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考古学は、旧石器捏造事件から、なにも学ばなかったのか?

(季刊邪馬台国104号 巻頭言)                      安本美典



季刊邪馬台国104号
かつて、旧石器捏造事件というのがあった。

教科書にまでのった旧石器遺跡が、捏造であったという のだ。

この旧石器捏造事件から学んで、マスコミは、すこしだけ軌道修正しているようである。しかし、考古学のリーダーたち(というよりも、マスコミ便乗派の考古学者たち)は、ほとんど、なにも学ぶことは、なかったようである。

同じような事件が、またもくりかえされている。  

旧石器捏造事件がおきたとき、なぜ、このような事件がおきたかについて、つぎのような反省の弁がのべられた。

すなわち、『立花隆、「旧石器ねつ造事件」を追う』(朝日新聞社、2001年刊)のなかで、東京大学の考古学者、安斎正人氏は、つぎのようにのべている。

「(旧石器を捏造した)藤村さんだけじゃなくて彼ら全体がジャーナリズムのほうに向いていましたよ。(藤村氏をサポートした)鎌田さん自身言っているとおり、取り上げてくれないと調査費が出ない。どれだけ広報活動するかっていうことが大事。ですから発掘したとき、学術誌に載せるよりも、メディアにいち早く出す。しかもそのメディアが、一面で書いてくれるように。」

同じ本のなかで、国士舘大学の大沼克彦氏は、つぎのようにのべる。

「今日まで、旧石器研究者が相互批判を通した歴史研究という学問追求の態度を捨て、自説を溺愛し、自説を世間に説得させるためには手段を選ばずという態度に陥ってきた側面がある。

この点に関連して、私はマスコミのあり方にも異議を唱えたい。今日のマスコミ報道には、研究者の意図的な報告を十分な吟味もせずに無批判的にセンセーショナルに取り上げる傾向がある。視聴率主義に起因するのだろうが、きわめて危険な傾向である。」

そしていま、マスコミ便乗派の「邪馬台国=畿内説」の人々は、藤村新一氏や、鎌田俊昭氏と、基本的に、同じような方法を用いている。

学問的、科学的証明よりも、まず、広報活動のほうが大事であると考える。

ジャーナリズムのほうに顔をむけ、学術誌に載せるよりも、メディアにいち早く出す。そして、そのメディアが、一面で書いてくれるように工夫する。

畿内説を溺愛し、その説を世間に説得させるためには、手段を選ぶ必要はないと考える。直接結びつかなくても、邪馬台国問題にすこしでもかすったようにみえたら、邪馬台国と結びつけて、マスコミ宣伝の挙にでる。そして、断定的な意見を発表する。「かすったら畿内説」主義である。

「邪馬台国=畿内説」という自説を溺愛するためなのか、それとも、国家財政逼迫のおり、助成金や調査費を獲得するためなのか。あるいは、その両方なのか。正当な学問的、科学的手つづきから逸脱した方法にもっぱらうったえている。

ほとんど極端に、この方法にたよっている。他の学問、科学では、例をみない。

この方法だけをみても、考古学が、信用すべからざる方向に動いていることを読みとるべきである。

古代の真実をあきらかにするという大きな目標は、どこかにいってしまっている。古代の真実をあきらかにするためには、学問的、科学的に正しい検討の手つづきによらなければならない。そのことが、どこかへ行ってしまっている。

事件にたとえるならば、取り調べ官が功名心にかられて、正規の検証・手つづきを経ていないような状況で、犯人がきまったと、やたらに報道にもちこむようなものである。

冤罪を生みやすい構造になっている。

確実でないことを、あたかも、確実な結果が得られたかのように、マスコミで断言し、喧伝する。大本営発表をくりかえす。



本誌でも、たびたびとりあげた、『東日流外三郡誌』偽書事件というのもあった(安本美典著『虚妄の東北王朝』【毎日新聞社、1994年刊】、斉藤光政著『偽書「東日流外三郡誌」事件』【新人物文庫、新人物往来社、2009年刊】など参照)。

「東日流外三郡誌事件」のばあい、古文書偽作者の和田喜八郎氏は、みずからが創作した古文書にもとづき、ディズニー・ランドをつくるような感覚で、遺跡・遺物をつぎつぎに捏造していった。そして、それを、マスコミ宣伝をしていった。NHKなども、それにのせられ、紹介した。有力な学者も、和田喜八郎氏を支持した。

