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学問と科学をとを破壊するもの

(季刊邪馬台国107号 巻頭言)                      安本美典



季刊邪馬台国107号
「(京都)東山三十六峰静かに眠る丑三つ時(およそ今の午前2時〜2時30分)、鴨の河原の静寂を破り、にわかに起 る剣戟の響き!」  

これは、むかし、昭和のはじめごろ、新撰組を題材とする幕末ものの無声映画で弁士たちが語った名調子であった。

いま、その東山の山裾の鹿ケ谷方面から、いささか奇妙な物音がきこえてくる。

鹿ケ谷といえば、1171年に、俊寛僧都らが、平家を討滅する計画をたてた山荘のあったことでも有名な場所である。

この京都市左京区の鹿ケ谷に、京都大学名誉教授の樋口隆康氏が館長の、泉屋好古館がある。

泉屋好古館は、住友家によって収集された書画・工芸品を住友コレクションとして収蔵し、一般に公開している美術館である。

本誌85号、87号で、この泉屋博古館を中心にしておきたある騒動をとりあげている。

それは、「スプリング8事件」というべき事件である。

この事件のときは、泉屋博古館が、「スプリング8」という「科学的方法」を用いてしらべた結果、三角縁神獣鏡の一部は、中国産の銅原料を用いているので、三角縁神獣鏡は、中国でつくられたものとみられると発表し、それに例の朝日新聞社の渡辺延志記者がとびついて、『朝日新聞』の一面で報道したのであった。

しかし、「原料」が中国産のものであるということと、鏡が中国で鋳造されたということとは、別問題であるはずである。

そんなことをいえば、銅鐸も、原料は中国産のものが輸入されて用いられているから、中国で鋳造されたことになってしまう。

こんなことは、ちょっと考えれば、わかりそうなものである。すでに、中国の考古学者、王仲殊らは、三角縁神獣鏡は、中国の工人が日本にきて、中国の銅原料を用いてつくったものであろうことをのべているのである。

しかし、樋口隆康氏も、朝日新聞社の渡辺記者も、はじめから、「邪馬台国は畿内」という強い思いこみがあるから、何度、三角縁神獣鏡は、中国で鋳造されたとする説のおかしさを指摘されてもわからない。

何度でも、「畿内説」にすこしでも有利とみれば、大本営発表をくりかえす。

今年の五月になって、その三角縁神獣鏡を、「スプリング8」を用いて分析を行なった住友金属工業株式会社の住友芳夫氏と、同顧問の鈴木謙爾東北大学名誉教授とが、『金属』という雑誌にのせた文章がある。そのなかに、つぎのように記されている。

「三角縁神獣鏡の製作場所が我国内であると断定するのは早計であろう。銅、スズ、鉛の主要原料金属を日本に運び入れ、日本において溶解・鋳造されたので、三角縁神獣鏡は『魏志』倭人伝に記されている卑弥呼の鏡ではないと主張されても、今回の実験だけを拠り所にして反論することは困難である。」

「『三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏国から持ち帰ったものであることが、SPring‐8放射光蛍光分析により証明された』との短絡的報道がくり広げられ、後日その賛否をめぐって大騒ぎが起きた。考古学や天文学はとかく世間の注目を集める分野であると聞いていたが、このような奇妙な騒ぎが当事者の主張と無関係に巻き起こるとは想定外であった。」

「歴史学としての考古学では理論構築や主観的考察が先行し、自説に好都合なデータのみを拾い上げるという指向が強いように思われるが如何なものであろうか。」(鈴木謙爾、住友芳夫「SPring‐8により三角縁神獣鏡の出自を探る」〔『金属』 vo180、No5、2010年〕)

分析した当事者じたいから、「短絡的報道」「当事者の主張とは無関係」「奇妙な騒ぎ」と、やや当惑げに記されるような報道をしてどうするのか、という感じがする。

なんで、これが新聞の一面を飾りうるのか、という思いがする。記者の不勉強と思いこみにもとづく誤報というべきものである。

泉屋博古館の館長の樋口隆康氏じしんは、たとえば、『科学』という雑誌の2006年2月号に、つぎのように記している。

「舶載の三角縁神獣鏡は中国製鏡であり、製の三角縁神獣鏡は日本製であることがはっきりした。」

「中国製品と日本製品の違いがはっきり分かれており、中国製品はさらに時代によっても違っている。」

つまり、「スプリング8」によって、原料が、「中国産とみとめられた鏡」は、中国製品、すなわち、鏡そのものが、中国で鋳造されたものであるかのようにおきかえて断定しているのである。

かつて、旧石器捏造事件というのがあった。

そのさい、『立花隆、「旧石器ねつ造」事件を追う』(朝日新聞社、2001年刊)のなかで、国士舘大学の考古学者大沼克彦氏は、つぎのようにのべている。

「今日まで、旧石器研究者が相互批判を通した歴史研究という学問追求の態度を捨て、自説を溺愛し、自説を世間に説得されるためには手段を選ばずという態度に陥ってきた側面がある。

この点に関連して、私はマスコミのあり方にも異議を唱えたい。今日のマスコミ報道には、研究者の意図的な報告を十分な吟味もせずに無批判的にセンセーショナルに取り上げる傾向がある。視聴率主義に起因するのだろうが、きわめて危険な傾向である。」

「意図的な断定」をくりかえし流す学者も学者であるが、それを、「十分な吟味もせずに無批判的にセンセーショナルに取り上げる」マスコミ人もマスコミ人である。

同じようなことが、何度もくりかえされている。

「嘘も、百回いえば真実になる。」とは、ナチスの宣伝相、ゲッペルスの言葉だといわれているが、そのようなことが意図されているのであろうか。

樋口隆康氏らを中心とする「京大イディオローグ」は、さいきん、どうも、非実証的傾向が強くなってきているように思える。注意が必要である。

また、マスコミに対しては、遠慮して、ものをいわない人が多い。

マスコミは、時の首相などを、しばしばきびしく批判している。首相などが、一種の権威であり、権威が道を誤れば、被害や影響するところが、甚大だからであろう。

マスコミも、また、一種の権威である。道を誤れば、影響するところは大きい。

もっと、こわがらずに、マスコミに対しても、どんどん発言しようよ。インターネットも発連してきていることでもあるし。

世間的な空気を読まず、おかしいものは、おかしいという。それが、ガリレオなど以来の、科学や学問の伝統と使命であるはずである。

この世の権力や、栄華の巷を低くみる科学や学問の矜りであったはずである。

権威や権力は、とかく、腐敗しやすい。  



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