『出雲国風土記(いずものくにふどき)』は、大原郡の条で、「神原(かむはら)の郷(さと)」について記す。
ここは、「[大国主(おおくにぬし)の命(みこと)が、]御財[みたから](神宝)を積んでおいた所」であるという。
「神財(かむたから)の郷(さと)」というべきなのを、誤って、「神原(かむはら)の郷(さと)」といっているという。
そして、この地の加茂岩倉遺跡から、1996年に、39個の大量の銅鐸が出土した。加茂岩倉遺跡は、神原の郷、または、そのとなりの屋代(やしろ)の郷(さと)に属していたとみられる。神原の郷も、屋代の郷も、『出雲国風土記』に大国主の命が活動していたと記されている。
この銅鐸こそ、「(大国主の命の)御財(みたから)」とみるべきではないか。
古典は、銅鐸のことを、記憶しているのではないか。
大国主の命がいたとされる出雲の国。饒速日(にぎはやひ)の命(みこと)の子孫が国造(くにのみやつこ)になっている遠江(とおとうみ)の国。
出雲の国(島根県)を西の極とし、遠江の国(静岡県)を東の極とし、この二つの極のあいだに、他の銅鐸出土の諸国はならぶ。
出雲の国と遠江の国とを両極とする座標のうえに、銅鐸の出土状況を位置づけ、古典を参照することによって、各国の歴史的特徴が浮かびあがる。
古代の歴史が浮かびあがる。
古代史の闇から、姿をあらわす三つの勢力。すなわち、大国主の命によって、象徴される出雲の勢力。北九州から東遷した饒速日の命の勢力。南九州から出発したとされる神武天皇によって象徴される勢力。この三つの勢力の角逐(かくちく)。銅鐸の背後にある諸氏族の影が浮かびあがる。古代史は、はじめて、「だれが」、「いつ」、「どこで」、
「なにをしたか」の、真の歴史の姿をとりもどす。
考古学は、大きな成果をもたらした。しかし、考古学だけでは、「だれが」が抜ける。
また、銅鐸の年代を、全般的に古くみすぎる傾向があるため、古典と結びつかず、見とおしが悪くなっているところがあるとみられる。
今、伝説が、よみがえる。