たとえば、平安時代中期の前九年の役1056〜1062年)で、源頼義に敗れて討ち死にした蝦夷の首 長、安倍頼時の遺骨なるものを、和田喜八郎氏がもちだし、それによって、「安倍氏一族の墓苑」なるものが、1000万円以上の資金を投じてつくられた。地城おこし、観光効果をねらったものである。しかし、「東日流外三郡誌事件」が問題になって、鑑定をしたところ、安倍頼時の遺骨は、クジラの骨であった。

いま、マスコミ便乗派の考古学のリーダーたちは、不確実な根拠、あるいは、容易に反証のあげられるような根拠にもとづき、卑弥呼の墓、卑弥呼の宮殿などを、どんどん創りあげていっている。それを、マスコミ宣伝している。なんという安易さであろう。ありあわせのものなどで、適当にまにあわせて、どんどん古代史のストーリーや観光名所を作っていくことなど、和田喜八郎氏によく似てきている。

この人たちは、なにも感じなくなっているのか。

学問的な自己規制や、自浄作用が、働かなくなっている。宣伝が、証明にかわりうると思いこんでいる。

軽薄なマスコミは、研究者の意図的な発表を、十分な吟味もせず、無批判的に、センセーショナルに取りあげている。

軽薄なマスコミにとっては、おもしろくない真実よりも、センセーショナルで、おもしろい虚構のほうが、とりあげやすいのである。

マスコミのご要望にあわせていれば、考古学がどこに行くか、マスコミ便乗派のリーダーたちには、わからないのだろうか。

考古学のリーダーたちは、みずからを、藤村新一氏や、和田喜八郎氏なみに堕として行こうとしている。みずから、学問の基礎、科学の基礎を破壊していっている。

異常な事態である。この異常な事態に気づき、直視すべきである。

すでに、歴史研究家の河村哲夫氏は、安本美典著『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社、宝島社新書、2009年刊)の書評においてのべている。

「恐ろしいことである。大変な事件である。緊急出版ともいえるこの本を読みながら、慄然とする思いを禁じ得なかった。かの『旧石器捏造事件』は、日本のみならず世界のなかで日本考古学界の信用を失墜させた。その悪夢がふたたび到来した。

国立歴史民俗博物館の研究グループは、一体いかなる理由でこのような暴走行為を行なっているのか。マスコミを巻き込み、世間を煽り立てながら、科学的手法に名を借りた根拠のない結論を、この時期に何ゆえセンセーショナルに発表しなければならなかったのか。

その動機の解明が急がれるべきである。放置してはならない。野放しにしてはならない。彼らはおのれの過ちを認めず、みずからを絶対と信じて反社会的な行為を繰り返す『確信犯』である。

歴博グループの犯罪的な暴走行為を、誰かが止めなければならない。」 (『季刊邪馬台国』103号)

残念ながら、考古学のリーダーたちの暴走は、さらにエスカレートしてきている。とっている方法が、正しくないことが、わからなくなっている。



意図的、作為的な大報道などに、だまされてはならない。

奈良県に、邪馬台国と直接結びつくものは、じつは、砂漠といってもよいほど、なにもない。そのことは、何人もの、事態を直視することのできる畿内と関係のある考古学者たちが、率直にのべているとおりである。

奈良県桜井市の教育委員会の文化財課長をされ、纒向遺跡の発掘調査をされた考古学者、清水真一氏は、のべている。

大和には"巨大ムラ”がない
私は20年間、大和の中央部・桜井市で、『邪馬台国は何処』とのテーマを持って、発掘調査に従事してきた。

その結果として、邪馬台国が成立して、女王卑弥呼を擁立するまでの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような『ムラ』や『墓』が見られないことに気付いた。

代表的なムラである唐古・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上曾根遺跡や田能遺跡などと比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。

であれば、その次の古墳時代に入って、纒向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと考えざるを得ない状況であるとみた。

では、誰が何処からきたのか? 考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。」
(『佐賀新聞』2005年9月26日〔月〕。「新・吉野ケ里シンポジウム=邪馬台国への遺・九州説に理あり」での発表要旨)

