畿内説の主張

様々な研究者の見解を集めたので、邪馬台国は畿内にあったとする点では共通ですが、その他については、同じ項目の中でも、必ずしも意見が統一されてないことがあります。

  

地理的・政治的状況

  • 内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
    大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
  • 倭人伝の編者・陳寿は、邪馬台国と大和初期政権を同一と見ていた。しかも、呉・蜀への対抗戦略上の理由から、魏の同盟国である邪馬台国を誇張して表現し、九州島の彼方に巨大国家があったと記述した。


  

国家統一の状況

  • 倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
  • 邪馬台国には29ヵ国が従属しており、すでに中央集権的な体制になっていた。その勢力が、後の大和朝廷へ移行した。


  

倭国の大乱

  • 倭国の大乱は、九州地域内の紛争ではなく、畿内と北部九州の二大勢力の戦いである。九州から瀬戸内海全体、さらには畿内にまで広がる高地性集落が、倭国の大乱が全国的な戦乱であったことを物語っている。
    倭国では、大きな戦乱は3回あった。第1回は2世紀後半の倭国の大乱、2回目は3世紀中ごろの邪馬台国と狗奴国の紛争、3回目は卑弥呼の死後直後の倭国内の戦乱である。


  

女王卑弥呼

  • 日本書紀の神功皇后記では、卑弥呼は大陸とも交渉した偉大な女王ということからか、卑弥呼とは神功皇后のことであり、また、邪馬台国は大和であると示唆している。
  • 古事記記載の祟神天皇の没年干支(戊寅の年)をもとにすると、祟神天皇は258年に亡くなった。卑弥呼が没したのは、248年ごろと考えられるので、祟神天皇の時代は、ほぼ、卑弥呼の時代である。 祟神天皇の時代に巫女として活躍した倭迹迹日百襲姫こそ卑弥呼のことである。また、倭迹迹日百襲姫の墓である箸墓が、卑弥呼の墓である。


  

卑弥呼の鏡

  • 卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
    三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
  • 中国で全くこの形式の鏡が発見されないのは、卑弥呼のために特別に作ったもの(特注品)だからである。
  • 「景初四年」という実際にない年号が刻まれているのは、朝鮮で作られたもので、中国の改元を知らなかったか、来年用として、あらかじめ先に作られたものである。
  • 奈良県の3世紀の墓、黒塚古墳から、33枚もの大量の三角縁神獣鏡が出土した。邪馬台国が畿内にあったことを裏づけるものである。
  • これまでに出土した三角縁神獣鏡は500面を越える。これから推測すると、当時、5000面以上の鏡があったと思われる。これは、卑弥呼が魏からもらった鏡を真似て、国産のものが多数つくられたからである。


  

邪馬台国への道のり

  • 朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
  • 不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。


  

邪馬台国の方角

  • 倭人伝の邪馬台国の方角の記述には、写本時の写し間違いがある。
    不弥国から南へ行くと投馬国、さらに南に行くと邪馬台国という記述を、そのままたどると九州南方の海の中に行ってしまう。正しくは「東」であるのを、誤って「南」と書いたと思われ、「南して」を「東して」に読み替えるべきである。
    こうすると、投馬国は瀬戸内海のどこかであり、瀬戸内海を船で行き、10日後に山陽のどこかに上陸して、その後、陸行1月で大和に着いた、と理解できる。
  • 当時の人々は太陽が昇る方向を東と考えていた。船の航行が容易な夏の季節には、日の出の方向は、時計と反対まわりに45度ずれる。だから、南は実際には東南である。 不弥国から邪馬台国まで水行30日というのは、当時は、邪馬台国まで1月かかったことを意味する。平安時代の記録に、平安京から大宰府までの公定所要日数が30日とされていることも、これを裏付ける。
  • 15世紀の「混一彊理歴代国都乃図」に描かれたように、中国では、日本列島を東西に伸びているのではなく、九州が北に、本州は南にあるような、南北に長く伸びているという認識があった。それゆえ、倭人伝の編者陳寿は、不弥国からみると、東にある大和を、南にあると思い込んでいたのである。


