歴史上のことを考えるさいに、「年代」が必要であることは、地図に、緯度や経度が必要であるのにも似ている。
たとえば、第十代の崇神天皇は、実在の人であるとして、いつごろの人なのか。ある事件がおきたのは、いつなのか。ある遺跡や遺物は、いつつくられたものなのか。
「年代」は、歴史を構成する脊柱である。
「歴史を構成する」とは、天皇や事件、遺跡、遺物を、「年代」という太い一次元の座標軸上に、統一的に位置づける作業であるともいえる。
しかし、人間は、なかなかリアルに、「年代」を把握することができない。
古い時代の年代は、客観的な真実の年代よりも、より古く考えがちであるという無意識の傾向をもつ。
このような傾向があるということじたいを、強く意識化し、たえず用心する必要がある。このような無意識の傾向あるいは欲求を、「年代延長欲求」と名づけよう。「年代延長欲求」じたいが、しばしば、日本古代史混迷の元凶となっている。共同体がもつ幻想の源となっている。
旧石器捏造事件のさいは、五十万年、七十万年と、年代がくりあがっていっても、専門家も、ふしぎと思わなかった。専門家も、マスコミも、夢のような「年代」にひきずられていった。そのような年代が、教科書にものった。
『日本書紀』の記す古代の年代は、大はばに延長されている。しかし、第二次世界大戦がおわるまで、千年以上のあいだ、『日本書紀』の記す年代が、基本的には信じられていた。
第二次世界大戦以前には、『日本書紀』の記す年月日にもとづいて、「紀元節」が祝日として定められていた。
現代の古代史や、考古学の年代も、ともすれば古いほうへ、古いほうへとなびきがちになっていないか。科学的年代論の示す結果との「くいちがい」が、大きくなっていないか。そのような「くいちがい」を「年代延長欲求」によって、無意識のうちに無視したり、見おとしたりしていないか。
年代のばあい、多数意見のようにみえるものに、不用意にしたがうのは、しばしばまちがいのもとである。
本誌本号の特集は、そのようなことをたずね、警鐘を鳴らそうとしている。
その警鐘の真偽のほども、また、検討される必要がある。
いずれにしても、「年代」をリアルに把握するには、「年代延長欲求」じたいを意識化し、「客観化」を教える現代諸科学の方法も援用して考える必要がある。
「年代」という太い座標軸そのものをしっかりと定める必要がある。
本誌本号では、その討論の材料をまとめてみようとした。
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