800ページをこえる厖大な報告書『纒向』の土器の部分を執筆された橿原考古学研究所の考古学者、関川尚功氏ものべる。

「30年以上、奈良の発掘を見てきましたが、三世紀の邪馬台国に結びつくものはいまだに出てこないんです。

私は、箸墓古墳は四世紀のもので、卑弥呼とは関係ないと思っています。奈良には畿内説の研究者が多いのですが、歴博の結論に賛成している人はほとんどいないと思います」
(『週刊文春』2009年10月22日〔木〕号)

纒向遺跡を直接発掘された方々でも、大報道に異論をもつ人々がいることに、目や耳をふさいではならない。

マスコミは、これらの専門家の発言を無視し、軽率な判断をし、興味だけにかられて、大報道しないでほしい。世を誤らせるものである。

また、関西外国語大学教授の考古学者、佐古和枝氏はのべる。

「『魏志』倭人伝では、倭人の武器に矛や鉄鏃が挙げられている。この時期、畿内には矛に相当する武器はないし、畿内の鉄器の出土総数は、北部九州や山陰の一遺跡の出土数にも及ばないほど貧弱である。

さらに、諸国を監視する『大卒』が伊都国に常駐すること、女王国の東に海を渡ると倭種の国があることなどをみれは、『魏志』倭人伝にいう『倭人』や『倭国』『女王国』は北部九州社会のことと考えるのが妥当であろう。東の海の向こうにいる倭種の話ではないから(『倭人伝』)。

そう考えれば、『倭国乱』も『邪馬台国』も、北部九州での事柄だということになる。邪馬台国の所在地は、考古学的な事実関係と『魏志』倭人伝との整合性のなかで考えるべきである。」
(『佐賀新 聞』2005年9月26日〔月〕)

さらに、奈良文化財研究所・埋蔵文化財センターの考古学者で、文献にもくわしい小澤毅氏はのべている。

「細部の比定はともかく邪馬台国の概略の位置を求めること自体は、『魏志』の記載によるかぎり、さほど難解なものとは思われない。

『魏志』は、女王国の南に位置し、それと抗争関係にあった狗奴国の官を『狗古智卑狗』と記す。『魏志』の『女王国』には、女王卑弥呼が都した邪馬台国の意味で用いられている箇所と、女王に属する諸国を意味する箇所があるが、この場合はいずれであっても問題はない。注目されるのは、狗奴国の官名『狗古智卑狗』である。

これは『ククチヒコ(菊池彦)』と解するほかはないと思うし、事実、ほとんど例外なくそう解釈してきたが、古代に『ククチ』と呼ばれたことが確認され、狗奴国にあてうる地域は、肥後国北部(令制の菊池郡、和名抄の訓は久々知。現在の菊池市)以外に存在しない。この周辺には、古くから球磨駅(令制の益城郡、肥後国中部)や球磨郡(肥後国南部)をはじめ、『クナ』の転訛(むしろその逆であろうが)とみられる『クマ』という地名が数多く認められる(『角川日本地名大辞典43 熊本県、1987年、角川書店』)こととあわせて、狗奴国のおもな領域は令制の肥後国と考えて誤りないだろう。

この一点のみをとっても、狗奴国およびその北に位置する邪馬台国が九州にあったことは明瞭であって、両国を九州以外の地に求める説は成り立たないといわざるをえない。実際、『狗古智卑狗』の問題に関して、これまで邪馬台国畿内説にたつ論者から、納得できるだけの説明がなされたことはないのではなかろうか。」
(『社会集団と政治組織』〔『列島の古代史3』〕岩波書店、2005年刊)

現在、卑弥呼の宮殿、墓などと騒いでいる人たちは、議論の出発点である『魏志倭人伝』の記述を、ほとんどまったくといってよいほど無視する傾向が強い。

これに対し、佐古和枝氏や小澤毅氏が、『魏志倭人伝』の記述をふまえて発言しておられることに留意する必要がある。

卑弥呼の宮殿などというのは、思いこみや、新しい時代の遺跡、遺物を古い時代にもって行く年代操作、そしてマスコミ宣伝などが幻出させた空中楼閣である。卑弥呼の墓などというのは、闇夜に、黒い岩を墓穴とみたもののたぐいにすぎない。

