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本書「おわりに」より
第一章 第二章 第三章
応神天皇の秘密

応神天皇の秘密 風雲の五世紀、朝廷を舞台に巨大な陰謀が立ちのぼる!

「古事記」が記す皇后の無意識の殺意とは?
日本軍の朝鮮出兵は捏造された創作か?
応神天皇とは、倭の五王とは?”誰”なのか?


     


 本書「おわりに」より
第一章 

神功皇后は、第九代開化天皇の五世の孫である。
ふつうであれば、最高主権者の位置につける人ではない。
それまで、伝承上の天照大御神をのぞいては、女性で最高主権者になつた人はいなかった。

また、当時は、天皇の後継者になる人が、不足していたわけではない。香坂の皇子、忍熊の皇子という成人した仲哀天皇の二皇子がいた。
それらの皇子たちを勦滅(そうめつ)して、神功皇后は最高主権者的な立場にたつ。なにもかも異例である。

武内の宿彌は、第八代孝元天皇の孫または曾孫と伝えられる。
応神天皇が、武内の宿彌と神功皇后とのあいだの子であるとしても、天皇家の血をうけていることにはなる。
しかし、応神天皇にとって腹ちがいになる二皇子を討滅したうえで、神功皇后が最高主権者の立場にたち、そのあとで、応神天皇が即位するというのは、順当な継承方法とはあまりにも異なる。

『古事記』『日本書紀』に記されているとおり、神功皇后が、実力で、天皇位を奪取し、応神天皇に与えたとみてよい。その行動には、正当性がなく、むしろ反逆による政権奪取といってよい。
神功皇后のいだく夫仲哀天皇への殺意や、仲哀天皇死後の応神天皇の誕生は、現代ならば、週刊誌やテレビのワイドショー番組のネタになりそうな疑惑をよびおこす。

しかし、神功皇后は、それだけの無理を押し通せる実力をそなえていたのであろう。当時、神功皇后の征韓論を支持する雰囲気が、朝廷内にもあったのであろう。
仲哀天皇の消極策では、朝鮮半島南部の任那諸国を新羅からまもれないと考える人々が、朝廷内にもすくなくなかったのであろう。
神功皇后の積極的資質を必要とする国際情勢があったとみられる。ちようど元寇のさいに 北条時宗を必要としたように。

緊急のときに、必要な政治的資質をもつ人間がいた。
解決を求められていた問題に積極的にとりくみ一応の成功を収めた人間がいた。そのため、その人間の個人的な欲望も通されることになつたのであろう。

この本は、イデオロギー的な立場にたつ人々の支持をうけにくいであろう。
天皇家の尊厳性を保ちたいと考える人々は、この本によつて、天皇家の歴史が、おとしめられたように感じるかもしれない。
しかし『古事記』『日本書紀』は、もともと事実をかなり記しているのであって、諸天皇の尊厳性ばかりを記しているわけではない。
史料は、できるだけ等身大に読まなければならない。

また、戦後のいわゆる進歩的文化人や、津田左右吉氏流の文献批判学の立場にたつ人々、あるいは韓国や朝鮮民主主義人民共和国の多くの学者の賛同もえにくいであろう。
それらの人々には、神功皇后や武内の宿彌は架空の人物、日本の大規模な朝鮮半島出兵もなかつたと考える傾向が強いからである。

『古事記』『日本書紀』に、神功皇后が、朝鮮に出兵したと書かれている。
1910年に、日本は、韓国を併合した。
そのころ、、小学校でも、国定教科書などを通じて、神功皇后の「三韓征伐」をたたえる教育が盛んであった。韓国の学者たちが、『古事記』『日本書紀』の記述に、強い反発を示すのは、当然である。
過去の歴史をどう認識するかが現代の民族の死活的利害と関係をもつ。ここに歴史の客観的認識のむずかしさがある。
歴史の認識において、二つの民族のあいだに深淵ともいえる違いが生ずるゆえんである。

しかし、たとえば「広開土王碑の碑文」を読めば、「倭」が海を渡って来たこと、広開土王の戦いの主要な相手は「倭」であったことが明らかなように見える。


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第二章 

私は、この本のなかで、西暦400年前後から西暦650年ごろまでの、およそ、250年間 の、動乱の時代の歴史を復元しようとした。

そこで再現された映像とドラマとは、これまでの諸学説の説くところと、あまりにも大きく異なる。
もし、私ののべているところが、骨格において正しいとすれば、これまでの諸学説は、客観的な事実にもとづくものではなく、イデオロギーにもとづくものといえる。

