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まつろわぬものは、まつろわぬまま

(季刊邪馬台国146号 巻頭言)                      編集部



季刊邪馬台国1465号

 古代、律令国家という単一の国家観が芽生え、日本列島に大きな変革が訪れるなか、蝦夷と隼人は大和に「まつろわぬ」存在として位置づけられ、まつろわぬものは、まつろわぬまま、ひとつの国家に組み込まれていった。
  近畿の大和王権の視点から見れば、東北の蝦夷も、南九州の隼人も「夷狄(いてき)」であるが、大陸の中華思想から見れば、日本もまた「夷狄」のひとつに過ぎない。そして大和王権は、「夷狄」として中華思想に組み込まれることを容認しつつ、朝鮮半島での覇権争いなどに、中華の権威を活用した。さらに、蝦夷や隼人という「夷狄を従えていること」を、中華内における権威の向上に利用もしていた。
  大和王権による支配領域の拡大のなか、近習として朝廷に仕えた隼人がいる一方で、九州の南で屈服を拒み続け争った隼人もいた。俘囚として朝廷の支配下に入った蝦夷もいれば、東北の地で反抗を続けた蝦夷がいたのもまたしかり。しかし、彼らは大和の支配を受け入れるか否かにかかわらず、蝦夷は蝦夷であることを、隼人は隼人であることをやめなかった。
  その背景には、古代の日本は、単一民族化をめざす同化政策ではなく、むしろ異質な存在をそのまま取り込む、多様性を受け入れる政策をとっていたということがあるのかもしれない。つまり隼人や蝦夷を「大和人」として単一民族化するのではなく、「自分だちと違う民族である」というアイデンティティを残したのである。なぜ、大和王権は異なる存在をそのままにしたのだろうか。ひとつには抵抗されたからという側面もあるだろう。しかし、それだけでなく、異なるものを必要としていたのかもしれない。
  違うものは違うものなりに、違うということを認め合ってこそ価値が生まれる。国家という支配者の社会システムに組み込まれてなお、そのアイデンティティを絶やさず、つないできた「まつろわぬ民」たちの生きざまを、古代史から紐解いてみたい。

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