狂熱は、あぶない。
お祭りさわぎは、楽しいであろう。
祭礼の、渦まく群衆のなかにみずからをとけこませ、ぶどうや花束にうずもれた車を、豹や虎に引かせていく酒神ディオニソス(バッカス)にしたがうのは、陶然たる思いがあるであろう。さまざまの楽しい幻影を見ることができるであろう。
しかし、基本的な理念としては、本誌のつかえる神は、酒神ではない。酔いのなかに幻影を求めるものではない。
荒れすさぶ海に小舟をうかべてでも、真理の彼岸をめざして進むアポロンこそ、本誌の仕える神である。孤立を恐れず、事実は事実として伝えることこそ、本誌の使命とするところである。
太陽の神、光明の神アポロンよ。デルフォイの神殿で、古代ギリシア人に神託を与えたごとく、われわれにも、正しい神託を下せ。行くべき正しい道をさし示せ。
ギリシアは、小国なりといえども、よく近代科学の源泉でありえた。小誌、小なりといえども、また、そのような存在でありうることを。
なお、この号の締切りまぎわの1月8日(金)の朝刊に、奈良県の桜井茶臼山古墳についての報道があった。
これを、四世紀を照らす資料として報道した新聞もあったが、なかには、桜井茶臼山古墳をいちじるしく邪馬台国と結びつけて報道した新聞もあった。
しかし、邪馬台国といちじるしく結びつければ、前にその新聞が報じた「卑弥呼=箸墓古墳説」などが、崩れてしまうではないか。
卑弥呼の時期と箸墓古墳の築造時期が合致するから、箸墓古墳は卑弥呼の墓だという意見を報道していたのに、箸墓古墳以外にも、卑弥呼の時期に近い古墳があるのだとすれば、箸墓古墳だけをとくに、卑弥呼の墓にあてはめる必然性が失なわれてしまう。
また、桜井茶臼山古墳には、竪穴式石室があり、これは「槨」といえるものである。
『魏志倭人伝』には、倭人の墓制として、「棺あって槨なし」とあるのに合致しない。ホケノ山古墳にも、「槨」にあたるものがあるから、箸墓古墳にも、「槨」のある可能性が大きい。
新聞などでは、年代を古めにいう人の意見ばかりが報道されがちである。
しかし、桜井茶臼山古墳の築造年代は、四世紀の中ごろとする奈良県立橿原考古学研究所の関川尚功氏や、筑波大学の川西宏幸氏らの根拠のある見解にも留意すべきである。
また、桜井茶臼山古墳からは、三角縁神獣鏡が出土している。三角縁神獣鏡は、卑弥呼がもらった鏡だとする説がある。しかし、三角縁神獣鏡は、これまで、五百数十面出土しているのに、中国からは、一面も出土していない。妙なことである。三角縁神獣鏡の文様は、中国南方の呉鏡系の文様で、北方の魏鏡系の文様ではない。
中国の考古学者、王仲殊氏、徐革芳氏などは、三角縁神獣焼を、卑弥呼のもらった鏡とすることに、強く反対している。
それに、五百数十面の出土ということは、出土率5パーセントとして、一万面以上の三角縁神獣鏡が日本にあったことになる。卑弥呼のもらった百面の銅鏡にあてはめるには、数が多すぎる。
また、桜井茶臼山古墳からは正始元年(240年)銘三角縁神獣鏡が出土している。この情報は貴重である。これで、わが国から、四面の正始元年銘の同型鏡が出土していることになる。
そのうちの一面は、関東の群馬県から出土している。もし、卑弥呼の影響力が関東にまでおよんでいたとするなら、女王国の南にあったという狗奴国は、どこにもっていくのか。
そのほかに、わが国では、景初四年銘の盤竜鏡も、二面出土している。景初四年も、正始元年も、同じく、西暦240年をさす。
大正15年も、昭和元年も、同じく1926年をさす。大正15年は、1926年12月25日に改元しているから、昭和元年は、一週間ほどしかない。
1926年8月に、実際に生活していた人は、大正15年の8月を、昭和元年の8月とは書かない。しかし、後になれば、昭和元年の年の8月と書くこともありそうである。
『普書』に、「景初四年」の記載はある(本誌本号所載の、笛本亮三氏「『景初四年』は、存在した!」参照)。
普代には、魏の「正始元年」は、「景初四年」とも書かれていた。
いま、日本出土の紀年銘鏡全13面のうち、大塚初重氏ら編の『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)に、築造推定年代が記されているものを、すべてかかげれば、つぎのようになる。
紀年銘鏡を出土した古墳 | 『日本古墳大辞典』に記された古墳の築造年代 |
赤島元年(238年)鏡出土の鳥居原狐塚古墳 (山梨県) | 五世紀中葉の築造か。 |
景初三年(239年)鏡出土の和泉黄金塚古墳 (大阪府) | 四世紀末から五世紀初頭ごろの築造と考えられる。 |
景初四年(240年)鏡出土の広峰15号墳 (京都府) | 築造時期は四世紀後半と考えられ、(京都府の)福知山盆地では最古の一つとみられる。 |
正始元年(240年)鏡出土の蟹沢古墳 (群馬県) | 五世紀初頭の築造と考えられる。 |
正始元年(240年)鏡出土の森尾古墳 (兵庫県) | 年代の決め手に欠けるが、四世紀末から五世紀初頭の年代を与えておきたい。 |
正始元年(240年)鏡出土の竹島古墳 (山口県) | 五世紀前半の築造か。 |
正始元年(240年)鏡出土の桜井茶臼山古墳 (奈良県) | 四世紀中葉ごろの築造と考えられる。 |
すべて、四世紀中葉から五世紀中葉のものばかりである。ほぼ、中国の東晋(317〜420)の時代に築造されたものである。
卑弥呼の時代と、百年以上の差がある。
「青竜三年(235年)」の銘のある方格規矩四神鏡を出土した京都府の丹後半島の大田南5号墳も、『日本古噴大辞典』にのっていないが、四世紀ごろ築造のものと考えられている。鏡に記されている年号と、古墳の築造時期とのあいだに系統的に百年の差がある。
「魏の年号のはいった鏡は、すなわち、三世紀の魏の時代に作られたもの」、すなわち同時代のものとすると、「景初四年」銘鏡の説明などが、ややむずかしくなる。
「景初四年銘」の盤竜鏡は、とくにそうであるが、他の紀年鏡も、四世紀ごろ、中国東晋(中国南方の南京の地に都があった)と交渉のあったわが国で、東普渡来の工人の指導のもと、つくられたものであろう。普代には、「景初四年」の使用例があるのである。東晋の時代は、卑弥呼についての記憶をもっていた崇神、垂仁、景行天皇ごろの時代にあたるとみられる。
このようなことから、「魏の年号鏡が出た」という理由のもとに、他の理由がないのに、古墳の築造年代をくりあげていくのが危険であることがわかる。
かりに、三角縁神獣鏡出土の前方後円墳を、全部三世紀にもっていけば、五世紀の大前方後円頂の年代は動かせないから、四世紀の大前方後円頂の数がいちじるしくすくなくなってしまう。
1月8日の『毎日新聞』で、考古学者の高島忠平氏が、三角縁神獣鏡は、「国内生産」のもので、正始元年鏡は、「権力のよりどころを魏に求めようとして作ったにすぎない」と述べておられるのは、大略妥当と思われる。
畿内説の人たちの大本営発表は、やけにはなやかで、断定的であるが、どうにも話のすじが通っていない。
桜井茶臼山古墳については、次号で特集をくみたい。