学問や科学がかかる二つの病気
邪馬台国問題がSTAP(スタップ)細胞問題に、ひどく似てきている。
STAP細胞は、存在するのか?
邪馬台国は、奈良県に存在したのか?
この二つは、同一の次元で語られてもよい状況にあるといえる。
この二つは、宣伝は、はなやかであったが(あるいは、はなやかであるが)、エビデンス(存在証明)が示されていない。
ともに、証明が、ひどく杜撰(ずさん)である。
ともに、夢物語である可能性が、きわめて大きい。
そして、大きな金の動く利権構造が、すけて見えるのも共通している。予算獲得のためのツールになっているところが似ている。
さらに、存在を主張する人たちは、存在を強く信じこんでいるところも似ている。
学問も、科学も、ときどき、大きな病気にかかる。
いま、その病気のうちの、つぎの二つをとりあげよう。
① 意図的な詐欺タイプ
② 根拠のない思いこみにもとづく妄想タイプ
この二つは、相互に関係するが、その構造を、すこし分析しておこう。
意図的な詐欺タイプ
旧石器捏造事件や、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』偽書掻動事件などは、基本的に、このタイプである。
旧石器捏造事件の藤村新一氏や、『東日流外三郡誌』の和田喜八郎氏は、あきらかに、意図的な捏造を行なっている。
森口尚史氏(もりぐちひさし)の、iPS細胞による世界最初の臨床応用のマスコミ発表なども、このタイプに属するといえよう。ところが、それにのっかる人たちは、②の「思いこみにもとづく妄想夕イプ」に近づく。
これを、つぎの「透明魚(トランスパレント・フィッシュ)」の寓話にたとえよう。構造が、見えやすいであろう。
立派な机の上に、見たところ、豪華な水槽が、一つおいてある。そばに、大きな看板がかかっている。
「本邦初紹介。
ガラパゴス諸島のサンタクルス島で捕れた本物の透明魚(トランスパレント・フィッシュ) 」
大道香具師(やし)が、つぎのようなことを述べる。
いかに苦心して、南米沖合のガラパゴス諸島のサンタクルス島に行ったかを述べる。現地の確実に信用できる某氏から、邦貨二億三千万円を支払って手に入れた経過を述べる。ダーウィンが、ビーグル号でこの地に達し、この地での観察をもとに進化論をたてたことを述べる。この地には、イグアナとか、ゾウガメとか、世界の珍種といわれるものが豊富に存在していることを、そばにはられている写真を示しながら説明する。
細部の説明は、非常に詳細で、香具師は、自信をもって述べるのであるが、どれ一つとして、「透明魚」が存在しているという証明になっていない。
看板と説明とにひきつけられた見物人が、好奇心にかられて、水槽をのぞきこむ。水槽のなかには、水と水草とがあり、水草の間から、細い送気ホースから出る銀色の水泡があがっている。
ある人は、いくら目をこらしてみても、水槽の中に、「透明魚」がいるようにはみえない。そこで、そのことを述べる。すると、香具師は、大声で、痛烈な批判のことばをあびせる。
「みなさん。白昼、目の前におかれている魚が見えないという。このような人は想像力と科学的思考力とが欠如しているのですね。
確かに、この魚は見えにくい。透明魚の名のあるのは、もっともなことです。しかし、水泡のためではなく、透明魚のために水草が、ゆれているのが目にうつりませんか。ほら、与えた餌を透明魚がつついているので餌が動いているのが目にはいりませんか。
水草のゆれや餌の動きが、魚によるものであることは、子供がみてもわかること。くもりのない判断力をもてば、子供でもわかる因果の法則があんたにはわからないの?」
ここに見られるのは、ないものをあるとする奇妙なロジックである。水草のゆれも、餌の動きも、透明魚以外の原因によることが考えられるが、香具師は、断固として他の原因はみとめない。
香具師の腕まえは、見物人に自分に都合のよい材料を、自分に都合のよい角度からみせることによって、いかにフィクショナルな事実をみとめさせるかにかかっている。そのうち何人かの人々が、「本当に見える」といいはじめる。マスコミもとびつき、大さわぎとなる。ショウは、連日、おすなおすなの盛況である。
「本当は、いないのにあんなに自信をもって詳細な説明ができるはずがない。」
「有名人の某さんも見たといっている。」
「本当はいないのに、信用あるマスコミがとりあげるはずがない。」
あとは、すわっていても見物人はやってくる。要するに、香具師は透明魚がいると述べさえすればよいのである。香具師は、投下資本の、極端にすくない商売をしている。
透明魚がもしかしたらいるのかもしれないと思う人がいるかぎり、あるいは、話のネタに透明魚を見た、と言いたい人がいるかぎり、見物人はたえることはない。
