離島には日本の古層が残るという。翻っていえば、古の時代より倭人は島を行き来し、文化の伝播と独自の発展があったことの証ともいえるだろう。
九州のなかでも式内社が圧倒的に多い壱岐・対馬には、神道の源流があるともいわれているし、南西諸島には大宰府の役人たちが入植し、農耕をもたらした痕跡まであった。「魏志倭人伝」のなかで、壱岐・対馬は「船に乗りて南北に市糴(してき)[交易]す」とあるように、太古の時代より縦横無尽に海を行き来することで生活を営んできた海人たちの活躍が目に浮かぶ。
人はなぜ遠くを目指すのだろうか。食べることに困って、より豊かな土地を目指して移住や航海を繰り返していったことは、「ホモ・モビリタス」と呼ばれるほど、移動が活発だった人類ならではの生態ともいえる。狩猟採集に頼った生活は、自然環境に与える影響が大きい。その人口増を支えるにはより大きな自然環境が必要になっていくからだ。だからこそ、地域で飽和状態になった人口は、あらだな土地を求めて旅立っていく。
一方で、「食べるために移住」するのではなく、「行き来することで、食べていく」遊牧民のような者たちもいた。
飽和した地域からの移住だけでなく、「価値」を求めて日常的に荒波を越えて行った「海の遊牧民」ともいえる、古代海人たち。彼らにとっては、島は決して離れているものではなく、海でつながれたひとつの世界の一部のように映っていたのかもしれない。
そんな航海の「成功者」の足跡は、離島に残る遺物や文化などから伺い知ることができる。一方で、成功者たちの陰にどれだけの犠牲者があったかは計り知れない。諸説あるが、7世紀から9世紀にかけて唐に派遣された遣唐使船は36隻におよび、そのうち戻ってきたのは26隻だという。
古代の丸木舟での航海では、どれだけの航海者たちが命を失ったか、想像に難くない。勇敢な航海者たちがっけた足跡から、日本の古層、日本人の原点のようなものに迫ることができれば幸甚である。