これらは、「邪馬台国=畿内説」論者たちの思いこみと、マスコミを使っての宣伝とが幻出させた「まぼろしの邪馬台国」である。

邪馬台国の遺跡・遺物については、なにもない、砂漠といってよい奈良県で、緑したたる女王国を夢みているのである。

秋の枯葉のなかにうずもれながら、黄金の大判・小判のなかにうずもれていることを夢みてはならない。

卑弥呼の宮殿や墓を勝手に作って宣伝すれば、観光客を集めるのには、役だつであろう。しかし、それによって、邪馬台国問題が、解決するわけではない。

マスコミ便乗派の考古学のリーダーたちの発想が、一連の『東日流外三郡誌』関連遺跡を作っていった和田喜八郎氏の発想に近づいていっているだけである。

考古学とは、そして、科学とは、学問とは、そのていどのものと思っている人たちが、幻影にもとづいて、お祭さわぎをしているのである。恥ずべきことを、恥ずべきこととする感覚を失っている。

旧石器捏造事件のさいも、藤村新一氏個人では、なんの発表力も、もたなかったはずである。藤村氏に、マスコミ発表力を与え、国民の血税である多大の資金を提供し、藤村氏をあとおしし、異論をおしつぶしたのは、官僚学者をはじめとする考古学のリーダーたちであった。官僚学者などは、なんのためにそのようなことをしたのか。あらかじめいだいていた自説を溺愛していたからである。そのために、異論をおしつぶすべく、意図的に大報道させたのである。そのために、莫大な租税が浪費された。

考古学のリーダーたちは、今また、同じことをくりかえしている。

藤村氏が、新しい時代の石器を、古い地層にうずめたように、考古学のリーダーたちは、新しい時代の建物や墓を、古い年代にうずめこませている。

今回は、考古学のリーダーたちみずからが、そのような行為に手をだしていることに注意すべきである。

旧石器捏造事件も、『東日流外三郡誌』事件も、きわめて大がかりで、「いくらなんでもまさか」と思わせる事件であった。

その「まさか」が、またおきている。  

 


ユニークな評論活動を行なった山本七平氏は、『空気の研究』(文春文庫)という本をあらわしている。日本の社会では、一度ある「空気(雰囲気)」ができると、その「空気」に、ほとんどの人が付和雷同的にしたがい、反対意見をのべにくくなることを論じている。

太平洋戦争につきすすんだ日本もそうであった。厖大な血税をそそぎ、多大な犠牲者をだして、日本は破滅した。敗戦という現実に直面して、はじめて「幻想」が破裂した。

構造は、「旧石器捏造事件」「卑弥呼の宮殿事件」「卑弥呼の墓事件」と、きわめてよく似ている。

山本七平氏は、のべている。

「統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組みたてておいても、いざというときは、それらが一切消しとんで、すべてが『空気』に決定されることになるかも知れぬ。」

「『空気』とは何であろうか。それは非常に強固でほぽ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが『空気』に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。」

「日本ではこういう問題に最終的決定を下すものは”空気”であり、科学的根拠といわれるものはこの空気に適合するごとく再編成されるのが通常である。」

「『空気』に基づく行動が、まわりまわっていつしか自分の首をしめて行き、その判断で動きまわっているとどうにもならなくなることを、人は、否応なく実感せざるを得なくなってくるからである。

戦争直後にこのことはいやというほど実感させられたわけだが、現代でも、公害問題が華やかだったとき、『経団連』をデモ隊で囲んで『日本の全工場をとめろ』といった発言に対して、ある経済記者が『一度やらせればいいのさ』と投げやりな態度で言った例にその実感がある。

これは、臨在感的把握に基づく行為は、その自己の行為がまわりまわって未来に自分にどう響くかを判定できず、今の社会はその判定能力を失っていることの意味であろう。

彼の考え方を要約すれば、『ジユッと熱く感じない限り理解しない人たちだから、そんなことをすればどうなるかいかに論証したって耳は傾けない。だから一度やけどすればよい』

といった一種の諦めの発言であり、これは戦争中にもある。

そしてそれが終って”空気”が消失すれば、結局また同じことを言うわけである……『日本の生産力・軍事力の違い、石油・食糧の予測、小学生でもわかる計算がなぜできなかったのか……』と同じように『全工場をストップすれば一体どんなことになるか、小学生でもわかることがなぜわからなかったのか』と。

