邪馬台国問題は、簡単な探索問題
本誌の前号、121号の「編集後記」で、編集部の白石洋子が、STAP細胞のことにふれている。いわく、
STAP細胞存在の疑惑問題が連日のようにマスコミで報道されているが、記者会見が行なわれた時には、この万能細胞はノーベル賞に値する世紀の大発見であり、医療界の救世細胞だなどと最大限の賛辞を並べ立てて大騒ぎをしていたのは、同じようにマスコミであった。これより少し前には、現代のベートーベンともて囃(はや)された男が、実際には全聾ではないどころか、作曲そのものがすべてゴーストライターの手によるものであったということが明るみに出たが、この騒動もまたマスコミが大きく関与していたようだ。
一連の件で真っ先に思い出すのは、14年前に毎日新聞のスクープによって発覚した旧石器捏造事件である。日本考古学界最大のスキャンダルとされ、本誌でも幾度か取り上げたので記憶に新しいのでないだろうか。日本の前期・中期旧石器時代の遺物や遺跡だとされていたものが、全て捏造だったと発覚した事件である。」
そしていま、「纒向=邪馬台国の地」などの説に、ここに紹介されているような諸事件を重ねあわせる人々がふえてきているようにみえる。
「纒向=邪馬台国説」などは、ほんとうに、「エビデンス(科学的根拠)」が、提出されているのか。
STAP細胞の論文事件のさい、その論文に示されている写真などの資料についての疑問点を、もっとも早く指摘したのはマスコミでも学界でもなかった。インターネットであった。
インターネットは、いまや、衆知を集める道具となりつつある邪馬台国論争は、『魏志倭人伝』の記述に端を発する。
『魏志倭人伝』の記述を尊重したばあい、「纒向=邪馬台国説」がなりたつ余地などは、ほんとうに存在するのか。
現在、自然科学、社会科学、人文科学を問わず、ある仮説を採択するか否かの決定を、統計学などにもとづく確率計算によって、客観化する手つづきは、常識化している。
それは、薬のききめがあるか否かの判断でも、タバコに害があるか否かの問題でも、教育の効果の測定のばあいでも同じである。
たとえば、統計学や、作戦計画(オペレーションズーリサーチ[OR])の分野に、「探索問題」とか「索敵問題」とかいわれる問題がある。これらは、そのまま邪馬台国の探索問題につながりうる。
「探索問題」や「索敵問題」。というのは、つぎのような問題である。
(1) 探索問題 最近(2014年3月8日)、マレーシアの航空機が行方不明になるという事件があった。この種の事件は、これまでにもたびたび起きている。
1966年1月16日に、アメリカのノースカロライナ州のセイモア空軍基地から、四つの水爆を積んだジェット爆撃機がとび立った。ところが、その爆撃機は給油機と接触し、燃料が爆発し、七名の乗務員が命をおとした。乗務員と、水爆と、飛行機の残骸が、空から降りそそいだ。しかし、幸いにして、核爆発は起きなかった。
四つの水爆のうち、三つは、事故後、二十四時間以内に発見された。ただ、最後の一つの水爆がみつからなかった。
大ざっぱにいえば、このようなばあい、爆弾の沈んでいそうな場所を含む地域についての確率地図をつくる。海面または海底の地図の上に、メッシュ (網の目)をかぶせる。
小さい正方形のグリッド(格子)に分ける。そして、その一つ一つの正方形(セル、網の目)についての情報をデータとしていれる。そして、爆弾がそのセルに存在する確率を計算する。このようにして、爆弾が沈んでいそうな場所を示す確率地図をつくる。
1968年にも、ソ連とアメリカの潜水艦が、乗組員もろとも、行方不明になっている。
(2) 索敵問題 基本的には探索問題と同じである。ただ、逃げまわるターゲットや人間の操縦で動いている目標物の位置をとらえたり、追跡したりする。
本誌118号では、基本的に、探索問題を解く方法によって、邪馬台国の場所を求めている。
邪馬台国問題は、統計学や確率論の問題としては、ふつうの「探索問題」や「索敵問題」にくらべ、はるかに簡単な問題である。
それは、つぎのような理由による。
(1) 「探索問題」では、セル(正方形、網の目)の数は、一万ヵ所ていどにはなる。セルの数がふえると、確率計算は急速に面倒なものとなる。
邪馬台国問題のばあい、「どの県に邪馬台国はあったか」という形で、「県」をセルとして用いれば、対象となるセルの数は、50たらずである。卓上計算機ででも、根気よく計算すれば計算できるていどの問題である
(2) 「鉄の鏃」「鏡」など、『魏志倭人伝』に記されている事物などの、各県ごとの出土数などを、データとして入れていく。このばあい、「索敵問題」などと違って、遺跡・遺物などは、動かない。逃げまわらない。
統計的方法については、統計学者の松原望(まつばらのぞむ)氏[東京大学名誉教授、現聖学院(せいがくいん)大学大学院教授]とともに検討した。
松原氏は、この種の統計学の、わが国での第一人者といってもよいと思う。
もちろん、私たちがあらたに工夫したところは、すくなくない。
たとえば、ふつうの「探索問題」では、それぞれのセルのなかにふくまれている点(情報)の数を数え、全体の点の数に対する比(パーセント)を求め、それを初期確率(事前確率)として計算をすすめる。
邪馬台国問題でいえば、各県ごとの、たとえば、鉄の鏃(やじり)の出土数を数え、その全体の出土数に対する比、すなわち出土率を、初期確率として用いるようなものである。