  

邪馬台国への日数・距離



  

倭種の国



  

邪馬台国の人口



  

狗奴国

  • 狗奴国は東海地方、東北地方、関東地方に比定される。特に、東海地方は人口が多く、前方後方墳や、S字甕が分布が示すように、東海系文化をになう基盤があり、邪馬台国の対抗勢力でありうる。


  

投馬国

  • 投馬国は、山口県玉祖(玉の親・防府市)、広島県鞆(とも)の津(福山市)、島根県出雲、兵庫県但馬・敦賀などに比定される。投馬国を瀬戸内海と見れば、そこから水行二十日の邪馬台国は、当然、畿内になる。この場合、候補地としては吉備が有力。


  

地名

  • ヤマトは元々大和地方の呼び名であって、古くから奈良を中心に栄えてきたのである。歴史的にも文化的にも大和が日本の中心として栄えてきた。ヤマト(邪馬台)の国名が大和(ヤマト)朝廷に引き継がれたと見るべきである。
  • 邪馬台国の「ト」は、奈良時代の音韻法則から言えば大和の「ト」と同じ乙類である。邪馬台国候補地のひとつ、九州の山門の「ト」は甲類の音であり、大和とは異なっている。
    言語学的には邪馬台(ヤマト)がそのまま大和(ヤマト)になったと見るべきだろう。


  

記紀の神話

  • 『古事記』『日本書紀』の神話は、天皇家の権威を高めるために、6世紀頃に創作されたものであり、歴史的事実を伝えていない。


  

古墳・遺跡

  • 畿内では、黒塚古墳、ホケノ山古墳、纒向古墳など、新聞をにぎわす新たな考古学的発見が相次いでおり、古くから、この地域を大きな勢力が支配していたことを示している。
  • 大阪池上曽根遺跡の大型建物に使われたヒノキの柱根が、年輪年代法で紀元前52年に伐採されたものであることがわかった。早い段階から高度の文化を持った勢力が畿内に存在し、邪馬台国時代にはすでに前方後円墳が築かれていた。
  • 唐古・鍵遺跡は320ヘクタールの大環濠集落で、紀元前1世紀から紀元2世紀まで続いた遺跡で、「楼閣」があった。
  • 3世紀の日本は、九州から畿内までの広範囲ですでに統一されていた。3世紀初頭から4世紀後半の巨大集落である纏向遺跡(推定200ヘクタール)が、初期大和政権の首都の、有力候補地である。
    纏向遺跡では、瀬戸内海、山陰、北陸、東海地方などから運ばれた多くの土器が出土し、各地からの物資が集まる先進地域だった。また、祭殿、祭具が発見されている。
  • 「纒向古墳群」にある石塚古墳(93m)、大塚古墳、勝山古墳、矢塚古墳などの前方後円墳は、すでに3世紀初めに築造されており、その後の大和朝廷の大規模な前方後円墳に連続するものである。
  • 纒向遺跡はAD200年前に発生し、250年ごろ最盛期を迎える。300年前後に箸墓が完成した後、やがて衰退する。この経緯は、卑弥呼が共立され、臺與が跡を継いだ時代と合致する。箸墓古墳は卑弥呼か臺與の墓である。
  • 中国の三国時代には、九州の文化所産は貧弱となり、畿内の古墳のほうが副葬品が立派になる。また畿内の古墳からは多くの舶載鏡が発見されており、文化的に畿内のほうが進んでいた。中国との交流があったことが、この文化を進展させた。


  

遺物

  • 臺與の時代に布留式土器が出現し、大和から全国に広がる。これは大和が日本の中心であったからである。
  • 銅鐸が残らなかったのは、個々の村にわかれて生活をつづけていた人々が、そのムラの枠をすてて、より大きな規模の集団を構成することになったためである。







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