このことは起らなかったが、小規模では絶えず行なわれてきた。」

これらの言葉が、旧石器捏造事件や、現在進行中の事件などにもかなりよくあてはまっていることは、驚くほどである。

すくなくとも、「研究」という世界では、もっと「個」がしっかりとしないといけない。

そうでなければ、「集団幻想」を描いては、それが破裂する、ということのくりかえしとなる。

研究が地道に進んで行かない。

ある種の心の病気では、みずからが病気であるという意 識(病識)をもたない。

ある集団での「空気」にひたっているとき、みずからや、その集団がもつ病気に気づきにくい。

カルトのばあいと同じで、客観的な判断が、むずかしくなってしまう。

誤解を恐れずに書くならば、本誌は同人雑誌ではなく、基本的に、「専門家」の発信する雑誌でありたいと願っている。

専門家は、たとえ、どのような罵言雑言をあびようと、いわゆる「世論」という名の「空気」から袋叩きにあおうと、専門家としての意見をいう義務があると思っている。それなくしては、文化の発展も、科学の発達もないと思っている。

学問や科学は、「空気」の支配をうけてよいものではない。「1たす1」が、空気や宣伝によって、「2」にでも「3」にでもなりうるものであってはならない。

それを許すならば、いっさいの科学の死をまねく。

心ある考古学者たちは、「空気」を恐れず発言すべきである。そうでなければ、考古学は、いいかげんな学問として信用されなくなる。見える人には、見えるのである。



狂熱は、あぶない。

お祭りさわぎは、楽しいであろう。

祭礼の、渦まく群衆のなかにみずからをとけこませ、ぶどうや花束にうずもれた車を、豹や虎に引かせていく酒神ディオニソス(バッカス)にしたがうのは、陶然たる思いがあるであろう。さまざまの楽しい幻影を見ることができるであろう。

しかし、基本的な理念としては、本誌のつかえる神は、酒神ではない。酔いのなかに幻影を求めるものではない。

荒れすさぶ海に小舟をうかべてでも、真理の彼岸をめざして進むアポロンこそ、本誌の仕える神である。孤立を恐れず、事実は事実として伝えることこそ、本誌の使命とするところである。

太陽の神、光明の神アポロンよ。デルフォイの神殿で、古代ギリシア人に神託を与えたごとく、われわれにも、正しい神託を下せ。行くべき正しい道をさし示せ。

ギリシアは、小国なりといえども、よく近代科学の源泉でありえた。小誌、小なりといえども、また、そのような存在でありうることを。

なお、この号の締切りまぎわの1月8日(金)の朝刊に、奈良県の桜井茶臼山古墳についての報道があった。

これを、四世紀を照らす資料として報道した新聞もあったが、なかには、桜井茶臼山古墳をいちじるしく邪馬台国と結びつけて報道した新聞もあった。

しかし、邪馬台国といちじるしく結びつければ、前にその新聞が報じた「卑弥呼=箸墓古墳説」などが、崩れてしまうではないか。

卑弥呼の時期と箸墓古墳の築造時期が合致するから、箸墓古墳は卑弥呼の墓だという意見を報道していたのに、箸墓古墳以外にも、卑弥呼の時期に近い古墳があるのだとすれば、箸墓古墳だけをとくに、卑弥呼の墓にあてはめる必然性が失なわれてしまう。

また、桜井茶臼山古墳には、竪穴式石室があり、これは「槨」といえるものである。

『魏志倭人伝』には、倭人の墓制として、「棺あって槨なし」とあるのに合致しない。ホケノ山古墳にも、「槨」にあたるものがあるから、箸墓古墳にも、「槨」のある可能性が大きい。

新聞などでは、年代を古めにいう人の意見ばかりが報道されがちである。

しかし、桜井茶臼山古墳の築造年代は、四世紀の中ごろとする奈良県立橿原考古学研究所の関川尚功氏や、筑波大学の川西宏幸氏らの根拠のある見解にも留意すべきである。

また、桜井茶臼山古墳からは、三角縁神獣鏡が出土している。三角縁神獣鏡は、卑弥呼がもらった鏡だとする説がある。しかし、三角縁神獣鏡は、これまで、五百数十面出土しているのに、中国からは、一面も出土していない。妙なことである。三角縁神獣鏡の文様は、中国南方の呉鏡系の文様で、北方の魏鏡系の文様ではない。

中国の考古学者、王仲殊氏、徐革芳氏などは、三角縁神獣焼を、卑弥呼のもらった鏡とすることに、強く反対している。

それに、五百数十面の出土ということは、出土率5パーセントとして、一万面以上の三角縁神獣鏡が日本にあったことになる。卑弥呼のもらった百面の銅鏡にあてはめるには、数が多すぎる。