根拠のない思いこみにもとづく妄想タイプ
学問の世界での「妄想」は、病理的な、一般的「妄想」ときわめて近い性質をもっている。
一般的な「妄想」の本質は、根拠のない主観的な信念であって、事実や論理、あるいは反証や説得によって、訂正されることはない。そして、それは、「妄想欲求」に基づいている。
一般的な「妄想」の中にも、種々のものがあるが、その中に、「体系化妄想」といわれるものがある。一貫したテーマがあり、脈絡のある体系をもつ妄想で、推理に推理が重ねられてゆく。
パラノイア(偏執病)などに、典型的にみられるもので、幻覚などは、ともなわない。
ドイツの精神医学者、クレペリンは、「内的原因にもとづき、持続的、確固とした、動揺しない妄想体系がしだいに進行したもので、思考、意志および行為の明晰性と秩序を、完全に保持しているもの」と定義した。
体系化、組織化された妄想の世界は、「妄想城府」「妄想建築」などとよばれている。纒向遺跡で発見された大型建物が、卑弥呼の宮殿だなどというのは、この種の妄想の一種であろう。そこには、『魏志倭人伝』に記されている「城柵」や「楼観」などは、発見されていないようにみえる。しかし、小保方晴子さんと同じく、信ずる人たちには、ないものも見える(視覚的にではなく、観念的に)。
纒向に卑弥呼の宮殿は、たしかに存在する。それは、三世紀の奈良県にあったのではなく、二十一世紀の学者たちの、頭の中の、観念の城府として存在する。
「体系化妄想」の中には、たとえば、「血統妄想」といわれるものがある。
紳士がいる。その人の日常生活については、なんらの異常もみとめられない。むしろ、ふつうの人よりも、典雅で、明晰な判断力をそなえている。ただ、一点だけ、ふつうの人と異なるところがある。それは、「血統」について、この人がもっている「観念」である。
この人に、「あなたのお父さんはだれですか」ときく。
そうすると、「自分は昭和天皇の子である」という。昭和天皇が、宮中のある女性に生ませた子供であるという。ある事情があって、民問の人の子として育てられたという。
そして、この「血統」について、この紳士は、きわめて、豊富な資料をもっており、また体系的な説明を行なう。ふつうの人が、この紳士の主張を否定するのは、きわめて困難である。
また、「好訴妄想」といわれるものがある。自己の正当性を、あくまで信じて、他と争い、訴訟に訴訟を重ねるものである。自己の正当性を信ずるものには、この他に、宗教的妄想や、発明発見妄想などがある。
古代史研究において、一般的な意味で、「正常」な人々が、しばしば、「古代妄想」におちいるのは、「人間」というものについて考えるにあたって、大変興味のあることである。
「古代妄想」か否かは、結局、実証性が、どのていどつらぬかれているか、良識的な科学的「論理」が、どのていど保たれているかによって判断する以外にはない。
現代のように、一般の多くの人々も、古代史研究に興味をもち、マスコミもまた、古代史研究を好んでとりあげるような時代においては、「古代妄想」そのものについての研究が、やはり必要であるように思える。
一般の人々も、「古代妄想」についての、あるていどの見とおしや判断力を必要とする時代であるといえよう。
「偉大な思想は、妄想と紙一重」という言葉もある。マルクス主義のために、たくさんの人々が死んだ。マルクス主義もまた、妄想の一種なのかもしれない。
STAP細胞存在説とか、邪馬台国畿内説というのは、善意に解釈し、この妄想タイプであると考えよう。
これを、寓話に求めれば、アンデルセンの童話の「裸の王様」があげられよう。
信じこんだ王様には、存在しない衣装が、見えてしまうのである。
そこまでならよい。ご愛敬である。
しかし、そこに、名誉欲、利害関係その他がからんでくると、①の意図的なものに、近づいて行く。
「我田引水」「針小棒大(しんしょうぼうたい)」「羊頭狗肉(ようとうくにく)」が、幅をきかせるようになる。「羊頭狗肉」となれば、さきの①の「意図的な詐欺タイプ」に近づく。
『弥生時代鉄器総覧』の話
広島大学の教授であった川越哲志(かわごえてつし)氏は、2005年になくなられた。63歳であった。
川越哲志氏のまとめられた本に、『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)がある。
弥生時代の鉄器の出土地名表をまとめられたもので、現在も、邪馬台国時代の鉄器などについて考えるさいの基本文献であることを失わない。
そこには、鉄器についての、厖大なデータが整理されている。
『魏志倭人伝』などには、鉄のことがいくつか記されている。
①倭人は、兵器に、「鉄鏃」を用いる、とある。
②倭人は、兵器に「矛」を用いるとある。この「矛」は、鉄の矛と考えられる。
