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真贋の森にわけ入(い)る

(季刊邪馬台国120号 巻頭言)                      安本美典



季刊邪馬台国120号

 『背信の科学者たち』(ウィリアム・ブロード、二コラス・ウェイド共著、牧野賢治訳、ブルーバックス、講談社、2006年刊)という本がある。「論文捏造、データ改ざんはなぜ繰り返されるのか」という副題がついている。
  この本の訳者序文は、つぎのような文章ではじまっている。
  「日本科学者コミュニテイは、このところ激震に見舞われている。捏造、改ざん、盗用など、科学研究における不正行為の発覚が相次いでいるからである。」
  この本の翻訳は、2006年に出版されている。しかし、この訳者序文のことばは、今でもまったく色あせていない。
  薬の治験(ちけん)[臨床試験]データの改ざん、iPS細胞を使った世界初の心筋移植手術報道など、・・・・・。
  そして、わが国の古代史の分野も、「背信の研究者たち」があとをたたない。
  さきの本のなかで、考古学の分野での事件としては、「ピルトダウン人事件」が、紹介されている。化石人類の骨の捏造事件である。
  この事件の骨は、イギリスのサセックス州のピルトダウン村の砂利採掘場で、1908年に発見されたとされる。頭蓋骨と下顎骨が、現生人類の直系の最古の祖先の化石であるとされた。専門誌にくわしく発表された。その「最初のヒト」は、「曙人(夜明けの人)」と名付けられた。しかし、その骨は、ヒトの頭蓋骨に、オランウータンの下顎骨をつけた捏造物であった。
  すり減った臼歯は、やすりで細工をしたものであった。オランウータンの下顎骨とヒトの頭蓋骨とは、外見を年代物に見せるために、巧妙に加工したものであった。
  捏造物であることが、明らかになったのち、人類学者のル・グロ・クラークは、のべているという。
  「人工的に研磨されたという証拠は歴然としており、事実、非常にはっきりした偽造物だったのに、どのような理由でそれが気付かれなかったのかをむしろ問いただしたい。」この「ピルトダウン人事件」は、近代科学史上、最大のイカサマとされた事件であった。
  しかし、2000年に発覚したわが国での「旧石器捏造事件」が、その大規模性、イカサマ性で、「ピルトダウン人事件」を上まわる。教科書にまでのった一連の旧石器が、偽造物だったのである。国庫から支出された金がまわっていって、捏造者F氏の生活をささえていたという。これは、詐欺というべきである。
  しかし、F氏が詐欺で、立件されたという話はきかない。
むしろ、F氏はかくまわれた、という印象さえうける。

 おかしな事件は、まだたくさんある。
  『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』は、その古文書の発見者のW氏が、捏造者で、一連の古文書を捏造し、その古文書に合うような遺跡・遺物をディズニーランドをつくるような感覚で捏造していった事件である。しかし、いまだに『東日流外三郡誌』は、本ものだという本を書いている「研究者」がいる。
  「永仁の壺事件」は、重要無形文化財有資格者(人間国宝)のK氏が、「永仁の壺」なるものを偽作した事件である。その壺のことは、『考古学雑誌』の1943年7月号に紹介された。壺は、重要文化財の指定をうけた。K氏は、堂々と、偽作の壺の写真を、『陶器辞典』に掲載し、みずから解説を執筆し、鎌倉時代のものであるとして紹介した。
  梅原末治は、京都大学の教授で、わが国の考古学界の大権威であった。梅原は、伝橿原市出土、大和鳥屋千塚出土などの古代の勾玉を紹介した。しかし、その八割以上が、現代技法によって作られたものであった。そのため、ガラス工芸の専門家の由水常雄(よしみずつねお)氏から徹底的な批判をあびることとなった。鉛ガラスでなく、ソーダガラスであること、ビール瓶を溶かして作られた独特の色をしているもののあることなどが指摘された。
  世間的に名のある人たちが、堂々というか、厚かましく、イカサマものや、アブナイものを世間に喧伝する。
  このような事例をまとめれば、ゆうに何冊もの本が、書けそうである。じじつ、「『東日流外三郡誌』事件」や「永仁の壺事件」、「旧石器捏造事件」などでは、それらの事件について、まとめた本がでている。
  見方によっては、薄弱な根拠、あるいは、容易に反証をあげられるような根拠をもとに、箸墓を卑弥呼の墓にあてはめて大宣伝したり、大きな建物跡がでてくれば、卑弥呼の宮殿だといってさわいだりするのも、W氏が『東日流外三郡誌』事件で、関連遺跡、関連遺物をつぎつぎにつくっていった方法と、よく似ている。
  証明するよりも、世間に宣伝する方が先行してしまっている。それによって、既得権益を守るなど、なんらかの利益が得られると思うからそうするのであろうか。
  そうかといって、疑いすぎるのもよくない。本ものを、偽ものとしてしまう危険が生ずるからである。
  第二次世界大戦後、はやりのようになっている津田左右吉流の文献批判学なども、その基本的な方法は、十九世紀のものである。とても、現代の科学的な意味で、真贋を弁別する客観的基準や技術を提供しているとはいえない。
  津田左右吉流の抹殺博士的方法にしたがうのは、たんなる迷路、不可知論にふみこむことになるだけである。
  歴史を考えるには、そのもととなる資料の真贋問題に、どのように対処するかについての検討が必要である。
  この号では、そのような問題について考えてみようと思う。

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