この方法で行なっても、私たちが用いた方法で行なっても、最終結果は同じになる。ただ、私たちは、モデルの適切性、厳密性を考え、確率と確率との比(たとえば、奈良県からの出土数と、福岡県からの出土数との比)を、計算の出発点として用いるなどのことをしている。
そして、得られた結果は、つぎのようなものであった。
邪馬台国が、福岡県にあった確率 99.9%
邪馬台国が、佐賀県にあった確率 0.1%(千回に一回)
邪馬台国が、奈良県にあった確率 0.0%
この結果は、ふつうの統計学の基準、科学の基準では、邪馬台国は、奈良県にあったとする仮説は、棄却すべきであることを示している。「邪馬台国が奈良県にあった」とする仮説は、十分な安全さですてることができる。(くわしくは、本誌118号参照。)
これは、「邪馬台国が福岡県にあったこと」の「エビデンス(証拠)」になりうる。
邪馬台国は、奈良県には存在しないのに、卑弥呼の宮殿や、墓が、纒向にあったりすることがありえようか。
「邪馬台国=畿内説」は、なにか、夢でもみているのではないか。
蜃気楼(しんきろう)ということばがある。蜃気楼の「蜃」の字は、「ハマグリ」のことである。古代の人々は、大ハマグリが吐き出す息によって、空中に楼台などが現れると考えたのである。
司馬遷の『史記』に、「蜃気は、楼台を象(かたど)る」とある。そのため、蜃気楼のことを、「貝(かい)やぐら」ともいう。
卑弥呼の宮殿、卑弥呼の墓などというのは、蜃気楼ではないのか。
それにしても、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の居処について、「宮室・楼観[ろうかん](楼台、たかどの)、城柵、おごそかに設け、・・・・」と記している。纒向からは、大きな建物あとはでていても、楼観や城柵(じょうさく)のあとが出ていないのは、どうしたことか。
(九州の吉野ヶ里遺跡では、これらのものも出ている。)たとえ奈良県で発見の卑弥呼の宮殿が蜃気楼であるにしても、そこには、「楼台」の姿がみえない。
情報考古学会などをのぞく旧考古学の分野では、判断にあたって客観的な基準をもうけず、その世界での多数意見という漠然とした雰囲気によって、判断をきめることが常態化している。
その世界のなかでは、周囲の雰囲気を気にし、おかしいと思っても、あえて発言をしない。
そこでは、蜃気楼のような話にも、それを疑うリアリズムは成立しない。
このような状況では、旧石器捏造事件のようなことは、くりかえしおきうる。
そこでは、どんなに小さな確率でも、可能性があるかぎり、ある仮説を捨てることはできないというような発想に立つ。
考古学では、いつ、なにが、どこからでてくるかわからない。一発逆転は、いつもありうるわけであるから、そこに住む人々がいだいている仮説は、捨てるわけにはいかないというわけである。
かくて、「証明」はなおざりに、マスコミ宣伝は、熱心にということになる。およそ不自然な仮説が、まかり通る事態となる。
STAP細胞が、ほんとうに存在するのかどうかはわからない。しかし、STAP細胞以上に、「纒向=邪馬台国」は、存在のリアリティをもっているのか。
さきに紹介した松原望教授は、私たちの研究を紹介した『文藝春秋』の2013年11月号でのべている。
「統計学者が、『鉄の鏃』の各県別出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています。」
「私たちは、確率的な考え方で、日常生活をしています。たとえば、雨が降る確率が『0.05%未満』なのに、長靴を履き、雨合羽を持って外出する人はいません。」
探索問題において、確率分布地図をみながら、可能性がほとんど0(ゼロ)のセルの地域に、やたらに潜水夫(ダイバー)をもぐらせる。
ある人がたずねる。
「どうして、可能性0(ゼロ)の水域を優先してダイバーをもぐらせるのですか。可能性の大きいところを優先してもぐらせるべきではないのですか。」
これに対して、つぎのような答えが返ってきたらどうであろう。
「いやあ、潜水夫をやとう予算をとってしまいましたからね。濳水夫たちの生活のことも考えなければならないのです。」
邪馬台国問題も、どうも、これに近い状態になってきているようにみえる。
邪馬台国の場所を求めるという本来の目的は、どこかに行っている。
理化学研究所(以下、理研)などが、STAP細胞についてのはなやかな発表を急いだのも、予算獲得の問題も関係していたともいわれる。
しかし、このような方法は、公共の予算の無駄づかいになる。結局は、理研の評判を落とすことになる。考古学でも同じようなことが起きつつあるようにみえる。
事情をよく知らない人は、マスコミ報道される結論だけを見て、考古学の分野でも、他の分野と同じような科学的手つづきがとられているのであろうと思ってしまう。
しかし、本誌で、これまでにものべてきたように、また、本誌本号で、以下に、ややくわしくのべるように、実は、そうではない。
そこでは、現代科学に共通な、基本的手つづきがとられていない。
邪馬台国=畿内説の人々は、どんなに成立の可能性の小さい仮説でも、「完全に」否定されないかぎり、支持し、宣伝する価値があると思いこんでいる。
そのため、いたるところに事実との撞着、相互矛盾、『魏志倭人伝』の記事の無視などがおきている。
この号では、そのようなことを特集した。