広形銅矛などは、武器になりえない。
③魏の皇帝は、卑弥呼に、「五尺刀二口」を与えたと記されている。この「五尺刀」は、鉄の刀と考えられる。「五尺刀」は、長い刀である、銅の刀であれば、ねばり気がないので、長い刀は折れやすい。
④『魏志』の「韓伝」の弁辰の条に、つぎのようなことが記されている。
「(弁辰の)国は、鉄をだす。韓、濊、倭、みな、これをとる。」
この記事は、倭人が、鉄を用いたことを示している。
また、『魏志倭人伝』には、つぎのように記されている。
「卑弥呼が死んだあと、あらためて男王を立てたけれども、国中がそれに従わず、殺しあいをした。当時千余人が死んだ。」
人を殺すのには武器を用いたはずである。その武器には、鉄の矛、鉄の刀剣、鉄の鏃などを用いたとみられる。
ところで、『弥生時代鉄器総覧』の出土地名表をみると、福岡県には、49ページさかれている。これに対し、奈良県には、1ページしかさかれていない。
「邪馬台国=奈良県存在説」を説く人々には、この愕然とするほどの圧倒的違いが、目にはいらないのだろうか。
たとえば、鉄の鏃をとりあげてみよう。
福岡県からは、398個の鏃が出土しているのに、奈良県からは、わずか、4個の鏃しか出土していない(いずれも、「鉄鏃?」などとあって、疑問のあるものは除く)。
しかも、奈良県の4個のうちの3個は、「時期」が、「終末期~古墳初頭」となっている。邪馬台国時代よりも、時代が下がる可能性もある。
矛なども、福岡県からは、出土例がみられるが、奈良県からの出土例は、みられない。
「邪馬台国奈良県所在説」は、大きく事実無視の議論をしているのではないか?
研究の良否
以上のようにみてくると、邪馬台国問題についての研究の良否を判断するめやすとして、すくなくとも、つぎの三つをあげることができるであろう。
① 仮説を検証するさいに、みずからの観念以外の、そのときそのときによって動かない、なんらかの客観的な基準、モノサシをもっていること。そのような基準があるばあいは、検証によって、自分の予想(仮説)とちがう結果がでたばあいに、みずからの仮説をなおしていくことができる。みずからの観念を基準としているばあいは、どのような結果も、みずからの仮説にあっていると判断されるであろう。統計学的な仮説検定論などは、このような客観的な基準の役目を果しうるとみられる。
② 推論をおこなうさいに、まず、基礎的な具体的、客観的な新しいデータを提示しているものであること。
一般意味論の学者、S・I・ハヤカワがわが国に来たとき、つぎのように述べたことがあった。
「事実を見、事実に基づいて考える人なら、立場の違う保守主義者と共産主義者とでも話しあいができる。しかし、事実をみないで、ことばだけで考える人なら、同じ保守主義者同士、同じ共産主義者同士でも、話あいができない」
③ とっている方法が、現代科学の共通の基盤のうえに立っているものであること。つまり、その時代の科学技術の進歩に呼応できるものでなくてはならない。科学は、どんな科学でも、それだけで孤立してしまうと、みずからの科学性を喪失してくるものである。
辻本武氏は、「旧石器捏造事件」に関連し、「学界はついにカルト宗教と化す」と、痛烈な批判をのべている(「『旧石器捏造事件』考」本誌116号、2013年)。
「カルト」は、ふつう「少数の人々の狂信的な崇拝支持」をいう。考古学のような多数の人々の属する学界が、学問分野全体のなかで、カルト化することはめずらしい。
しかし、考えてみれば、中世のキリスト教は、科学の歴史全体のなかでは、カルト化していたようにもみえる。第二次大戦中のわが国や、ヒトラーのもとのドイツも、カルト化しているようにもみえる。
わが国の考古学のリーダー諸氏は、とかく、現代の科学技術の進歩に、無関心な傾向がある。ムラ化する危険性が、多分にある。
客観的な基準、あるいは検証の方法を求めようとせず、また、客観的、具体的な事実を提出しようとせず、推論の客観性を求めず、たんに、仮説の提出と、ことばだけの議論におわっているものがあるとすれば、それは、これからの邪馬台国研究においては、それほど大きな意味を与えることができないであろう。
「丸い」という日常使うことばだけでは、理論は、あまり発展しない。「円」を厳密に定義し、抽象化することによって、理論や議論は、客観的に発展する。具体的な事実の記述だけでなく、測定し、数量化し、統計的にあつかい、抽象化することによって、学問や科学は、客観的に発展する面があるのである。
厳密に定義をしていないことばだけの議論では、黒も白と、四角い豆腐も「丸い」と主張する人たちがでてくる。
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