「証明」になっていると、思いこめるの
か?ふしぎである。
このていどの「羅列」であれば、日本語の「名前namae」
と英語の「name」、日本語の「そうso」と英語の「so」、
日本語の「負うou」と英語の「owe」など、英語と日本語
とでも、簡単にできてしまう。「羅列」は、「証明」になら
ない。大野氏が主張しているから、その説は正しいという
のであれば、「ハダカの王様」を、王様だから立派である、
と思うようなものである。
事実、日本語と英語とについて、似ている単語を羅列し
た本を書いた英語学者もいる。
この種の方法が基本的にいけないのは、自説(思いこみ)
に都合のよいデータのみをピックアップして示すことにエ
ネルギーが集中され、そしてまた、それはじつに熱心に行
なわれているのであるが、諸説を公平に比較するという観
点に欠けていることである。こんなに証拠をあげたという
ことが、声高に主張され、結果的に、自説に都合のわるい
資料には、目をつむることになっている。
世界のどの言語が、日本語に近いのか、できるだけ客観
的に測定して比較をするという方法によっていない。
エネルギーをそそぐ方向が基本的に誤っている。
古代史については、どうもみんな、悪い夢をみる傾向が
あるようである。
この号では、「古代妄想」とでも名づけるべき心理的、社
会的病理現象について、すこしさぐってみた。
「古代妄想」は、思いこみ、あるいは、信念にもとづいて
いるので、その時代の科学技術の発展に呼応して進歩する
という形になっていない。
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