というよりも、むしろ実際は、つぎのような状況に近かったのではなかろうか。

この時期については、倭の五王のこと、稲荷山鉄剣銘文のこと、高句麗の「広開土王碑の碑文」のこと、神功皇后の新羅出兵伝承のことなど、さまざまな個々の惰報はある。
しかし、焦点のずれた写真のように、全体が、なんとなく鮮明な像を結んでいない。
読者は、そのような印象を、もっておられたのではなかろうか。

私は、私の復元した古代史像に、かなりたしかな手ごたえを感じているが、私は、空中に楼閣を描いたのであろうか。
古代史研究においては、みずからが、はたして正立しているかどうかを確認せずに、他説は、逆立ちしていると頭からきめて、他説を論難している著書がはなはだ多い。私の本もまたその種のものであろうか。

歴史は、まず事実を、できるだけ正確に復元し、そのうえで、学ぶべきことを学ぶべきである。
一定のイデオロギー、先入観、先輩の学説の拳拳服よう(けんけんふくよう:胸中に銘記して忘れずに守ること)によって、見るべき事実もみない古代史研究があまりにも多すぎる。

一言でいえば、客観的、科学的でない古代史研究が多すぎる。

古代史研究を貫くべき大黒柱は、年代論にある。年代論の不徹底こそは、古代史研究混迷の元凶である。

そして、年代論は、統計学や数学の助けをかりて、かなりなていど自然科学的な、客観的な方法で研究できるものである。

時計をあらかじめ設定せずに、時間の速い遅いを正確に論ずることはできない。
温度計をあらかじめ設定せずに温度の暑い寒いを、客観的に議論することはできない。

私が主張しているのは、歴史学においても、時計や温度計にあたるものを、まず設定する必要があるということである。

このことを十分考慮すること、そして歴史学は自然科学の客観性に学ぶべきであること、それ が、私がこの本においても、強く主張しているところである。

いつの時代でも、ものすごいドグマは、多かった。そのなかから、あるいは、それに抵抗して科学は芽ばえ、発展してきた。そして、多くの輝かしい成果をあげてきた。私は、科学の方法を信ずる。

「それでも地球は回っている」とのべたのは、ガリレオであった。「それでも、神功皇后や武内の宿彌は存在していた。」とのべれば、みずからの方法に自信をもちすぎということになるであろうか。

私はこの本のなかでも、古代の天皇の平均在位年数は約十年というデータにもとづく年代論を展開した。この年代論による年代を骨格とするとき、西暦400年前後から西暦650年前後までの、およそ250年は、かなり鮮明な像を結ぶ。

この本で明らかにした事実のなかで、とくに重要と思われるものを、年代順にまとめてみよう。


  1. 神功皇后、武内の宿禰などは、実在の人物とみるべきである。

  2. 西暦400年前後の、日本の朝鮮半島出兵も、事実とみるべきである。
    西暦400年前後、日本は新羅の王城にまで進出した。そして、新羅王子未斯欣(みしきん)を人質とした。
    神功皇后伝承は、西暦400年前後の事件を伝えているとみられる。神功皇后を、400年前後の人とするとき、『三国史記』『三国遺事』『広開土王碑の碑文』など朝鮮がわの史料の記すところと、『古事記』『日本書紀』『風土記』など、日本がわの史書の記すところとは、よく合致している。

  3. 倭王讃は、応神天皇である。
    応神天皇は、百済の直支王の時代の人とみられる。直支王が、日本に人質として来たことは、朝鮮がわの史書、日本がわの史書が、ともに記す。
    日本に来た王族についての記憶は、残りやすかったであろう。

  4. 倭王讃を応神天皇とすれば、倭王、珍、済、興、武はそれぞれ、仁徳天皇、允恭天皇、安康天皇または木梨軽の皇子(きなしかるのみこ)、雄略天皇となる。

  5. 稲荷山鉄剣銘文に見える獲加多支歯大王は、雄略天皇をさす。 銘文に見える辛亥の年は、471年と見られる。
    これは、『古事記』『日本書紀』の記す年代によっても、古代の天皇の平均在位年数は約十年とする年代論によっても、雄略天皇の時代に合致する。ここからも、雄略天 皇は、倭王武と同時代の人となる。

