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「天動説」と「地動説」

(季刊邪馬台国105号 巻頭言)                      安本美典



季刊邪馬台国105号
むかし、「天動説」と「地動説」とのあいだの論争というのがあった。

「太陽が地球のまわりをまわっている」と考えるか、「地球が太陽のまわりをまわっている」と考えるかの論争である。  現在では、「地動説」のほうが正しいと考えられている。地球のほうが動いていると考えるのである。

いま、かりに現代人で、「やはり天動説のほうが正しい」と考えた人がいて、つぎのような方法で、「天動説が正しい」ことを「証明」したとする。

この「証明」の方法は、どこが、誤っているのだろう。

天動説を証明する方法 朝、カメラを東のほうにむける。 太陽が、山の端から出てくる状況を、一時間にわたって写す。たしかに、太陽は、動いている。山の端からしだいに はなれていっている。したがって、『天動説』が正しい。百聞は、一見にしかず」

これは、「一見」正しいようにみえて、正しくない。それは、ここで観測された現象は、「地動説」の立場にたっても、説明できてしまうからである。

しかし、近代科学成立前の人々は、ガリレイのつぎのようなことばに、耳をかさなかった。

「一度私のみている望遠鏡を、のぞいてみてほしい。木星のまわりを、衛星がまわっている。それは、地球のまわりを、 月がまわっているのと同じ現象だ。木星が、太陽のまわりをまわっているのと同じように地球も太陽のまわりをまわっているのだ。それに、太陽は、地球よりも、はるかにはるかにはるかに、大きいのだ」

いくらカメラで、データを示しても、自分の観測した事実だけを根拠にして、正しさを強く主張したのでは、正しいことの「証明」にはならない。

相手の観測した事実や、主張の根拠も、十分検討してみる必要がある。

現在、「邪馬台国=畿内説」と、「邪馬台国=九州説」とのあいだの論争がある。どうも、編集子には、「九州説」の人は、「畿内説」の人々の主張の根拠も、十分検討したうえで、自説を主張しているのに、「畿内説」の人々は、はじめから、自説は正しいときめてしまって、みずからが観測した事実だけを、ひたすら宣伝・PRしているようにみえる。「九州説」の人の主張の根拠を、十分に検討していないか、無視している ようにみえる。

「畿内説」の方々は、一度本誌でのべているような「九州説」の根拠も、十分検討してみてほしいものだ。

そうでなければ、「それでも、地球は動いている」というようなつぶやきは、永遠に消えないであろう。

科学の世界では、宣伝やPRは、無意味である。「証明」だけが力をもつ。中世の教会は、ガリレイを裁判にかけ、墓さえも作らせなかった。それは、権威を示すことや、「世論形成」や「宣伝」にはなっても、「証明」にはならない。

信ずるな。考えよ。  



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