また、桜井茶臼山古墳からは正始元年(240年)銘三角縁神獣鏡が出土している。この情報は貴重である。これで、わが国から、四面の正始元年銘の同型鏡が出土していることになる。

そのうちの一面は、関東の群馬県から出土している。もし、卑弥呼の影響力が関東にまでおよんでいたとするなら、女王国の南にあったという狗奴国は、どこにもっていくのか。

そのほかに、わが国では、景初四年銘の盤竜鏡も、二面出土している。景初四年も、正始元年も、同じく、西暦240年をさす。

大正15年も、昭和元年も、同じく1926年をさす。大正15年は、1926年12月25日に改元しているから、昭和元年は、一週間ほどしかない。

1926年8月に、実際に生活していた人は、大正15年の8月を、昭和元年の8月とは書かない。しかし、後になれば、昭和元年の年の8月と書くこともありそうである。

『普書』に、「景初四年」の記載はある(本誌本号所載の、笛本亮三氏「『景初四年』は、存在した!」参照)。

普代には、魏の「正始元年」は、「景初四年」とも書かれていた。

いま、日本出土の紀年銘鏡全13面のうち、大塚初重氏ら編の『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)に、築造推定年代が記されているものを、すべてかかげれば、つぎのようになる。
 
紀年銘鏡を出土した古墳『日本古墳大辞典』に記された古墳の築造年代
赤島元年(238年)鏡出土の鳥居原狐塚古墳
(山梨県)
五世紀中葉の築造か。
景初三年(239年)鏡出土の和泉黄金塚古墳
(大阪府)
四世紀末から五世紀初頭ごろの築造と考えられる。
景初四年(240年)鏡出土の広峰15号墳
(京都府)
築造時期は四世紀後半と考えられ、(京都府の)福知山盆地では最古の一つとみられる。
正始元年(240年)鏡出土の蟹沢古墳
(群馬県)
五世紀初頭の築造と考えられる。
正始元年(240年)鏡出土の森尾古墳
(兵庫県)
年代の決め手に欠けるが、四世紀末から五世紀初頭の年代を与えておきたい。
正始元年(240年)鏡出土の竹島古墳
(山口県)
五世紀前半の築造か。
正始元年(240年)鏡出土の桜井茶臼山古墳
(奈良県)
四世紀中葉ごろの築造と考えられる。

すべて、四世紀中葉から五世紀中葉のものばかりである。ほぼ、中国の東晋(317〜420)の時代に築造されたものである。

卑弥呼の時代と、百年以上の差がある。

「青竜三年(235年)」の銘のある方格規矩四神鏡を出土した京都府の丹後半島の大田南5号墳も、『日本古噴大辞典』にのっていないが、四世紀ごろ築造のものと考えられている。鏡に記されている年号と、古墳の築造時期とのあいだに系統的に百年の差がある。

「魏の年号のはいった鏡は、すなわち、三世紀の魏の時代に作られたもの」、すなわち同時代のものとすると、「景初四年」銘鏡の説明などが、ややむずかしくなる。

「景初四年銘」の盤竜鏡は、とくにそうであるが、他の紀年鏡も、四世紀ごろ、中国東晋(中国南方の南京の地に都があった)と交渉のあったわが国で、東普渡来の工人の指導のもと、つくられたものであろう。普代には、「景初四年」の使用例があるのである。東晋の時代は、卑弥呼についての記憶をもっていた崇神、垂仁、景行天皇ごろの時代にあたるとみられる。

このようなことから、「魏の年号鏡が出た」という理由のもとに、他の理由がないのに、古墳の築造年代をくりあげていくのが危険であることがわかる。

かりに、三角縁神獣鏡出土の前方後円墳を、全部三世紀にもっていけば、五世紀の大前方後円頂の年代は動かせないから、四世紀の大前方後円頂の数がいちじるしくすくなくなってしまう。

1月8日の『毎日新聞』で、考古学者の高島忠平氏が、三角縁神獣鏡は、「国内生産」のもので、正始元年鏡は、「権力のよりどころを魏に求めようとして作ったにすぎない」と述べておられるのは、大略妥当と思われる。

畿内説の人たちの大本営発表は、やけにはなやかで、断定的であるが、どうにも話のすじが通っていない。

桜井茶臼山古墳については、次号で特集をくみたい。   

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