  6. 西暦400年前後の朝鮮半島への大規模な出兵をきっかけとして、海外文化が大量にわが国にもたらされることとなった。
    以後のわが国の文化は、儒教や仏教の伝来をはじめとする海外文化の大きな恩恵をうけることとなった。
    海外文化の導入はやがて、律令制度となって実をむすび、統一国家の基礎を固めることとなった。


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第三章 

島崎藤村は、「千曲川旅情のうた」のなかで歌った。 「百年もきのふ(昨日)のごとし」と。

西暦400年前後から西暦650年前後までのおよそ、250年の春秋でさえ、ふりかえれば、夢のようでもある。長い絵巻物をひもといているようである。

琴の音が聞こえる。若い皇后には、神の威厳がそなわっている。皇后は、夫の天皇を叱咤する。
「水にうつっている映像のように、はっきりとみえる事態が、お前には、見えないのか。」と。

高句麗軍の騎兵のひづめに蹴ちらされ、北鮮の広野が血でそまった日があった。
大きな赤い夕陽。
地平まで、鎧とかぶとが、黒く点々と散り、動かない。
空のいわし雲も、血の色にそまり、烏とかささぎとが乱れとぶ。
鎧の無数の断片が、風で吹きとばされているかのように。

天皇位もさらには、みずからの命さえ、恋の業火に投げいれた皇子がいた。
抜きんでて輝く容姿をもつ皇子、皇女の二人にふさわしい相手は、この世では、実の兄、実の妹しかいなかったのだ。

皇子、木梨軽の皇子は、ふるえる思いを歌にして残している。
 「我が泣く妻を、今夜こそは、安く肌触れ。(泣くほど恋しい私の妻に、今夜こそは、心おきなく肌を触れる[明日はどうなるかわからないけれども]。)衣を通してさえ輝く宝玉の肌であった。
この世は、二人が出あうためにあった。二人で燃えたあの夜のためにあった。

金色に輝く釈迦像をはじめて見て、小おどりした若い天皇がいた。 天皇に衝撃を与えたものはなにか。
ガンダーラ芸術から、遠くギリシア彫刻につながる外国の高い芸術と文化の香りが、 釈迦像の光のなかに籠められていた。天皇の感動は、カルチャーショックによるものであった。

大極殿のなか、皇極女帝の目のまえで、蘇我の入鹿の頭と肩と脚が、剣で斬られた日があった。
人鹿は、女帝のまえに、血にまみれつつころがり行き、うったえた。
「私になんの罪があるのでしよう。」見上げる入鹿の必死の眼。
女帝は中の大兄の皇子に問う。「なにごとがあったのですか。」

燃える炎で、海も空も、まっ赤にそまった日もあった。
船の崩れ沈む音。異国の海に投げだされ、潮水を飲みながら藻屑となっていく兵士たちの叫びも聞こえる。海外への出兵。無数の若ものたちの、外国の山、河、海での死。

「海行かば、水浸く屍。山行かば、草生す屍。大君の、辺にこそ死なめ。 (海を行けば、水に浸かる屍。山を行けば、草の生える屍となって、大君のほとりで死のう。)」(『万葉集』)

海外からの撤退。外国の高い文化からのショック。国政を改革し、国力の充実をはかる。そのあいだにも、人は恋をする。
あるいは、欲望をほしいままにする人がおり、あるいは、高い倫理観で自己犠牲をする 人がいる。
干数百年たっても、人間は、同じようなことをしている。

「昨日またかくてありけり、今日もまたかくてありなむ。」(「千曲川旅情のうた」)

数百万、数干万人の人々の生死哀歓も、必死の努力も、歴史は、ただ一片の、春の夜の夢にしてしまう。
河に散る、ただ一ひらの花びらにしてしまう。

歴史は哀しい。今日も、歴史の河は流れている。

「無辺の落木(落葉)蕭蕭(しょうしょう)として下り、不尽の長江滾滾(こんこん)として来たる。(杜甫)



この本の刊行にあたっては、江渕眞人氏、小さな森プロの小林雄一氏、小林千恵子さん、デ ザインオフィス・カズの名桐一男氏に、一方ならぬお世話になった。記して、厚く御礼を申し あげる。

この本は、このような形の舟に乗った。この小舟も、花びらと落木がただよった川にのりだ す。歴史の川にのりだす。
花びらと落木。春と秋。「春秋」といえば、歳月をさす。小舟は、春秋の川を漂い流れることとなる。

ふとした縁で、あなたの心の港にもしばらくとどまり、あなたとひととき、よい運命をともにできますように。
「ほら、ここで、あなたと舟人はであい、手をとりあったのよね。」と、いえますように。


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